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伊予市誌

四〇、後藤又兵衛 (宮ノ下)

 一六一五(慶長二〇)年大阪夏の陣で、大阪城に攻め寄せる徳川家康軍に対して、豊臣秀頼軍は城を必死で守ったが、ついに城は落ちて、秀頼は一族とともに自ら命を絶った。負けた豊臣軍で、並ぶ者のない勇士とたたえられた後藤又兵衛基次は、わずかな兵を率いて攻め寄せる徳川家康軍の中に突入して、はなばなしく討死したといわれる。
 言い伝えでは、伊予の国へ落ちのびてきたのだという。ちょうど宮ノ下の長泉寺の住職が伯父であったので、国々を回り歩く旅僧の姿をして、こっそり伊予へ渡ってきた。そして、久万の山中、岩屋寺にひとまず身をかくして、毎日、ここで座禅(静かにすわって修行すること)していた。
 そのころ、上浮穴・温泉・伊予郡など二〇万石を領していた松前城主加藤左馬助嘉明が、この寺にお参りにくることになった。まず、先走りがお寺へ走ってきて、この寺の僧に、
「今日は、われわれの殿様がここへこられるから、そこら辺りをきれいに片付けておけ。」
と、言い付けた。ちょうどこのとき、又兵衛は寺の本堂で座禅していたが、これを聞くと、目をかっと見開いて、
「殿様というのは、左馬助か。」
とつぶやいた。わが殿の名を呼び捨てにするとはけしからんと、先走りは思った。しかし、その男が普通でない男のように見えたので、急いで走り帰って、三坂峠で休んでいた嘉明にこのことを申し上げた。嘉明は、それを聞くと、しばらくじっと考えていたが、
「もう引きあげじや。帰るぞ。」
と、城へ引っ返した。又兵衛がこの岩屋寺へ来ているのではないか、といううわさを耳にしていた嘉明は、親友であったこの又兵衛を捕えなければならなくなることを心配し、引っ返したのであろうか。
 この後しばらくして、又兵衛は、伯父を頼ってこっそり長泉寺に来て、村人と親しみながらくらし、ついにこの地で亡くなったという。
 今、又兵衛のことを書いた碑が、この寺の境内に立っている。また、その墓といわれるものが、長泉寺の下手にある大塚家の屋敷の中にある。この墓の中には、又兵衛が大事にしていた半弓や種子島鉄砲などもいっしょに葬られてあったという。なお、又兵衛の笈(旅僧などが、いろいろな物を入れてせおう箱)だけは、長泉寺に残されていたといわれる。
 また、ある言い伝えでは、又兵衛は、伯父に迷惑をかけてはいけないと思ったのか、弟の市郎左衛門の名にかえて、弟になりすまし、松前の筒井に移り住んで妻をもらい、百姓になった。そして、重信川の大水で荒れた土地を開いたり、水を引くようにしたりして、村人のために広い良い田を作ったので、たいへん喜ばれたという。又兵衛夫妻の墓といわれるものが、筒井の大智院にもある。