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伊予市誌

一、神社の変遷

 藩政時代の神社
 伊予市稲荷にある稲荷神社(現在の伊豫稲荷神社)は石田郷(後に山崎郷と改称)の総鎮守として多くの境外末社があり、広範囲のものであった。昔、河野通有が山崎の庄を領してから河野一族の崇拝が厚く、藩政時代になって大洲松山両藩の御替地が行われてからも、大洲藩・新谷藩と相次いで祈願所に定められ、代々の藩主や重臣たちが参拝奉幣して尊崇した。また、当時は早くから神仏習合が行われていて、谷上山宝珠寺(真言宗)が別当となり、末院一二坊が現在の赤鳥居から二の鳥居にかけて建ち並び社僧も多くいた。一六三一 (寛永八)年になって、当社の神主星野右京太夫は唯一神道を主張して谷上山宝珠寺と縁を切り、他社に先がけて神仏分離をした。『大洲秘録』によると、当時の稲荷神社の氏子村は、上唐川村・下唐川村・大平村・市場村・尾崎村・三秋村・稲荷村・中村・森村・本郡村・米湊村で構成していた。
 上吾川にある伊豫岡八幡宮は、吾川郷の総鎮守で多くの末社があり、大洲領の祈願所として地方の信仰を集め、領主の加藤家も代々崇敬した神社である。神仏習合の時代には、稱名寺(真言宗)がその別当寺であった。末社を持つ神社にはこのほかに、八倉の山王社(現在の坂本日吉神社)、上野の伊豫神社、上三谷の若一王子社(現在は三谷神社に併合)、下三谷の埜中社があった。また、氏子村をもつ神社には前記の各神社のほかに、南神崎村(現在の宮下)の伊曽乃神社、上三谷村の広田社・上唐川村の浜出稲荷神社などがあった。これらはその当時それぞれの地域の中心となる神社であった。鵜崎村と両沢村の氏神は『大洲秘録』によると大南村(現在の砥部町)にあったようである。

 明治時代の神社
 明治新政府は王政復古とともに祭政一致の主義に立つ天皇親政の行政組織を実現するため、敬神崇祖の精神を国家行政の基本とすることを考え、一八七一(明治四)年神社に対し国家的儀礼を執行して、国民道徳の普及向上を使命とさせた。そのため社格を定め、県社・郷社・村社・無格社とそれぞれ格づけをして国や県や市町村からそれぞれの神社に神饌幣帛料が供進されるようになった。その年、政府は更に戸籍法を改正して、従来三年毎に各寺院で行われていた宗門改め(宗門人別帳)を廃止した。翌一八七二(明治五)年には葬儀の執行について自葬を禁じ、神官または僧侶によることにした。次いで一八七六(明治九)年には社寺仏堂の設置制限と廃合をさせた。また、一八七九(明治一二)年には全国の神社寺院明細帳を作らせた。一八八一(明治一四)年には社寺総代の制度を定めて各社寺の氏子・檀家について総代を置き、これに社寺の運営を助けさせることにした。一八八九(明治二二)年に発布された大日本帝国憲法で信教の自由が明記されたことから、神社が宗教か非宗教かで論議されたが、政府は「神社は憲法上の宗教ではない。したがって神社を特別に取り扱い、これに公的地位を認めて、国民に神社への参拝を強制しても、憲法で定める信教の自由の原則に反するものではない」との方針をとった。そして、この方針は一九四五(昭和二〇)年まで続いた。本県では一九〇八(明治四一)年に、県令によって各地の祠や小社などで参詣者の少ないものは、神社の権威をそこなうものとして合併の措置がなされ、当市でも多くの小社が合併された(第193表参照)。

 昭和時代の神社
 満州事変・日中戦争から太平洋戦争へと戦局が発展するにつれて非常時局が叫ばれ、挙国一致の総動員体制が組まれ、各神社では日夜戦勝祈願や出征軍人の武運長久祈願を行った。国民は老若男女を問わず、古来の敬神の誠をつくしてひたすら神に祈ったが、ついに一九四五(昭和二〇)年の敗戦となった。この敗戦とともに我が国の神社制度は空前の大変革を見た。神社が宗教であるとの見解を持つ連合軍は、「国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督並びに公布の廃止に関する件」(一般に神道指令という)という覚書を発し、次のような政教分離の至上命令を出した。

  (1)神社神道に対する国家その他官公吏などの特別な保護監督等の停止、(2)神社神道に対する公の財政的援助の停止、(3)神祗院地方祭務官諸官制の廃止、(4)神道的性格を持つ官公立学校の廃止、(5)一般官公立学校における神道的教育の廃止、(6)教科書より神道的教材削除、(7)学校役場等より神棚その他神道的施設除去、(8)神社の社格撤廃、(9)官公吏や一般国民が神道的行事に参加しない自由の確立、(10)役人の資格における神社参拝の廃止、(11)供進使参向の廃止、

 この覚書は国家と神社の徹底的な分離を厳しく命じたばかりでなく、神社に関連した儀式や神話などの一切を国家と分離したものであった。続いて一九四六(昭和二一)年には、宗教法人令によって神社は宗教法人の一つとされた。更に、一九五一 (昭和二六)年に公布の宗教法人法によって、神社の経営はすべて責任役員と氏子または崇敬者の奉仕によることになった。神社はまた、一九四七(昭和二二)年の「第二次国有境内地処分法」と一九四六(昭和二一)年の「自作農創設特別措置法」(農地改革)とによって神社領の田畑を失った。そのために、特別な神社を除いては収入がほとんどなくなって、経営が困難になった。同時に国民の敬神崇祖の念が軽薄になった。その後、国民の勤勉と強い復興精神は今日の経済成長を実らせ、精神的な安定と相まって神社を敬い保護する気運が次第に高まって、最近は神社の参拝人が多くなってきている。

第193表 愛媛県社寺一覧表

第193表 愛媛県社寺一覧表