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伊予市誌

二、白滝城 (唐川)

 白滝城は、上唐川両沢の白滝山にあった。越智経孝という豪族がこの城を築いた。経孝は、初め平家討伐に大きな手柄のあった河野通信の家臣で、中村(今の松山市中村町)に住んでいた。生まれつき豪勇で特に軍術(いくさのしかた)と弓術にすぐれていた。
 このことが、鎌倉幕府三代将軍源実朝の耳にはいり、さっそく経孝を鎌倉へ召し出して、その弓術をごらんになった。すばらしくすぐれた技をたいそうほめて、ほうびとして特に唐川村近辺三、〇〇〇石の地を与え、姓も中村にするようにと仰せられた。そこで経孝は、仰せのままに中村左近将監経孝と名乗って、この領地で善政をしいた。
 この経孝のあとは、経重、経友と継がれていったが、経友のときに、元弘の変(一三三一年、後醍醐天皇が幕府を倒そうとして大敗した事件)があり、河野通治に従って軍功を立てたので、稲荷と米湊の地の一部五〇〇石を加増された。次いで、このあと従五位右衛門尉主殿守経房が城主となっていた。天正時代(一五七三~一五九二)ころは、領地は平和であった。それは、経房がよく村人たちをいたわり治めたので、村人もよく慕ってなごやかな生活ができたからである。
 ところが、このころ、土佐の強力な武将長曽我部元親が四国征伐を始め一五七九(天正七)年、白滝城へも攻め寄せて来た。しかし、経房は伊予の河野氏らと連絡を保ちながら、一族力を合わせて白滝城を固く守ったので、さすがの長曽我部の大軍も攻めあぐんで、兵糧攻め(城の食べ物や水が、外からはいらないようにして、困らせて攻め落とすこと)の構えをとらねばならなくなった。
 しかし、経房らは、それをよくもちこたえた。かえって、敵方が見えるところで、わざと少なくなった白米を水のように見せかけて馬を洗わせたり、武士たちにも足を洗わせたりして、水も兵糧も、まだ十分にあるぞと見せかけた。このようにして城を長く持ちこたえたが、一五八五(天正一三)年主家の道後湯築城主河野通直が長曽我部にくだったので、白滝城も次第に勢いを失い、ついに敵の手に落ちてしまった。
 城をのがれた経房は、どうなったか伝わっていないが、一五九六(慶長元)年一一月二四日没(死)の位牌が残っている。この子孫は、上唐川の下寺に住みつき、中村家として今に続いており、先祖代々の系図と刀が伝えられている。
 なお、墓は砥部町の外山にあるといわれ、自城家と名乗って砥部町五本松に住んでいる。白城家にも、現在白滝城主の位牌が祭られている。また、小さな観音像や槍の穂先などもある。