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伊予市誌

二二、伊予市の鹿物語 (下吾川)

 ずっと昔は、稲荷の山にも鹿がいた。これは石鎚大権現を祭った日ノ石鎚神社の鹿だと言われていた。
 この鹿は、よく新川の浜まで来て潮ごり(潮水をあびて身をきよめること。)をしていたが、ある朝のこと、潮ごりをすませて帰るとき、このころ新川あたりに多かった野犬の群れに襲われた。野犬のおびただしいほえ声に、新川の人たちが驚いて外に出て見ると、野犬の群れに囲まれた鹿が逃げまどっていた。みんなはあわてて野犬を追いはらって鹿を助けたが、鹿は足などかまれていて、もうひとりでは歩けない有り様であった。
「これは権現さんのお鹿なのに、かわいそうに。」
と村人は傷がなおるまで、手当てをしてやることにして、さっそくみんなで小屋を作り、当番を決めて世話することにした。しかし、傷は案外重かったらしい。日に日に弱って、とうとう死んでしまった。そこで、村人たちは、ていねいに新川海岸に葬った。
 ところが、この新川に無知な男がいて、
「今まで鹿の肉など食ったことがないが、どんな味がするじゃろ。」
と、こっそり、この埋めた鹿を掘り出して、肉を食べてみた。後でこのことを知った村人たちは、
「馬鹿ちゅうもんはしかたないもんじゃ。たたらなけりゃ、よいが。」
と心配していたが、間もなく、その心配は当たった。新川にわけのわからない火事が起こり始めた。
 そこで、村人たちは集まって相談し、この鹿と権現さんにあやまるためにお宮を建てて、鹿を祭ることにした。これが新川の岩滝神社であった。火事が今後起こらないように、岩や滝の名を付けたのだという。これで、火事の方もぴったりと起こらなくなった。
 その後、村人たちによって、この岩滝神社はずっと祭られ、祭の日などは子供の相撲などもあって、たいそうにぎわっていたが、明治時代の初めごろ本村の宇佐八幡神社に合祀(いっしょに祭る)された。岩滝神社跡は、今もあって、大きなエノキ・シャシャブの木などが数本おい茂っている。なお、殺された鹿の角は、今も生き角と言って、赤みがかったものが新川の日野家に保存されているそうである。