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伊予市誌

第八章 郷土芸能・その他

 郷土芸能はその地方の民衆によってつくられ、伝承されてきた文化遺産である。作者も演技者も素人ばかりで、いつごろからか年代を経るごとに、深められ今日まで伝わってきたものである。今ではその伝承がたちきれ、なくなってしまったものも数多くあるが、農村の豊作を願い、また祝っていたものをあげると、代表するものとして獅子舞と雨乞い踊りがある。

 獅子舞
 赤くて見たところ恐いが、よく見ると面白い顔をした獅子頭を両手でおどらせ、胴と足は緑色の唐草模様の布でつつみ、二人が呼吸を合わせ太鼓の拍子の音に合わせてあやつる宗教的芸能で、伊予市の農村地方に残っている。
 獅子舞は、獅子の頭をあやつる人としっぽをふりまわす人の二人と、おやじといって、ひょうきんな農夫を演ずる人と合わせて三人の大人、そのほかに猟人・猿・きつねの役を演ずる子どもで構成される。おやじは老農夫のいでたちに、けだしでおじいさんの面をつける。猟人はわらじばきに、鉄砲をかつぎ陣笠をかぶって腰には刀をさした武士姿の子ども、猿は猿の面をつけ、赤の着物に赤い足袋をつけた子ども、きつねはきつねの面をつけ、白い着物に白い足袋姿の子どもが二人出てくる。そのうえ大太鼓と小太鼓をたたく人がいて、それらの太鼓に合わせて、それぞれがおもしろおかしく踊り、獅子が舞う。
 獅子舞は地方の秋まつりに行われ、そのためのけいこは、地域の青年が一、二か月前から行う。
 下吾川の獅子舞は昔は一三歳から一五歳までの子ども獅子と、一五歳から結婚するまでの年の若い衆組の行う大人の獅子があり、八月一三、一四、一五日の三日間猟人と獅子だけで行っていた。一〇月の祭りまでには、その他の役をそろえて本番となっていた。田植えが終わるころから獅子舞の練習が氏神さんの境内で行われていた。
 一〇月の祭りに行う獅子舞は、一か月前から練習に入り、お祭りの第一日目には、その地区の新築の家や、氏神さんで奉納獅子舞を行い、次の日からは世話人があらかじめ家々の希望を確かめておき、希望した家を次々に回って獅子舞を行ってきた。
 伊予市に伝わっている獅子舞は、今日では、下吾川、上吾川十合、尾崎、八倉、宮下、上野、上三谷、下三谷、大平などに残っている。
 獅子舞の順序は、おおむね各地方とも似ているが、まずおやじと猟人、猿・きつねが出て、おやじが種をまく、動物たちがまねをしたり、畑をあらしたり、面白い所作で見物の人々を笑いの中にさそいこみ、それが終わると獅子が出て、猟人は刀や鉄砲でその獅子と戦い、刀で猟人がとどめをさして終わる。
 獅子の最期の所は獅子頭を立てて舞うのと、ねさせて舞う方法など、地方によって舞い方にちがいがある。
 夏が終わりに近づいたころどこからともなく、獅子太鼓の音が聞えてくると、秋の地方祭が間近にせまってきたことを強く感じて、若者たちの血がさわいだものだった。

 雨乞い踊り
 農業は気候と関係が深く、特に昔は現在ほど科学が進んでなく、日照りが続いて稲が枯死するということは毎年のようにあったので、水の確保が稲作に大切なことは今も同じであった。ため池の少ない地区では、何日も雨がないと、雨を神社などに祈願した。
 古老の話によると、南伊予の行道山、郡中の庚申堂、三秋の明神さん、中村の水天さんなどが雨乞いの祈願所で、地区で踊りも、歌もまちまちであったが、いつのころからか五色浜に集まって千人踊りを奉納するようになった。この千人踊りは、伊予市全域から集まり、農家の各家々から一人ずつが出たので、沢山の人数だったそうである。
 雨乞いの歌は前章の民謡の中に載せているが、千人踊りのときも、地区ごとに踊り方も歌もまちまちで、リーダー五、六人が中心になり、みのかさをつけ、むしろののぼり旗をたて、その上にあらめ(海そう)やふろ(豆)をつけて列を組み、かねや太鼓に合わせて踊っていた。見物人もただ見るという気持ちではなく見舞いに来たという意味を表して雨傘を持っていなくてはならなかった。
 一九三四(昭和九)年が千人踊りの最後で、踊る順序が決まっていて、米湊、八倉などが最初に踊り出した。
 郡中では、庚申堂のご本尊を海中に入れて祈願したりしたそうである。千人踊りは神社や寺院で行ったが、寺で行う方が比較的多かった。

 その他
 伊予市にはそのほかに平岡地方に残っている盆おどりの「太鼓おどり」や、上吾川十合の「にわか」という民衆の芝居や神楽など、後継者がいないままの郷土芸能が沢山残っている。

 伊豫之二名島扶桑太鼓
 「かおり高い教育と文化のまちづくり」を進めるために、新しい文化の創造をめざして、一九八〇(昭和五五)年から創作に取り組んできた郷土芸能「伊豫之二名島扶桑太鼓」が、天野流宗家家元天野宣(山梨県甲府市)の作曲指導のもと、伝承メンバー一五人の若者たちの絶えざる精進によって、ついに完成した。一九八一(昭和五六)年七月一一日入魂式を行い、同年九月二五日、市民会館に六〇〇人市民の見つめるなか発表会が行われた。大胴一・中胴四・長胴二・近台二・桶胴一の計一〇台の構成で、紺のはっぴにさらしを身にまとい、天野宣の指揮のもと扶桑太鼓一〇台を、華麗にまた躍動的に打ち鳴らし「伊豫之二名島扶桑太鼓」の完成を披露した。今では、子どもたちだけで演じる太鼓もあり、市をあげての大行事に、必ず登場する郷土芸能になっている。