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伊予市誌

一、美術・工芸の沿革

 伊予市古来の文化 
 伊予市の古来文化は、中央政権による文化が地方政権との交流によって、浸潤し伝わり広まったものであって、文化の発達には、その時代の地方政権の興亡盛衰による変遷の差が著しく認められる。
 大和時代から奈良・平安時代、そして武家政権を確立した時代など、その時代時代における中央文化の変化や変遷の中にあって、地方文化の伸縮的な差異がある。それは、地方宗教による広め方や浸潤の力に負うことの大きいことはいうまでもない。したがって、文化は経済・時間・労力を原則として、余裕を蓄え、美術・工芸の発達はこれに伴うものである。

 伊予市美術・工芸の経路 
 古来、日本列島は陸路・海路ともに交通が不便であって、海路による交通は、ことのほか危険であり、困難であった。それで海路による連絡は、最短距離を選ぶことが必定であった。
 その例として、四国と九州を結ぶ佐田岬と佐賀の関の最短距離を利用して、中央文化が四国を通して、九州文化との交流のため、非常に大きな役割をなしていた。
 伊予市南山崎地域は、阿波(徳島県)・讃岐(香川県)方面に対して、その関門であり、要衝の地であったことは否定できない。
 九州地方における古代文化の発祥は、伊予市に古代文化の遺跡を残し、武家政権の確立後も、この山すその地に、ばんきょしていた諸豪族が、権勢を振るっていたことを示す数多くの遺物があらわれた。

 大平堂が谷発掘の青銅鋳造の経筒 
 一九五八(昭和三三)年三月一五日、大平堂が谷の山林を開墾中、山のりょう線から発掘されたもので、第245図に見るように高さは三〇㎝、胴回りは三八㎝の青銅鋳造である。銘は次のように刻まれている。

    各為二親
   奉入如法経筒
    久安六年八月卅日(一一五〇年)
    乙氏親遠
    藤原氏女
    秦氏是延

 この銘から、平安時代末期のすぐれた工芸品であり、銘文は精緻な毛彫りによる双鉤体で、書風・書体ともにすぐれた筆蹟で、典型的な平安風を示している。経筒の中には八巻の経文が納入されていた。銘文にある三氏はこの地方の豪族で、二親を供養するためにつくったものであろう。これは大平字小野の児玉秀男が所蔵し、一九六五(昭和四〇)年四月二日に県文化財指定を受けた。
 その他、小野地区の自庵から多数の木彫りの仏像が見い出された。市場大道寺の石地蔵・大平曽根の石造層塔などは考古学上、非常に貴重な工芸品である。
 しかし、鎌倉時代末期から室町時代のいわゆる武家闘争時代においては、文化交流はほとんど中断され、その見るべき資料もなく、桃山時代になってようやく文化の恩恵を受けるようになった。更に江戸時代に入って、地方産業の発展とともに、豪農・豪商による地方自治と文化の向上が、美術・工芸に多少であるとしても貢献していることは否定できないものかある。上野の玉井家にある中江藤樹の書簡に見られるように儒者との交流も行われた。幕末になるといわゆる幕末志士の往来が激しくなって、各地に残した遺品や見識のある文書などが注目される。灘町の村瀬家に滞留中書き残した藤本鉄石の書画などは代表的なものといえよう。
 明治初年のころ、士族は廃藩のため俸禄を失って今までのような生活ができなくなったため、家に伝わる名器や家具類が、松山・大洲両藩の中間の地として郡中に集まりまた他地方へ持ち去られたものが、数多くあった。ことに、肱川汽船会社が創立されるとともに、地方の名器は都会へ流れていったものがかなりあった。
 要するに、伊予市における美術的価値をもつ工芸品の逸品は、そのほとんどが移入文化の遺物であった。