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伊予市誌

6 婦人団体

 地域婦人会の再建 
 戦後新憲法によって基本的人権尊重の立場から、男女の同権が保障されるに及んで婦人の自覚はとみに促され、互いに教養を深め、相助けて戦後の混乱を克服しようとして、各地に地域婦人会が再建された。

 昭和二〇年代の婦人会活動 
 再建後の昭和二〇年代における地域婦人会活動について、郡中町婦人会の会則では、次のようになっている。

  目 的 本会は婦人の修養、生活の改善、地位の向上に努めることを目的とする。
  事 業 本会は前条の目的を達成するために次の事業を行う。
   一、婦道修練に関する事項
   二、家庭生活の整備、刷新に関する事項
   三、家庭教育の振興に関する事項
   四、児童福祉の運動に関する事項
   五、その他本会の目的達成に必要な事項
  委員会 本会に左の委員会を置く。各委員会の任務は次の通りとする。
   企画委員会 本会運営に関する綜合企画
   文化委員会 一般教養の向上に関する企画研究
   厚生委員会 生活の合理化並に社会福祉の向上に関する企画、研究
   産業委員会 産業経済振興に関する企画研究

 婦人の修養の面は、婦人学級で一般教養とともに茶道・生花・手芸などの学習が行われた。生活の改善では、結婚改善・生活の合理化が叫ばれ、昭和二九年度からは新生活運動の掛け声が強まってきた。

 新生活運動の推進 
 新生活運動は住民の自発性に基づいて、自分たちの生活の中にある非生産性、非合理性、非民主性、非健康性を共同の力で解決しようとするものであった。それは生活技術の改善を意図するものであると同時に、共同して努力することによって、生活態度をより広い視野に立って改善しようとする運動である。
 愛媛県教育委員会は昭和三〇年度の社会教育重点施策として、「常に新しく、常に明るく豊かな県民生活を築くための協力態勢確立と、生活意欲の刷新を期する新生活運動としての全市町村教育活動を推進する」との基本方針を定めた。伊予市教育委員会はこの県の方針を受けて、時間励行・結婚改善・食生活改善・保健衛生の四部門を重点的に推進することを決定した。この新しい課題に真剣に取り組んだのは婦人会であった。一九五六(昭和三一)年一月、「台所及び食生活の改善」研究委嘱団体として、伊予市の下寺部落会が県教委から指定された。

 伊予市連合婦人会の結成 
 一九五五(昭和三〇)年伊予市発足に伴い、伊予市連合婦人会が結成され、郡中校区婦人会長である木村豊子がその会長に選出された。

 下寺地域の生活改善 
 一九五七(昭和三二)年一〇月一七日、伊予市上唐川下寺部落婦人学級が主婦の友社から表彰された。一九五一(昭和二六)年の正月、この部落の主婦六人が「ぼた餅会」をつくった。当初はぼた餅をたべながらの世間話が、現在の生活を反省し、その不合理を改善しようという話に発展した。やがて「ぼた餅会」は下寺婦人会の中に発展的に解消し、更に「亭主連」も仲間に引き入れてだれいうとなく「アベック会」と命名され、次第に生活改善の実績を積み上げていった。その主なものは次のとおりである。

  〇台所改善 〇風呂場改善 〇上水道の設置 〇食生活改善
  〇共同炊事 〇野菜の計画栽培 〇季節保育所の開設
  ○寄生虫駆除のための検便
  ○親子会での話し合いやレクリェーション

 こうして下寺婦人会による婦人学級は、六人の主婦が作った「ぼた餅会」が発展して、地上の楽園建設にたゆまぬ前進の歩みを続けて来たが、その中心となったのは、この会はえぬきの篠崎一子と、その夫英雄の献身的な熱意であった(昭和三二年一一月一日発行『主婦の友』一一月号)。

 曽根地域の生活記録 
 伊予市大平の曽根部落では、婦人の集会が一九五三(昭和二八)年ごろから頼母子講を中心としてできた。それが一九五五(昭和三〇)年には生活改善のグループ活動を始め、台所や環境衛生の改善を行った。しかし物質面だけでは真に明るい農村建設は困難であるとの観点から、生活記録に取り組んだ。
 最初は人のことばをそのまま表現することから始め、次にはありのままに素直に書くことを目標とし、更にお互いの悩みについて、みんながこれを共通の問題として考え表現する。こうしてほとんどの会員が記録に親しんできた。
 一九五八(昭和三三)年、農林省主催の研究発表会で、この運動の推進者曽根千代子は、愛媛県代表として研究発表を行い、全国的な注目を浴びた。

 楽しい家庭、明るい町づくり 
 伊予市連合婦人会では、毎月会長会を開いて、活動の徹底について連絡協議した。昭和三八年度の活動方針は、次のようであった。

  1 町を明るく美しくする。
   イ 海岸、森川、大谷川に塵芥汚物を捨てないよう立札を建てる。
   ロ ゴミ箱を製作し各戸に整備の運動をする。
   ハ 公衆便所を清潔にする運動をする。
  2 家族の日を設定する。
     家族の一人一人が人格を尊重し合い、協力し合って楽しい家庭をつくるために、家族全員が話し合って工夫する日として家族の日を定める。

 この方針に基づいて郡中校区婦人会(会長木村豊子)は、セキスイ、ポリペールのゴミ箱を町内に設置する運動を推進し、各戸にこれを設置してこの運動の成果をあげた。
 家族の日の設定は、上野公民館主事仲神知明が伊予校下で熱心に提唱し、次第に家庭に浸透していたのを全市的に取りあげたもので、毎月一五日(月によっては日を変更し、五月は五日、一一月は三日とする)を家族の日とし、各家庭では必ず話し合いを行って、楽しい家庭をつくることをねらったものである。この方針は翌年も引き継がれたが、結局は部分的、一時的で定着しなかった。

 下三谷の共同炊事 
 農繁期における主婦の過労を避け、栄養ある食事の確保を図るという目的を持つ共同炊事は、新生活運動の一つの柱である食生活改善運動の一環として、下三谷部落で開始された。前の伊予校区婦人会長で、当時生活改善運動の推進委員であった小迫澄子は、一九六一(昭和三六)年六月、下三谷部落の近江・中組の農家約五〇戸を対象に、自宅を調理場として共同炊事をはじめた。最初の試みは成功した。翌年は婦人会と部落の費用で、下三谷公民館に調理場を作り、設備を整えたので対象戸数も段々増加した。一九六八(昭和四三)年、婦人会が二〇万円、部落が改良課から五〇万円を無利子で借り入れて共同炊事場を作った。対象戸数は一五〇戸、食人員は五五〇人にも及んだ。開始以来実に十余年、現在まで継続されていることは推進者の努力はもとよりであるが、部落の人たちの協同精神にもよるものである。