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伊予市誌

二七、太刀打場の柳 (上吾川)

 今から四五〇年ほど昔は、戦国時代といって国の方々で戦いがくり返されていた。そのころ、稲荷の明見の田で、ひとりの百姓女が麦まきをしていた。そこへ、敵に追われて逃げて来たのか、疲れきったひとりの武士が近寄り、
「ここに金がある。これをやるから、誰が来てもわしのことをいうてくれるな。」
と頼んで、田の畦にそのお金を置くと、東の方へ走るようにして逃げて行った。それからまもなく、また、ひとりの武士がかけつけて来た。
「これ、そこの女、ちょっと前にさむらいがここを通ったであろ。そいつは、どちらへ逃げたか教えてくれ。ほれ、この金をとっておけ。」
と、言葉するどくいった。欲に目のくらんだこの女は、金をもらうと黙って東の方を指差した。
 武士はたちまち、その方へ駈け出した。そして、上吾川の市の坪の辺りで、前の武士に追いついて激しい斬り合いとなった。それは、まことにすさまじい、死にもの狂いの戦いであった。ところが、不運にも、前の武士の刀が折れてしまった。こうなると、勝敗はもう目に見えている。一方的に斬り立てられ、斬り伏せられて、ついに息が絶えてしまった。それを見とどけた武士は引き返し、さきの女の所まで来て、ここで何を思ったのか、腹を真一文字にかき切って死んでしまった。二人の間に、どんないきさつがあってのことかわからないが、村人たちは、死んだ二人の武士の心を哀れんでいっしょにして葬り、ここを太刀打場と呼んで、柳の塔婆(墓の代わりに立てる塔の形をした板)を立てた。すると、どうしたことか、この塔婆から芽が出、根が出て、ぐんぐん伸んで大木になったが、今はもう枯れてしまって見ることはできない。
 さて、その翌年のことである。稲荷や上吾川の一帯に悪い病気がはやりだし、ついには死ぬ人さえも出てきた。これは、死んでしもうたあの二人の武士の恨が残っていて、それがたたっておるのであろう、ということになった。このまま放っておいてはいけないということになって、明見をはじめ、上吾川の布部・市の坪・十合の村人たちが集まって相談をした結果、この太刀打場にお堂を建てて、ねんごろに二人の魂をまつることにした。
 それ以来、悪病はやんだ。それからは、毎年お盆前の一二日になると、明見の人たちが子供らといっしょに、この太刀打場の仏様を迎えに行く。そして、稲荷の客にある庵で、鉦や太鼓をたたいて念仏を唱え、盛大にお祭りをしてから後、もとのお堂へお送りするようになった。この行事は、大正時代の終わりまで続いていた。
 今、このお堂は、昔の面影はなくさびれてはいるものの、六坪(約二〇平方㍍)ほどの敷地の中にあり、時々近所の人びとが訪れている。この武士の名は、一木弥十郎(八太郎)、大久保伊賀守といった。この伝説は、稲荷・布部・市の坪などで、それぞれ少しずつ違った形で語られている。