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伊予市誌

1 町村立小学校の整備

 小学校の編成替え 
 一八八九(明治二二)年の市制・町村制の公布によって市町村が公立小学校の設置主体となる原則が確立した。当時の小学校令では小学校の設置区域及び位置を、府知事・県令が定めることにしていた。愛媛県では、新市町村に適合した小学校の編成替えを計画し、市町村当局の意向を打診して、一八九〇(明治二三)年三月に「市立町村立小学校ノ校数、位置及其種別」を定めた。
 その後、各市町村は一八九一(明治二四)年文部省が定めた「小学校設備準則」を参考にして、一八九二(明治二五)年に愛媛県が定めた「小学校設備規則」に基づき、校舎の新築・校地の拡張・校具の設備に努力した。
 次に伊予市内における旧町村別の学校設備について述べてみよう。

 南山崎村 
 一八九二(明治二五)年以来、大平尋常小学校と唐川尋常小学校が両立した。
 一九〇二(明治三五)年三月四日、大平校を大字大平字石原に新築移転し、一九〇四(明治三七)年二月二日、唐川尋常小学校を大字下唐川字豊岡に新築落成して同日移転した。一九一〇(明治四三)年四月一日から大平尋常小学校に高等科を設置して、大平尋常高等小学校と改称した。

 平岡の児童教育事務委託 
 佐礼谷村平岡付近は、本校に遠いため一八七九(明治一二)年に分教場が置かれ、一八八七(明治二〇)年には平岡簡易小学校が設立された。小学校令第二八条の児童教育事務委託の規定によって、一八九二(明治二五)年に下浮穴郡長は、平岡・越木・皮ノ浦の三部落の教育事務を南山崎村に委託する申請書を県に具申してその許可を得た。就学児童は男一〇人と女三人であった。この委託は一九〇九(明治四二)年に佐礼谷小学校の校地移転、校舎新築に至るまで一七年間続けられた。

 北山崎村 
 北山崎尋常小学校は、一八九〇(明治二三)年に発足したが、一八九三(明治二六)年二月さらに間口五間、奥行三間の校舎を副築し同年八月に、間口二間奥行三間のものを副築したのでその面積は六七坪となり、これに便所二棟の三坪を合わせて七〇坪の建物となった。一八九七(明治三〇)年五月一七日、生徒数増加のため、本校のすぐ東側にある大字中村木下常五郎の隠宅を借り入れ裁縫教室に代用した。一八九八(明治三一)年三月三一日、本校裏手に間口五間、奥行四間の平屋建校舎一棟を建築した。そこで裁縫室を本校舎に復帰した。
 一九〇一(明治三四)年に至って、学校新築の件で長くもめていたが、いよいよ衆議は新築することに一決した。翌一九〇二(明治三五)年二月二八日、本校の東部約三町の所、大字中村字為則の地に、三六四坪五合の校舎が新築され、同四月六日に職員生徒・建築関係者・村内有志・来賓一同が会場に参列して、新築上棟式が行われた。峯視学官ほか来賓五〇人と、村内来賓七五〇人で、生徒一同にも折詰が与えられた。当時の村長は永井貞市、校長は千葉勝太郎、請負者は定井良吉、のち名義変更して土居宇一郎と仙波勝太郎であった。
 同年三月三一日には、北山崎尋常小学校を廃し、同年四月一日から北山崎尋常高等小学校と改称した。
 一九一一(明治四四)年五月、生徒数の増加とともに校舎が狭くなり、本校東側に五〇坪の副築を完成した。村会議員福永藤三郎が監督として大いに尽力した。

 郡中村 
一八九〇(明治二三)年の学区改正とともに、上吾川・下吾川・米湊を学区として、五月五日校舎を上吾川の松本に建築し、松本尋常小学校と称した。小学校建築の土地には墓が多くあった。校舎の両側は大壁で、所々に角い窓がつくられていた。この校舎は一九〇三(明治三六)年に高等科編成で校舎改築の際、新川の隔離病舎にした。一九〇九(明治四二)年六月には職員室が新築落成し、あわせて校舎も増築された。

 郡中町 
 一八九九(明治三二)年一一月、米湊字安広に校舎を新築し、元の明教小学校に分教場を置いた。一九〇六(明治三九)年、校長に新任した大元茂一郎は、年々児童が増加していく傾向にあったので、二校舎の建築計画を立て、その資金とし一戸一銭の日掛け貯金を提唱した。一九〇八(明治四一)年八月、重松親正が校長のとき二校舎を、続いて一九一〇(明治四三)年七月に一校舎が増築落成した。校地ニ、三四〇坪・校舎四四一坪で、郡内まれに見るりっぱな建築であった。

 南伊予村 
 一八九九(明治三二)年伊予第一・第二尋常小学校を合併して、伊予尋常小学校と称し、本校を上三谷に置き、宮下に仮分教場を設けた。一九〇〇(明治三三)年四月、伊予尋常小学校を廃止して伊予尋常高等小学校を創設し、大字上野銭坪の地に一大校舎を新築した。構造は二階造り、校地は一、六九八・三坪、校舎坪数は二八四・五坪で屋外体操場は一、一八九・三坪であった。
 その後一九〇六(明治三九)年に平屋一棟を、同四三年にも平屋一棟を増築したので、校地は約二、一八三坪、校舎は約六二〇坪となった。

 組合立郡中高等小学校 
 下浮穴・伊予郡の両郡立郡中高等小学校が廃校となったので、郡中町・郡中村・北山崎村・南山崎村の四か町村長が代表となり、組合立高等小学校を創立した。一八九二(明治二五)年一一月であった。その概況は次のとおりである。なお、郡中高等小学校の平面図は第192図のとおりであった。

  位  置 郡中村大字米湊小字西野原六七八番地
  修業年限 四か年
  生徒数  元郡中高等小学校に在学していた者が一三〇人、このたびの入学者が一年四〇人、二年三五人、三年三五人、四年二〇人
  学級編成 第一学級三、四学年男三八人、第二学級一、二学年男五一人、第三学級女四一人
  校地坪数 六〇〇坪
  校舎坪数 一六四坪五合、体操場三五五坪
  収  入 授業料四二九円(八月を除き平均月三〇銭を徴収)
  支出予算 給料四人分四五六円、諸雇給四二円、旅費一〇円、生徒奨励費五・二円、備品一二二・七六円、消耗料四〇円、通信運搬費四円、借地借家費一一〇円、雑費一二円、修繕費一〇円、計八一一・九六円
  土地所有者 灘町宮内直吉
  家宅所有者 灘町宮内直吉 上吾川上田辰五郎
            (愛媛県立図書館蔵の行政文書『小学校』による)

 この学校の敷地は米湊のもと庄屋屋敷で、建物は木造で二重屋根の平屋建て瓦ぶきであった。中央に玄関があり、建具は板戸と障子で周囲は広縁であった。家が大きいため柱が多かった。柱は和紙を巻き、しぶびきをしていた。校舎の周囲はねりへいで囲まれており、玄間に向かって左側に赤松、右側に巨大な黒松があった。樹齢は二百数十年とみられた。校舎の建物の前は体操場で生徒はここで野球をした。北側の建物とへいの間に、二組の鉄棒があった。
 この学校の卒業生には、のち南伊予村の村長となり大谷池を築いた武智惣五郎、南山崎村農協の父と仰がれた吉潭武久、長崎医大学長となった影浦尚視、海軍機関大佐となった徳田順一、教育界で活躍したのち東京に出て著述業を営み、晩年は郡中公民館長として社会教育に尽くし、県教育文化賞を受けた大元茂一郎、師範・高師・京大に進み理学博士となった宮西通可、三〇余歳で医学博士となった本田重次郎、県水産課長となった菊山武雄など幾多の逸材を出した。
 一九〇二(明治三五)年、北山崎小学校に新校舎が落成して高等科が併置されるようになったので、北山崎村が組合から分離した。そこで残りの三か村によって組合立か続けられたが、翌一九〇三(明治三六)年、松本小学校の校舎増築に伴って郡中村が分離することになったため、ついに廃校となった。
 郡中高等小学校歴代校長の記録が無いので、残っている卒業証書などによると次のようである。
 一八九四(明治二七)年三月三一日 宮内保次郎、同年四月一日~一八九七(明治三〇)年三月三一日 村上見機、一八九八(明治三一)年三月三一日 安家重政、一八九九(明治三二)年三月三一日 代理藤田丈太郎(尋常訓導)、そのほか清水冬一郎、向井輝一、川中征四郎らが校長として在職していたというが、確証はない。

第192図 明治25年時の郡中高等小学校平面図

第192図 明治25年時の郡中高等小学校平面図