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伊予市誌

3 戦争と寺院

 一九三九(昭和一四)年、政府は宗教法規の整備統一と拡充確立を図り、宗教団体に対する保護監督を強化するため、宗教団体法を公布してすべての宗教団体にこの法を適用した。これによって、国家とともに生き国家とともに歩む宗教団体に対しては保護助長の道を強化すると同時に一方公安を妨げ公益を害するような行為は厳重に取り締まりを受けることになった。
 戦時中は、宗教報国会・皇道仏教会などと称して、仏教界も国家総動員の一翼をになって必勝を祈願し、ひたすら国運の隆昌と皇統無窮を祈ったが、神道優先の政策で仏教はあまり重要視されなかった。終戦後は、国民の信仰心が衰退し、お寺参りをする者さえいちじるしく減少した。その上、政府が実施しか農地改革によってほとんどの寺院は経済危機に直面した。農地改革は第一次(一九四六(昭和二一)年)年と第二次(一九四七(昭和二二)年)に実施され、宗教法人の所有する農地は原則として全面解放となった。連合軍の政教分離政策が、神社だけでなく寺院にまで及んだわけである。このため、藩政時代からの寄進田畑まで失って、どの寺院も経済的に全く窮地に立った。特に広大な農地を所有していた谷上山宝珠寺はその影響が甚しく、その他の寺も大同小異で寺の経営に苦しみ、農業経営を中心に寺の維持を考えたり、教職員や地方公務員になったりして、まず生活のために働く工夫をするものが多くなった。
 終戦後、六〇年を経過した最近になって、一般人の信仰心もようやく盛り上がり、宝珠寺や稱名寺や西願寺では、戦時中に供出した梵鐘を檀信徒で復興したり、入仏寺・稱名寺・常願寺・華厳寺などでは檀家の努力で、庫裡や本堂の改築を行ったりした。しかし、寺院管理者の大半は、今でも経済基盤の確立や後継者の養成という点で、多くの課題を持っている。