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伊予市誌

一二、国松丸の墓所 (中村)

 今から三九〇年ほど前のこと、大阪夏の陣で、大阪城が落ちて豊臣秀頼は、ついに城を枕に自害した。その秀頼の子の国松丸は、そのときわずか七歳であったが、捕らえられて、京都の六条河原で打ち首(首をきられる死刑)になった。ところが実は、身代わりの者が打ち首になって、その首が敵方の徳川家康に見せられたという。
 伝説によると、この国松丸は、徳川軍の目を逃れて、三三人の家来に守られ、ほうぼうへ逃げ回った後、上灘の高野川海岸に上陸して、山伝いに中村にたどりつき、ここに住みつくことになった。ここでは、ひそかに大洲藩主加藤貞泰に使いを送って助けを求めたが、それもかなわず、国松丸は人目をさけて、家来とともに僧になった。そこで、国松丸は、苦厭(求厭) 上人と名のり、中村の地に寺を建てて妙音寺と名付けた。しかし、この寺は表向きは寺でも、実際は戦ができるように構えられていたという。あのはなやかであった豊臣の時代のことが忘れられなかったのであろう。が、世は徳川の時代になってしまって、思う通りにはならず、豊臣家の不運を悲しみながら、仏の道で一生を終えた。
 その後、上灘の宮内九右衛門・清兵衛兄弟が上灘から移って来て、郡中の町を作り始めたが、このとき妙音寺を今の灘町の地に移し、宮内家の菩提寺として、名を栄養寺と改めた。
 この妙音寺跡には、今も苦厭上人主従(主人と家来)らを弔った五輪塔や石塔が一〇余り残っている。なお、明治時代になってから、この寺跡の一部を中村の人が田畑にしようと耕したところ、その人の家にたちまち不幸が続いて、家が絶えてしまった。それから後も耕そうとする人があったが、一鍬打ちこんだだけでふるえがきたそうであるが、近年信仰に厚い人がためしに耕してみたら、このときは何も起こらなくて、今はみかん畑になっている。