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伊予市誌

4 青年団の発足と青年教育の開始

 封建制下の若者集団 
 江戸時代においては、若連中・若者組などと呼ばれる若者集団があった。農村では神社における祭礼の行事・娯楽・共同警備、漁村では漁業をするための協同作業などで、一部落一村落の青年男女が、組織的な団体をつくって、統制のある行動をとるようになった。

 青年会のめばえ 
 古くあった若連中・若者組の組織に代わって、愛媛県の各地では、明治時代中期以降、青年会・夜学会などが生まれた。
 郡中地方では、下吾川村字沖組の若連中が一八七八(明治一一)に夜学会を起こし、一八九〇(明治二三)年には、これが拡張して、大字下吾川夜学会と称した。
 一八九四(明治二七)年、一八九五(明治二八)年の日清戦争中、県下一般に夜学会が普及した。一八九七(明治三〇)年の新聞には、郡中町青年会のことが掲載せられている。その会則では、会員は一五歳以上三〇歳までの青年で、会費は会合ごとに毎回三銭であった。

 青年会設立の促進 
 青年会は次第に普及していったが、一方では旧来のろう習を守る若者も多く、整備された会則を持つ郡中町青年会も、数年で解散する有り様であった。しかし、一九〇四(明治三七)年二月、日露戦争が起こると、青年会を設立し銃後活動の中枢にしようとする動きがあった。同三八年政府は、青年団体の設置奨励の通達を出した。これを受けた愛媛県は知事名で、青年団体の発展・指導について指示を行った。郡中地方の青年会設立の状況は、次のようであった。
 南山崎村 地方青年の風俗きょう正と知識養成とを目的とし、一九〇四(明治三七)年九月に唐川及び大平にそれぞれ青年会を組織し、時々会合して有益な談話をしたり、あるいは一定の時季の間は夜学をした。一九一〇(明治四三)年一月、両青年会を合併して南山崎村青年団とした。
 北山崎村 一九〇四(明治三七)年四月、村内八部落の若連中を廃して青年会を起こし夜学会を開いた。巡回文庫を設けたり、青年会報を毎月一回発行したりして、互いに智徳の修養に努めた。一九〇九(明治四二)年九月に、各部落青年会を統一して北山崎村青年会を起こした。
 郡中村 一九〇七(明治四〇)年四月、郡中村青年会を組織し、巡回文庫の設置や通俗講演会の開催などを行った。
 郡中町 一九〇九(明治四二)年一一月四日、郡中町公民倶楽部内に青年団を設置した。団長一人、副団長一人、団員九四人であった。
 南伊予村 一九〇二(明治三五)年、上三谷に三十余名の青年による青年同盟会が発足した。続いて各大字ごとに青年団体が生まれたが、一九〇九(明治四二)年七月四日、各部落の青年会をまとめて南伊予村青年団を組織し、各部落に支部を設けた。

 青年団の事業 
農村である南伊予村青年団は次のような事業をしていた。
  毎月一回支部例会、修養=補習教育、公文書研究、善行者表彰、農事視察、米麦の試作、手工品展覧会、作業、溜池養魚、巡回文庫の設置、理髪、規約貯金
 また、郡中町青年団では、次のような事業を行った。
  夜学、談話質疑演説討論会、義捐救護、軍人遺家族の救護弔慰並びに応召軍人送迎慰問、就学児童の保護奨励、教育実業衛生等に関する会の斡旋、町内の学事及び商工業の発達に尽力、共同旅行、運動会
 他の青年会もほとんどが同じような活動をしていた。特に、南山崎村青年団では、一九一〇(明治四三)年に郡有林一五町八反歩の植樹を行って会の基本財産をつくり、北山崎村青年団では郡有山一〇町歩の下草刈りを請負うなどの活動を行っていた。

 夜学会 
 青年団の重要な行事に夜学会があった。夜学会は、小学校教育を受けなかった青年に、教育を施すのが目的であった。後には、小学校卒業者の補習を含めた勤労青少年教育の場となった。一九〇四(明治三七)年一〇月に県に報告された「補習教育二関スル調査」で、この地方に関するものをあげると第162表のようである。
 これらの夜学会は農閑期を利用して小学校を教場とし、小学校教員の自発的な奉仕で、毎夜あるいは隔日夜間二~三時間、国語・算術を主として学習する教育機関であった。その後は、明治時代末期から大正時代初期にかけて、文部省の奨励によって、勤労青少年のための学習の場である実業補習学校に転じていった。

 実業補習学校の開校 
 一八九三(明治二六)年、勤労青少年の教育機関として、実業補習学校に関する国の規程が定められた。しかし、中等学校・小学校の充実に力を注がねばならなかった府県・市町村にとっては、これを省みる余裕がなかった。一九〇二(明治三五)年にはこの規程は全面的に改正された。これを契機に愛媛県内にもようやく実業補習学校設立の動きが生じた。郡中地方の状況は次のとおりである。
 北山崎村 一九一〇(明治四三)年当時、本郡に農業補習学校があった。修身・農業・国語・算術を教授し、一九一一(明治四四)年のときの生徒は二一人であった。貯金会を設けたり、村内の事業を請け負ったりして貯金した。
 郡中町 一九〇五(明治三八)年五月八日付けで認可を得て、郡中商業補習学校を創設した。商業に従事し、もしくは従事しようとする者のために、職業上必須の知識技能を授けると同時に、小学教育の補習をするものであった。生徒定員を約五〇人とし、一九一〇(明治四三)年六月から第193図のように生徒定員二〇人の竹細工実習科を加設した。
 郡中村 一九一二(明治四五)年六月、上吾川・下吾川・米湊にそれぞれ設けられた。当初の入学者は少なかったが、だんだん生徒数も増し、教科の内容も、高等小学校一、二年程度のものが指導された。
 南伊予村 一九〇八(明治四一)年二月、上野農業補習学校を伊予尋常高等小学校に付設した。一九〇九(明治四二)年、下三谷字中組に下三谷農業補習学校を設置した。更に、一九一〇(明治四三)年大字上三谷字旗屋に上三谷実業補習学校を設置した。学科は男子は修身・国語・算術・農業の四科目、女子は修身・裁縫の二科目であった。教授時数は男子は一週一〇時間、女子は四〇時間、男子の週一〇時間は毎週五日、毎夜二時間である。また、教員は三校とも校長ほか一人であった。
 実業補習学校は、その後増設を続け、一九一三(大正二)年三月三一日における当時の学校の状況を『愛媛県教育史』によると、特に南山崎村を除いては農村はほとんど各大字ごとに設置されていた。教員はほとんど兼任で、専任は郡中と下三谷にやっと一人だけという実態で、内容面において充実したものではなかった。

第162表 補習教育に関する調査表

第162表 補習教育に関する調査表