データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

四、稲荷神社保管の美術工芸品

 神社楼門 
 一六六二(寛文二)年の創建とせられ、第256図に見られるように、三間一戸屋根入母屋造り、本瓦ぶきの重層建物で、全体の容姿はよく均整がとれている。唐様の折衷式で、柱はすべて円柱で丸い石の礎盤の上に建てられている。江戸時代初期の建築で桜や唐草などの、思い思いの写実浮き彫りがほどこされ、桃山風の感じが現れている。大工は伊予の名工といわれた余土の治部と伝えられている。
 一九六九(昭和四四)年二月一二日に文化財として県指定を受けた。ちなみに、楼門棟札には次のように書かれている。

    寛文二壬寅年
  造稲荷神社楼門 玉体安穏太守武運氏子繁昌之所
  九月吉日 正遷宮神主高市大太夫      藤原盛芳

 現在の楼門は一九八八(昭和六三)年に解体修理したものである。

 錦手大形神酒徳利 
 伊藤五松斉の作品である。五松斉は尾崎の庄屋の出身で、はじめは三島の陶器工場で製作を始めたが、意にかなったものができなかったので、砥部に行って砥部焼を研究し、錦手の手法を用いて焼き上げた、第257図に示すような逸品である。(一九六九(昭和四四)年四月一日、市指定)

 十錦御酒徳利 
 郡中十錦を創始した灘町の小谷屋友九郎(号を乾斎・坤斎と称した)の作品である。第258図は乾斎作品中の逸品といわれるものである。(一九六九(昭和四四)年四月一日、市指定)

 唐様獅子置物外能面 
 友沢波六は市内灘町に生まれ、若い時から焼き物が好きで三島に行き、一心に研究していたが、三島の窯が廃止されたため、砥部に移住して研究し焼きあげたもので、第259図と第260図に示すとおりの立派なものである。

 山姥金時の絵 
 岸駒の傑作といわれている。姓は佐伯氏、岸駒はその号である。名は駒といい、岸駒のほかに可観基・華陽・天開翁など数号をもっていた。加賀の人で初め沈南蘋の画風を修め、後自ら一家の風をなして名声大いに振るった。従五位越前守に任ぜられたので、越前介岸駒といわれた。一七四八(寛延元)年に生まれ、一八三八(天保九)年に没した。九〇歳の長寿を全うした。
 山姥金時の絵は、縦が約一・五m、横が約六〇㎝の大額で、第261図に見られるとおり、愛情と出世と健康を意味した図柄は、五月のぼりの絵にもよく描かれている。(一九六〇(昭和三五)年八月一日、市指定)

 儀仗用太刀三振 
 刀装は江戸末期であるが、一振は鎌倉時代のもの、もう一振は室町時代のもので、りっぱなものである。そのほかにもう一振あるが、時代は明らかでない。

 神息長巻 
 宇佐の住人の作で、一二〇〇(正治二)年鎌倉時代のものといわれている。
 大変貴重な神宝である。

 弓具一式 
 稲荷神社は代々大洲藩の祈願所として藩主の信仰を厚くしていた。弓二張と矢は大洲藩の紋章がついている。これは一八七一(明治四)年八月に旧藩主加藤泰令が奉納したもので、重藤の弓二張と矢靫尻龍・壷胡ろく・旗一流がある。(一九六九(昭和四四)年四月一日、市指定)