データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

三、浜出稲荷の宝剣 (唐川)

 浜出稲荷大明神は、神代といわれる時代から、翁山(上唐川本谷)の山上に祭られていた、たいへん尊い神さまであった。
 今から八二〇年ほど前の一一八五(文治元)年八月、阿部康義という人が伊予の国に来たとき、この翁山に登ってみると、榊の大木がおい茂っていて、その枝がみな東の方を指していた。それでその方向にあたる今の本谷の地に宮を移し建て、稲荷の神を祭り康義自身はこの社の神官になった。
 その後、伊予の豪族河野家が二、〇〇〇石を神領(お宮の土地)として寄付をした。
 今から六七〇年ほど前、砥部川が本流重信川と合う辺りの深い淵のそばで、塩売りが歩きつがれたのか岩にもたれたままうたた寝をしていた。そこへ、たまたま砥部の豪族大森彦七が通りかかってふと見ると、淵からはい出てきたのか、大蛇がその塩売りを今にも飲みこもうとしている。すると、とたんに塩売りのそばの塩籠から小剣がするりと抜け出てきて大蛇を追い払ってしまった。それから小剣は塩籠の中にはいる。すぐにまた大蛇が塩売りにおそいかかろうとすると、小剣が抜け出してきて追い払う。そんなことが何回かくり返されていたが、とうとう大蛇は、あきらめたのか見えなくなってしまった。彦七は、その間、驚きのあまりにただ立ちすくんでいるばかりであったが、我にかえると、あわてて塩売りを揺り起こし、この不思議な小剣を売ってくれと頼み、大金で譲り受けて自分の守り刀とした。
 それからしばらくしてある夜、この彦七が松前の金蓮寺での猿楽(平安時代から始まった劇)を見物して帰る途中、そのときはもう満月の美しい真夜中であった。八倉の矢取川の瀬を渡ろうとして、ふと見ると、そこに美しい娘がたたずんでいた。この娘は、この川を渡ろうとして、あまりにも速い流れにためらっていたのであろう。
「あの、この川はわたしひとりでは渡れません。お願いします。渡してくれませんか。どうぞお願いします。」
 そう頼まれると、彦七は断り切れなかった。娘を背中に負うと、川を渡り始めた。ちょうど川の中ほどまできたとき、急に空かかきくもって、雷のような数万の人の声がとどろいた。彦七がはっと思ったとたん、娘はたちまち恐ろしい鬼女となって背負われたまま、するどい爪で彦七につかみかかってきた。この瞬間彦七が腰にさしていた、あの不思議な小剣がさっと抜け出ると、鬼女に向かって斬りつけた。この小剣は目にもとまらぬ速さで、鬼女のつかみかかった片腕を斬り落としたのだが、そのとたんに鬼女は消え失せ、黒雲ははれて月の輝くもとの静かな夜になった。ところが、この小剣は、もとの鞘に納まらず、不思議にもそのまま飛んで行って、浜出稲荷神社に納まっていた。これは、もともと、この宮に奉納されていた宝剣ではなかろうかとうわさされた。
 それから、数十年後のことである。今から六三〇年ほど前の一三六八(応安元)年に白滝城主中村主殿守が、五〇〇の兵をひきいて芸州(広島県)の宮島合戦に行くことになった。そこで、武士たちの守り神とされていた、この浜出稲荷大明神に勝利を祈り、神社から社宝のかぶとをいただいた。主殿守は感激し、勇気百倍して戦いにおもむいた。果たして大手柄を立て、大いに名をあげることができた。
 やがて、軍船で伊予に帰ってきたが、その途中、不思議なことに海中から光がわき出てきて、玉のような石が浮いてくるのを見た。家来たちは驚きのあまり声も出なかったが、主殿守は、これは浜出稲荷大明神のお祝いのしるしであろうと、急いで、うやうやしく大明神からいただいたかぶとですくい受けて、大切に持ち帰った。そして、浜出稲荷神社の社殿の右側に祠を建てて、この玉を手厚く祭ったといい伝えられている。