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伊予市誌

三二、生きていた切株 (上吾川)

 江戸時代、大洲の殿様は参勤交代(全国の大名が二年に一回、一〇〇日以上江戸に住むきまり)で、大阪までは、瀬戸内海を船で往復していた。
 江戸時代の中ごろのこと、大洲の殿様は、今までの船は古くなったからと、新しい船を造ることにしたが、帆柱にする適当な木がなかなか見つからない。家来たちが領地内を見回った末、やっと谷上山宝珠寺の本堂裏で、手ごろな杉の木を見つけた。さっそく寺と相談して、この木を伐り、それを帆柱に使ったので、船は立派にできあがった。
 ところが二、三回往復した後、いつものようにこの船で瀬戸内海を渡っていたとき、不思議なことに、風もたいして吹いていないのに、この立派な帆柱が中はどから折れた。船にとって大事な帆柱なので、困ってしまったが、どうにか大阪へ着くことができた。しかし、なぜ折れたのか不思議でならなかった。これは、帆柱にしたもとの木に、きっと何かがあるにちがいないということになって、まず、家来を谷上山へ行かせて調べさせた。
 すると、帆柱にする木を伐った後の切株がまだ、生きているではないか、杉の木は根本から切れば芽を出すことはない。家来たちはびっくりした。そして、この木は普通の木ではない。宝珠寺の本尊千手観音様が大事にしていた木だったのではなかろうか、ということになって、それを殿様に申し上げた。殿様も驚いて、
「それはおそれ多いことをした。さっそく、その木の供養をしよう。」
ということになり、供養石を建てるなどして、ていねいにおわびのお祭をしたといわれる。
 この供養石は、今でも立っているが、字はほとんど読めないほど苔むしている。また、このそばにあったはずの切株も、今はその跡さえ見つからない。