データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

九、頼信城の千人塚 (三秋)

 今から四七〇年ほど前の戦国時代に、三秋の原中の南の方の山に頼信城があった。この城には、頼信という豪族が一族・家来合わせて一、〇〇〇人と言われるほどの大勢で、この城を守っていて、三秋の村人からも親しまれていた。
 ところが、このころ、土佐の武将長曽我部元親の大軍が伊予の国に攻め入り、やがて三秋にも攻め寄せてくるといううわさがしきりであった。そこで、頼信は、弟や家来たちと相談して、城内から外の山へ抜けて逃げられるような穴道をつけ、もしものときには、すぐにこっそり逃げられる工夫をした。
 やがて、長曽我部の大軍は攻め寄せてきた。まず、中村にあった台山の尼ヶ城をまたたく間に攻め落とし、村の寺なども火を放って焼き払い、とうとう頼信城へも押し寄せてきた。その勢いはたいへんなものだったので、頼信は、これではかなわないとみて、かねての打ち合わせ通り、一族・家来全部、穴道を抜けて、城の南の方にあった明神山にかくれた。
 長曽我部の軍勢は、勢いこんで城内に攻めこんだものの、人ひとりいない。城の中をくまなく探して、かまど(ごはんなどをたくために火を燃やす所)や座ぶとんなどのぬくもりで、まだ、そう遠くへは逃げていないと判断はしたものの、夕方になっても見つけ出すことは出来なかった。やがて日も暮れてしまって、四方の山々も暗くなってしまったとき、向こうの明神山の辺りがぼうっと光って見えてきた。
「あっ、あそこだ。あそこにいるぞ。」
 長曽我部の軍勢は、夜ではあったが、すぐさま、この明神山を取り囲み、朝を待って一せいに攻め立てたので、頼信らも必死に防ぎはしたものの、大軍の前には、ひとたまりもなかった。ついに、その場で斬り殺されたり、捕らえられたりして、結局は、武士はもちろんのこと、女も子供も、皆殺しになってしまったという。
 後で、三秋の村人たちは、これをたいへん哀れんで、首は首、胴は胴、刀は刀と一緒にまとめて、それぞれの塚を作って葬ったという。今、三秋の端の北の山の尾根伝いには、西から首塚、刀塚、胴塚と三つの塚が並んでいて、そのそばには、数十個の五輪の塔が苔むして立っている。村人たちは、これを「若宮さん」と呼んでいるが、辺りはヤマモモの大木と山草がうっそうと茂っていて、お参りする人はあまりない。
 昭和時代の初め、端の人たちは、この哀れな頼信一族・家来を祭るために、胴塚の南一五〇㍍の土地に、お堂を建て、三社権現と名づけた。今でも端の人たちは、時折りお参りをしている。頼信城があった跡は、今はミカン畑になっているが、ここを開墾したとき、長い石垣があったそうで、今でも大石がたくさん散らばっている。
 また、一九三五(昭和一〇)年ごろになって、双海町の高野川の祈祷師(神や仏に祈って、いろいろ占ってくれる人)が、
「あの端にある若宮さんの下には、宝物があるというお告げがあった。」
と、人びとに言っだので、それを聞いたある人が数人の男をやとって、若宮さんの下辺りを掘り起こした。すると、そのたたり(神や仏から受ける罰)のためか、やとった人は死んでしまい、やとわれた男たちもみんな病気になったり、気が狂ったようになったりしてしまった。それからは、誰も掘り起こそうとする人もなく、若宮さんは、伊予灘を見下ろす山の上に哀れな昔を静かに語りかけている。