データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

3 青年学校教育の戦時体制

 小学校教育とともに青年学校は、より濃厚な戦時体制に入った。その一例として、昭和一四年度における郡中村青年学校経営上の努力点を掲げると次のようであった。

    郡中村青年学校経営上の努力点
  一、団体的訓練に重きを置き、それを通して全体主義皇道精神の鍛錬、規律礼儀の修錬、質実剛健中正の気風を修め、日本人としての自覚を高む。
  二、時局を認識せしめ大陸発展の教育に努む、週報講読の奨励、公民、地理等の学科には特に時局認識の資料を採る。適当なる講師の講演(大陸より帰った人等)後の会にて国策の説明
  三、体位向上 毎日青年には必ず次の三つの内一つ以上を行わしむ。①タワシ摩擦②冷水浴③冷水摩擦 栄養上の知識を授く。
  四、出席歩合の向上を計る。生徒自治会を中心として行う。出席票による家庭との連絡。家庭訪問
  五、貯金奨励 青年団員として申合貯金をなすの外、各員は貯金通帳を持ち毎月貯金をなさしむ。

 青年学校の義務制化 
 勤労青少年教育に対する統一的な制度は、青年学校の発足によって確立された。しかし、軍事的見地から男子青少年の就学が強く要望されていたにもかかわらず、なお、三分の一の青少年が未就学のまま取り残されていた。そこで政府は、一九三九(昭和一四)年四月、新しい青年学校令を公布して青年学校の義務制を実施した。これに伴い愛媛県では、独立青年学校の設置促進を歓奨した。これに応じて郡中地方では、同一五年に郡中青年学校が、一九四一(昭和一六)年には北山崎・伊予の二つの青年学校がそれぞれ独立した。しかし財政上の理由で、郡中青年学校が従来の旧校舎を敷地外に移転して使用したほかは、国民学校の片隅に間借りしていた。南山崎はこれまでどおり国民学校との併設であった。当時の独立青年学校の状況は、第171表のとおりであった。

 青年学校査閲 
 青年学校の戦時体制に拍車を掛けたのは、査閲であった。査閲は教練と学科に分かれ、教練査閲は、連隊区司令部から佐官級の軍人が査閲官となって、教練指導の状況を検閲し講評を行った。学科査閲は、最初は教練査閲の補助的なものであったが、一九四〇(昭和一五)年から強化され、教練査閲と合同して実地授業、筆答試問、口頭試問が行われた。この査閲当日、教職員及び生徒は、これによって学校が評価されるので非常に緊張した。

 非常措置 
 戦争がはげしくなるにつれて、非常措置が取られ、食糧増産・防空防衛・軍事生産など直接戦争に大切な用務に挺身するため、教科課程を一部変更した。正規の授業は次第に減って、昭和二〇年度からはこれを原則として停止した。

第171表 独立青年学校の状況

第171表 独立青年学校の状況