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伊予市誌

五、新田義治の墓 (大平)

 新田義治は、南北朝時代(一三三六~一三九二)の武将脇屋義助の子である。大平の四ツ松にある新田神社から、更に奥ヘ一二〇㍍ほど行った森の中に、この義治の墓がある。村人たちは、「おたまやさん」と呼んでいる。
 父の義助は、後醍醐天皇の一三三二(元弘二)年、後醍醐天皇の皇子護良親王の仰せを受けて、兄の新田義貞とともに鎌倉幕府の北条高時とその一族を鎌倉に攻め亡ぼし、建武新政(鎌倉幕府を倒して、もとの天皇の政治にかえしたこと)を助けた偉い武将であった。
 この後、足利尊氏らが後醍醐天皇にそむいたので、義助は義貞とともに、ふたたび兵を集めて、尊氏らを攻めたが、不運にも義貞は、一三三八(延元三)年越前(今の福井県)の藤島の戦いで戦死した。そこで、義助は、後醍醐天皇の皇子後村上天皇の詔 (天皇のおおせ)を受けて、この伊予に下り、味方の兵を集めて、戦いに備えていたが、一三四二(興国三)年五月、病気にかかって越智の国府で亡くなった。
 新田義治は、若いときから父の義助、伯父の義貞に従って各地で戦い、手柄を立てていたが、義貞の戦死、義助の病死の後は、義貞の子義興・義宗などとともに、後村上天皇の詔を受けて、あちこちで敵と戦ったが、勝ち運にはなかなか恵まれなかった。その後も、義治は、なおも勇気をふるい起こして、義宗らとともに伊予郡に来、河野氏の一族の土居氏・得能氏らの武士を頼って、ひそかに再挙をはかっていたが、残念なことにセキリにかかって、ついに一三七二(建徳三)年六月三〇日、四五歳で、この地に亡くなったと伝えられている。
 義治は死が迫ったとき、かっと目を見開いて
「賊をことごとく平らげてしまうまでは、この体は死んでも、わしの魂は、いつまでもこの地にとどまっていようぞ。」
と誓った。そして、家来に自分が日ごろ使っていたよろい・かぶとを田や谷に埋めさせ、弓矢なども川の渕に沈めさせた。そのため、この大平の地には、よろい田・かぶと谷・小手谷・弓矢ヶ渕などの地名が今でも残されている。
 墓近くの新田神社は、この義治の忠義の心(心から天皇にお仕えした心)を敬い、あわれんで建てた義治を祭る神社である。これは、国道五六号線の四ツ松の所から折れて、一〇〇㍍余り山手に進み、更に、高さ六〇㍍ほどの急な石段(一五八段)を登りつめた所にある。昔は村人たちの手によって、九月九日にお祭りをしていたが、今は四月一五日と九月一日とに盛大に祭りが行われている。