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伊予市誌

二八、鎌倉さん (上吾川)

 谷上山のふもと、称名寺の近くの丘の上に、源範頼をまつる鎌倉神社があり、村の人たちは「鎌倉さん」と呼んでいる。この社の後ろに範頼の墓といわれる、苔むした小さな墓がある。なお、近くには家来たちの墓といわれるものが、枯葉の中に埋もれておよそ二〇ぐらい立っている。
 この墓に、今も眠っていると伝えられる源範頼は、今から八二〇年ほど前に、鎌倉幕府を開いた征夷大将軍源頼朝の弟である。源平の合戦では、弟の義経とともに、平家を壇の浦で亡ぼして大きな手柄を立てたが、やがて、兄の頼朝ににくまれて、伊豆(静岡県)の修善寺に流され、頼朝の家来、梶原景時に不意打ちされた。とっさのことで、範頼は鎧・冑をつけるひまがない。そばにあった弓をとり、敵を射て、多くの兵を殺した。しかし、矢がなくなってしまったので、もうこれまでと思った範頼は、やかたに火を放ち、その中で死んだといわれる。
 範頼の墓は、伊豆の修善寺にあるが、そのほかに、武蔵(横浜市)、金沢の大寧寺と、伊予市の上吾川の三か所にあって、それぞれ言い伝えが残っている。
 この地方では、頼朝の家来に攻められた範頼は、ひそかに難をのがれて四国に渡り、源氏とゆかりの深い伊予の豪族、河野氏を頼って、この地に落ちのび、ここで亡くなったといわれている。土地の人たちは、この墓を大切にし、大洲藩の三代藩主加藤泰恒は、今から三二〇年ほど前、一六七七(延宝五)年に米湊へ来たときに、この墓に参拝したが、六、七間(約一〇㍍)前ではだしになり、二、三間(約五㍍)前からひざまづいてお参りになった。
 鎌倉さんが建てられたのは、今から二二〇年ほど前のことで、大洲藩の補助によったものであった。その後も藩の補助で立て替えられた。古い墓の前には、「蒲冠者範頼公墓」という大きな石碑が、江戸時代の終わりごろに立てられた。蒲冠者というのは、蒲とは範頼が生まれた土地の名前、冠者とは一人前の武士の事であって、範頼の別の呼び名である。
 社の前庭には、明治時代の大文学者、夏目漱石が、ここを訪れて詠んだ(作った)俳句の句碑が立っていて、はかない死を遂げた範頼のことを思い起こさせる。
  蒲殿のいよいよ悲し枯尾花
  木枯や冠者の墓撲つ松落葉