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伊予市誌

7 幼稚園と高等学校

 市立幼稚園の誕生 
 一九五四(昭和二九)年、伊予市誕生の前年に合併四か町村でまとめた「伊予市の建設計画」の中に、市立幼稚園をつくるという項があった。しかし、新しい伊予市発足当時、市内には保育所が五か所、私立の幼児園・幼稚園がそれぞれ一か所あり、まもなく保育所が三か所と私立幼稚園が一校できたので、新しい幼稚園の建設は見送られた。
 保育所と幼稚園は、共に幼児を対象とした施設であるがその性格には異なった面もあり、幼児教育を目的とした市立幼稚園の設置が関係者から強く要望された。これを受けた市当局は、北山崎小学校内の元北山崎中学校校舎を仮園舎として、一九七四(昭和四九)年四月にからたち幼稚園を開園した。「からたち」は、みかんの台木で、この木のように病気にも強くすくすく伸びてほしいと、当時の市長玉本善三郎が命名した。通学区域は本庁地区と中村地区で、本庁地区の園児は距離が遠いので、市の補助と父兄負担によって、タクシーで通園した。翌年、からたち幼稚園は本庁地区米湊新築園舎に移り、そのあとが北山崎幼稚園となり、上野地区では伊予小学校内に伊予幼稚園が誕生した。市立幼稚園の状況は、第192表のとおりである。

 私立幼稚園 
 一九五四(昭和二九)年の創立である天使幼稚園は、カトリック教会を背景に特色ある幼児教育を続けており、二〇〇四(平成一六)年五月現在の園児数は、一七三人である。
 一九二六(大正一五)年郡中保育園として開所、戦時中には国民保育所といい、その後一時閉園、一九五六(昭和三一)年に再建された近松幼稚園(園長近松文子)は、少人数ながら個性に応じた教育を続けていたが、一九八五(昭和六〇)年三月末で廃園となり、半世紀以上にわたる長い歴史の幕を閉じた。

 伊予農業高等学校の充実発展 
 一九一八(大正七)年創立以来長く本市に位置する伊予農業高等学校は、一九五七(昭和三二)年六月鉄筋コンクリート三階建ての本館が完成し、外観を一新した。一九六〇(昭和三五)年には一〇年間続いた定時制課程が志願者の減少に伴い廃止されたが、一九六二(昭和三七)年に食品化学科を新設、一九六六(昭和四一)年に農村家庭科を生活科に改称、一九七四(昭和四九)年には環境開発科が新設され五学科となった。その間、第二本館・普通教棟・特別教棟・体育館なども次々と建設された。その後も生徒の増加に対応して、同年に第二体育館新築、運動場拡張などの学園整備が行われ、昭和六〇年度には生徒定員はピークとなり一、〇四〇人であった。その後、少子化に伴い徐々に生徒定員も減少し、平成一三年度からは生物工学科・園芸流通科・環境開発科・食品化学科・生活科学科の五学科でそれぞれ一学級(定員四〇人)として時代を反映した教育に取り組んでいる。また、学校全体で「地域と一体となった学校づくりと活力ある農業教育の推進」を目指しており、県下における高等学校の農業教育の中心的役割を果たしている。

第192表 伊予市立幼稚園の状況

第192表 伊予市立幼稚園の状況