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伊予市誌

四、大地蔵の木地蔵 (大平)

 大平の大地城の盆踊りは、ずっと昔から盛んで毎年旧の七月三〇日(小の月では二九日)に行われていたというが、今は、八月三一日の夜、盛大に行われている。今、祭られているのは石の地蔵だが、昔は木の地蔵で、これは源氏の武士で、弓の名人であった那須与一が供えたものだといわれている。
 今から八二〇年ほど前、源氏と平家の戦いが続いていたが、平家は一の谷の戦いで源氏に大敗したので、軍船で讃岐(香川県)の屋島に逃げ、ここに陣をかまえた。そこで源氏方は、源義経が軍船をひきつれ、風波を乗り切って阿波(徳島県)に渡り、ひそかに屋島に向かい、後ろから不意に攻めた。そのため、平家は、また軍船で海上に逃げた。しばらくして、平家の軍船の中から、小舟が一そうこぎ出てきて海岸の近くに舟をとめた。海辺に立っていた義経がよく見ると、小舟には長い竹を立てており、その先に日の丸の扇がとりつけてある。義経は、とっさに、
「源氏にほんとうの力があるなら、この扇を弓矢で射落としてみよ。」
ということであろうとさとった。そこで誰が源氏の名誉のために一矢で射落とせるかということになって、選ばれたのが那須与一であった。これが陸に固定された扇の的なら射落とすことはそうむずかしくない。しかし、これは波にゆれる小舟の竹にとりつけた的である。さすがの与一も、一矢で射落とさなければならぬと思うと必死になった。そこで、
「あの扇の的を見事射落とすことができたら、四国で一番大きな 国、予州(愛媛県)に仏像を供える。」
と、願をかけた。すると、不思議にも波が静まり舟もゆれなかったので、見事扇の的を射落とすことができた。源氏の戦いはこの後、源氏が平家を壇の浦で討ち亡ぼして終わりとなった。そこで与一はあの願を果たそうと僧になり、予州の真ん中にあたる伊予郡に来て、大平の地がよかろうと木の地蔵をすえて祭った。
 それから、長い年月が流れて、江戸時代の中ごろ、ある日、この大地蔵の地に一人の易占いの旅僧が来て、この木地蔵をしばらく拝んでいたが、やがて村人たちに向かって、
「この木地蔵には足の三里に金がはいっている。」
と、告げて去った。これを聞いた大平の村人たちは、何を勘違いしたのか、この地蔵の足もとから三里四方(一二㌔㍍四方)のどこかに黄金が埋まっているにちがいないと、大騒ぎして埋まっていそうな所を掘り起こし始めた。足の三里とは、おしりより下にある足の膝頭の下で、外側に少しくぼんだ所をさしているのだが、ここに金の筋金でもはいっていたのであろうか。
 この大騒ぎは大洲の殿様の耳にはいってしまった。さっそく殿様からは、
「馬鹿な百姓どもだ。この木地蔵さえなければ、そんな馬鹿騒ぎも起こらないだろう。」
と、言われて、大洲の殿様の菩提寺(まもり守)である如法寺へ運ばせて、ここに祭ることにしてしまった。
 そこで、この木地蔵を馬の背に乗せて運ぶことになったが、大平から大洲までの昔の道は遠い。犬寄峠を越え、中山・内子・新谷を通って、大洲の肱川のほとりにある如法寺に運ばれて行ったが、途中、犬寄峠まできたとき、不思議なことが起こった。それまで元気に歩いていた馬が、ぴたっと動かなくなった。押しても突いても、いっこう動こうとしないで、いなないた。犬寄峠に立った馬は、首をはるか下の大地蔵の辺りに向けていなないている。見送りに来ていた村人たちは、はっと思った。
 「この木地蔵さんは、長い間住みなれた大平大地蔵の地を、なつかしかっていられるんだ。それが、馬にはよくわかるんだ。」
と、そこで、思わずみんな涙を流しながら、この木地蔵さんに手を合わせると、馬は、また歩き出したという。
 この木地蔵は、今でも如法寺にある。大地蔵に年一度の盆踊りの日が来て、念仏を唱え、鉦や太鼓をたたきながら踊りが始まると、この木地蔵がいつのまにかちゃんと大平の大地蔵の方へ向きを変えていることもあったという。さて、この木地蔵の代わりの石地蔵はいつ建てられたのか、年月などが刻まれてないので、よくわからないが、平岡にある享保の年号が刻まれている石地蔵によく似ているので、あるいは、享保年間、徳川吉宗の時代のものかもしれない。