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伊予市誌

5 青少年団体

 ボーイスカウト
 国際的な青少年運動の一つとして、戦後G・H・Qの許可によりボーイスカウトが再興された。
 昭和二四年度、砥部町の伊予一隊に続いて、郡中町に五色健児の伝統を受け継いで、医師橘芳樹が育成会長となって郡中小学校校長町田広高が隊委員長、向井坂男を隊長にして伊予第二隊が誕生した。こうして伊予地区のスカウト運動の基礎ができた。
 翌昭和二五年度には北山崎村に第四隊、昭和二六年度には南山崎村に第六隊、次いで南伊予村の各部落八倉・宮下・上野・上三谷・下三谷に、第八・九・一〇・一一隊が結成された。
 一方、県では一九五〇(昭和二五)年七月県連総会が行われ、連盟長に久松定武、事務局長に町田広高が就任した。町田はその後一九六三(昭和三八)年に至るまでその役にあって、伊予市内各隊(後団と改称)はもとより県連盟の発展に努力を続けた。
 各地に誕生したスカウトは、野営訓練会・救急法講習会・測量法研究会・移動キャンプなどに参加し、B・S運動の発展のため励まし合った。
 昭和三〇年代に入ってリーダーの職場移動などの理由で指導者が不足し、やむを得ず休団するものもあった。一九六八(昭和四三)年、伊予市は谷上山にキャンプ村を開設したので、市内各団はその運営に協力貢献するとともに、自らもこの機をとらえて訓練を行った。伊予市内ボーイスカウトの昭和四八年度の状況は、第181表のとおりである(ボーイスカウト愛媛県連盟編『あしあと第二号』)。

 地域青年団の結成 
 戦後多くの青年団体が結成されたが、その中でもっとも活発な活動をしたのは地域青年団であった。戦後二年間に県下の一部を除いて、一応単位団の結成を終わり、郡市の連合体も結成された。一九四七(昭和二二)年一〇月県連合青年団が結成された。当初の活動は、素人演劇会などのレクリェーションとスポーツが各地で行われたが、社会奉仕活動、新憲法研究などの文化活動、正しい選挙をするためのけいもう活動、郷土産業の振興など郷土を基盤として日本再建に努力した。
 伊予市発足前後の青年団活動は、この団体の黄金時代ともいうべきであろう。例えば北山崎青年団では、次のような活動を行った。

  総務部 部落懇談会(婦人もまじえて)・老人慰安
  文化部 村報編集・講演会・弁論会・演劇・展覧会・歌ごえ
  社会部 先進地視察・遠足・交かん会
  産業部 農業振興・研修会・村有林下刈・農業祭・道路愛護の砂利散布
  生活部 料理講習

 伊予市発足の年の八月、伊予郡連合青年団から分離して伊予市連合青年団を結成し、団長に水口寿(南伊予)が選ばれた。連合団の活動も活発で、弁論大会・体育大会・住吉祭の盆踊大会・料理講習・青年大会などを開催した。一九五六(昭和三一)年の愛媛スポーツ大会では、伊予市が堂々と総合優勝した。当時の団員数は約一、ニ○○人であった。

 ふたつき会の生活記録 
 一九五六(昭和三一)年、伊予校区青年団の宮下部落を中心として、生活記録に取り組むグループが生まれた。「毎日の暮らしの中での事柄や、気楽な仲間で話し合った事柄などを文章にすることで、友達同志の考えを知り、仲良くなること、そして考える習慣や、本当の事を言えるようにする」ことがその目的であった。提唱者は、伊予校区青年団社会部長の岡井延男であった。
 最初は文章になれないので、テーマについて話し合いを行い、その記録を文章化することから始めた。文集第一号は「なもし」と名付けて、できるだけ多くの人が書くよう呼びかけた。翌年「なもし」第二号を発行した。この年全国青年研究集会に、野島薫、重松一秀の二人が参加した。
 一九五八(昭和三三)年、会は青年団から分離して、「二か月に一回文集を出す」ので「ふたつき会」と名付けた。以後は県教委社会教育課、玉岡乾三郎・大森利敬の指導を受けた。文集「ふたつき」は、その後、号を重ねること十数号に及んだ。「私のお母さん」「農繁期」「幸せな家庭生活」「戦争のぎせい者達」などのテーマによる特集号も発行した。会員は一時は約七〇人に及び、松前町神崎あたりからも参加した。この会は約五年にわたって活動を続け、その間会員の記録が松山中央放送局でしばしば放送された。

 愛青連の加入 
 県下の地域青年団は、それぞれの地域によってその性格を異にし、一九五三(昭和二八)年ごろでは、前進型、中間型、旧来型に分かれていた。一九六一 (昭和三六)年ごろから愛媛県の青年団の主体性をめぐって対立が激化し、西条市・大洲市・伊予市・北条市・伊予郡・喜多郡・南宇和郡の各連合青年団は、県連から自主的に脱退した。その中で、西条市・大洲市・伊予郡・喜多郡の各連合団は、一九六二(昭和三七)年、新たに愛媛県青年団協議会(愛青協)を結成した。伊予市連は、しばらく形勢を観望していたが、一九六四(昭和三九)年九月に、県連青を脱退した郡市青年団の全県的統一の組織である愛媛県青年団連合(愛青連)結成に参加入会した。
 経済の高度成長に伴って、昭和四〇年代の農村は若年労働者の都市流出がはげしく、青年団員は減少するばかりであった。しかも、この団体が従来の網羅制を廃止し、民主団体として団員登録制を採用したことも減少の原因となった。

第181表 伊予市内ボーイスカウトの状況

第181表 伊予市内ボーイスカウトの状況