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伊予市誌

4 昭和以降の交通・通信

 鉄道
 一九二七(昭和二)年四月に国鉄予讃線が松山まで延長された。そして、更に南へ延び一九三〇(昭和五)年二月には南郡中駅が開業した。その後引き続いて鉄道敷設は南下し、一九三二(昭和七)年一二月には上灘駅を開設、更に下灘へと敷設されていった。
 こうして、予讃線が宇和島まで延長されて全通したのは一九四五(昭和二〇)年六月であった。国有鉄道が香川県観音寺から県内に入った一九一六(大正五)年四月から約三〇年の歳月を要した。
 国鉄の南郡中駅及びそれ以南の開通によって、伊予鉄道のこれまでの独占的地位が著しく動かされ、各自動車会社にも多大の影響を与えることになった。また、南郡中駅の開設によって、駅前から郡中港へ通じる道路も拡大整備されて物資の輸送に便宜を与え、一九三三(昭和八)年一二月には、南郡中停車場-郡中港線が県道に認定された。この年における貨客状況を示すと、第149表のとおりである。
 また、国鉄路線が南進するに従い、伊予鉄道では郡中線の軌間拡張工事を行うとともに、一九三七(昭和一二)年には伊予鉄郡中駅から郡中港駅まで延長されて国鉄との連絡が容易になり、国鉄南郡中駅との連帯運輸を開始することになった。
 戦後、一九五〇(昭和二五)年には通勤者の増加と新しい時代に順応させるために電化され、高浜線についで郡中線もボギー電車に変わり、長年親しまれていた汽車は姿を消していった。
 一方国鉄では、一九五三(昭和二八)一〇月から南郡中-今治(初めは菊間)間にディーゼルカーが登場して、ローカル線用として使用されることになった。一九五八(昭和三三)年にはディーゼルの新車が配備され、南郡中-多喜浜間を走って利用者に便宜を与え、後には川之江まで延長運転された。
 また、一九五六(昭和三一)年、高松桟橋-宇和島間に不定期準急列車が新設され、一九五七(昭和三二)年三月からは、定期列車「伊予号」となり当駅は準急の発着駅として、乗客に大いに利用された。伊予市の誕生に伴い、南郡中駅も一九五七(昭和三二)年四月に伊予市駅と改称された。伊予市駅は一九六〇(昭和三五)年に集貨駅として構内を拡張整備した。その結果、駅の規模は著しく広がった。更に一九六一(昭和三六)年には伊予横田駅、一九六三(昭和三八)年には向井原駅及び三秋信号所が新設された。
 一九八六(昭和六一)年には、国鉄内山線が開通し、また、鳥ノ木駅が新設された。日本国有鉄道は、一九八七(昭和六二)年四月に分割民営化され四国旅客鉄道株式会社(JR四国)となった。一九九〇(平成二)年には伊予北条-伊予市駅間が電化開業され、一九九三(平成五)年には高松-伊予市駅間全線が電化されている。伊予市駅も民営化により徐々に合理化され、現在では特急は半数程度停車するが貨物の集貨業務は廃止されている。

 海上交通
 大正時代末期から昭和時代初期に至る郡中港の移出入合計貨物量及び金額を見ると、金高においては一九二四(大正一三)年の三六五万円をピークに、その後は次第に減少して、貨物トン数も一九二七(昭和二)年の一三万四、〇五一トンを頂点として同じく減少していったが、昭和七~八年ころからは、再び飛躍的に増加の傾向を示した。その状況は第151表~第152表のとおりである。
 当時の移出品の主な物は、花かつお、材木、みかん、米麦、木炭などであり、移入品の主な物は、乾魚、工場関係の薬品、染料、塗料、機械油、肥料、呉服類、石炭、板などであった。この内、郡中町の特産である花かつおは、当港より大阪・神戸・広島・尾道・下関・吉浦及び大連に輸送された。また、一九三二(昭和七)年の港湾入船トン数においては、郡中港は県下の主要港のうち第六位を占めており、貨物の移動状況でも移出超過を示していることは、当港がその後背地の物資の移送地として、いかに重きをなしていたかがうかがわれる。
 やがて社会情勢の進展に伴い、後背地の物資も増加するにつれて船舶の出入りも多くなり、港湾が手ぜまとなった。こうして郡中港はただ郡中町の港であるだけでなくて上浮穴郡・喜多郡・伊予郡・温泉郡の港として、ますます重要性を加えてきた。
 一九三二(昭和七)年に時局匡救対策土木事業として政府の助成金を受け、同年度から向こう三か年継続事業として、本港西突堤の修築並びに増新設を行うこととなり、総工費四万八、二〇〇円を以て港湾改築を施工した。港の改修工事後、港の活発化に伴い、機帆船の数も増し、船も大型化して港の拡張が必要となった。ここに、時の郡中町長木村太郎のほか、郷党有志の間に外港の議が起こり、昭和一二年県営による予算六三万円、五か年継続工事として着手をしたが、途中戦争のために工期は繰り延べとなった。
 戦争も終わり、一九四七(昭和二二)年再び工事が始められ、一九五八(昭和三三)年に完成した。起工以来、実に二二年の歳月を費やしていた。町長城戸豊吉のときであった。なお、このときに郡中港は伊予港と改称され、五万坪余の外港が完成し、港内面積は今までの五倍に拡張されて、一、〇〇〇トン級の汽船も岸壁に横付けできる近代的な港となった。この完成を記念して、港の一隅に「伊豫港竣功記念」の碑が建てられた。こうして、伊予港は荷物の積み降ろしが便利となり、港に面して倉庫が設置された。また、港の周辺には製材工場も増え、伊予漁業協同組合の工場も建てられた。
 なお、これまで当港に寄港していた阪神-関門航路や、宇和島-郡中間などの航路は太平洋戦争中に中止せられ、現在はほとんど貨物船だけが出入りしている。第153表は一九七〇(昭和四五)年における伊予港入港船舶を調べたものである。一九三二(昭和七)年に比べると、トン数・乗降客が激減している。
 平成七年七月から株式会社ダイヤモンドフェリーが大分港~伊予港間に超高速旅客船「スピーダー」を運行していたが、平成一〇年三月で廃止となった。

 陸上交通
 本市における昭和七、八年ころの幹線道路を見ると、郡中を中心とした松前-岡田-余戸-松山線、南伊予村-砥部-久万線、中山-内子-大洲線、上灘-長浜線などがあり、特に中山、久万地方の材木など山間部の物資の輸送に利用された。また、昭和時代に入り、交通網の拡大されたバス路線にも利用されることが多くなった。
 昭和時代初期から一九三七(昭和一二)年ころまで、一〇数年間はバス会社の営業路線争奪のために激しい競争が行われ、そのため、バス会社間の統廃合が実施された。一九三三(昭和八)年九月には、中央・内子・愛媛の三自動車会社に郡中自動車会社を加えて、三共自動車会社が生まれた。更に宇和島自動車、後には国有自動車の進出などもあってバス業界は活発を極めたが、昭和一〇年国家の統制方針に沿って、県下のバス営業は東・中・南の各地区ごとに会社の合併、統合が進められた。
 一九四四(昭和一九)年一月には、これまで伊予鉄道が出資し支配していた三共自動車が正式に同社に合併し、伊予鉄道は自動車部を設置してその営業を受け継いだ。また、東予では瀬戸内運輸株式会社が各バス会社を統一し、南予では宇和島自動車がバス会社を統一した。一九五〇(昭和二五)年には、松山-内子間を急行バス(伊予鉄道)が走ることになった。各線のバスは郡中港駅に発着し、そのために国鉄予讃線や伊予鉄郡中線と連絡されて便利であった。
 しかし、一九六五(昭和四〇)年後半頃から自家用車や原動機付自転車が増加し、乗客の減少が見られ二〇〇四(平成一六)年現在、郡中港駅に停車するバスは二路線だけであり、伊予鉄南予バスや宇和島バスのバス停は国道五六号線沿いにある。

 郵便事業と電信電話
 昭和時代となって、郵便事業の進展は目覚ましかった。その一つには、交通機関の発達に負う所が大きく、汽車・汽船・自動車、更に飛行機が利用されるようになった。
 一九三二(昭和七)年ころ、航空郵便飛行機の発着地は四国においては松山と高松であったが、どこからでも郵便を出すことができ、料金が安くて便利なためによく利用された。こうして、郵便局の設置場所は次第に増加していった。一九二七(昭和二)年三月には南伊予村郵便取扱所が設けられ、一九三〇(昭和五)年には南伊予郵便局となった。また、郡中局電報配達区域(郵便局より四キロ以内の地域)は左のようになっている。

  直ちに配達する所
    郡中村全部(谷上山を除く)、北山崎村大部分(三秋の端付近は配達せず)、南山崎村大平南山崎小学校まで、南伊予村下三谷、上三谷の一部、郡中町全部、松前町南黒田
  郵便で配達する所
    大平・上唐川・下唐川・上三谷の一部、宮下・八倉・上野、北伊予村横田・大溝・永田・鶴吉・神崎・出作

 一九三五(昭和一〇)年八月には、南山崎村大平石原に郵便取扱所が設けられ、一九三八(昭和一三)年四月には南山崎郵便局となった。その後、郵便事業は順調に発達していった。一九四三(昭和一八)年松山に逓信局が置かれ、四国四県の逓信管理事務を大阪、広島逓信局から継承独立した。
 戦後、一九四九(昭和二四)年三月には郡中郵便局は従来の特定局より普通郵便局に昇格した。更に同年六月には、郵政省設置法及び電気通信省設置法の実施に伴い、郵政業務と電信電話業務に分離し、電信、電話業務を専管するため、郡中にも四国電気通信局の直営にかかる電報電話局が灘町郡中町役場横に設置された。後、一九六六(昭和四一)年五月灘町より現在地下吾川浜田に新築移転、そして、これまでに伊予郡内各町村郵便局で行われていた電信・電話事務は分離して、郡下郵便局と発信受信の連絡を取るようになった。
 一九四九(昭和二四)年には北山崎郵便局が設置され、一九五六(昭和三一)年二月には尾崎郵便局となった。また同年二月には南山崎郵便局が大平曽根に新築移転し、大平郵便局となった。更に一九五九(昭和三四)年には湊町郵便局が開設され業務を開始した。
 一九六四(昭和三九)年には、伊予市農村有線放送電話が設置されて、農協から農事放送、その他のニュースを放送し伊予市内の一部を除いた各地区に対してその機能を発揮していたが、一九八四(昭和五九)年四月廃止した。
 一九七三(昭和四八)年に伊予郵便局が米湊安広に新築移転され、一九七四(昭和四九)年には尾崎郵便局が米湊に移転し、伊予米湊郵便局となった。更に、一九九三(平成五)年には大平郵便局が市場に移転し、伊予市場郵便局となり、二〇〇一(平成一三)年に伊予米湊郵便局が移転し、伊予五色姫郵便局となっている。なお、管轄している国の組織も郵政省から二〇〇一(平成一三)年省庁再編に伴い郵政事業庁となり、二〇〇三(平成一五)年四月から日本郵政公社となっている。

 運輸業
 一九三〇(昭和五)年国鉄南郡中駅の開業後、郡中合同運送株式会社が創設され、その後上灘・下灘にも運輸会社ができたが、一九四二(昭和一七)年伊予通運株式会社となり、一九四四(昭和一九)年一〇月には日本通運株式会社郡中営業所となった。事業内容は、大口・小口の鉄道輸送及び陸上運送を取り扱った。また、このほか、中予運送株式会社も郡中、砥部、中山などに営業所を設置して貨物輸送を営んでいた。
 海運業では、前述のように明治時代末期、灘町郡中港に面して大西回漕店、次いで金井回漕店が創設され、明治・大正・昭和時代を通じて船舶輸送や倉庫業務を取り扱った。なお戦時中、大西回漕店は愛媛機帆船株式会社郡中支店となっていたが、戦後、機帆船株式会社は解散して再び大西回漕店となった。
 一九三二(昭和七)年には、伊予商運株式会社が創立され、郡中にも出張所が設けられて海陸運送及び倉庫事業などの運輸業を営んだ。また終戦後、一時宇和島運輸汽船が郡中港にも寄港していたが利用者が少ないため短期間で中止された。
 その後、伊予市内におけるこれらの陸海運送業界にも、統合・新設・廃止が見られた。そして現在陸運業では、日本通運株式会社伊予市営業支店、カネサ運輸株式会社、四国名鉄運輸株式会社伊予営業所のほか、市内各所にも運送店が設置され、海運業ではカネサ運輸株式会社、伊予港運株式会社、伊予組回漕店などがあってそれぞれ運輸、運送業を営んでいる。なお、終戦後荷馬車は衰微していったが、トラック輸送は著しく発展して、短距離輸送はもちろん大型トラックによる長距離輸送も発達した。また、フェリーボートを利用することにより運送面で非常に大きな役割を占めるようになった。更に、本州四国連絡橋三ルートの開通、松山自動車道の延進に伴う一九九七(平成九)年の伊予インターチェンジの開通などにより、トラック輸送の利便性は一層向上した。タクシー関係では、いよ交通・郡中タクシー・ツバメハイヤーがあり、また、観光バスではミタカ観光、奥島観光がある。

 その他の情報産業活動
 現代は情報の時代であり、殊にマスコミによる報道は目覚ましい。新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・映画・インターネットなどによる社会への伝達はおびただしい。
 ラジオは、一九二五(大正一四)年放送が開始されて以来全国に普及していった。郡中地方では、一九三〇(昭和五)年前後からラジオの普及が見られるようになった。普及率は高くなかったが、アンテナを高く張っているラジオの聴取家屋がそこ、ここで見られるようになった。ニュースをはじめ各種の情報が伝達されたが、中でも全国高校野球や相撲の実況放送などに関心を持たれた。
 一九三八(昭和一三)年に松山放送局の設置が認可され、一九四一(昭和一六)年には、松山中央放送局が開局されラジオ放送を開始した。
 戦後、ラジオの普及は高まり、一九五〇(昭和二五)年には県下で三六・八%に達した。一九五三(昭和二八)年二月からNHKテレビが放送を開始した。また同年一〇月には、ラジオ南海が開局された。更に一九五六(昭和三一)年三月から県内のテレビ受像が始まり、翌一九五七(昭和三二)年五月には松山テレビ放送局が開局された。
 伊予市における一九五七(昭和三二)年のラジオ台数は四、六〇一台、テレビ台数九八台であった。そして、そのラジオの普及率七二・三%は、県平均六五・七%を上回っていた。翌一九五八(昭和三三)年には、伊予市の普及率は七五・五%に(県平均七〇・六%)上昇した。
 一九六〇(昭和三五)年伊予市では、ラジオは一世帯に一台、テレビは四・六世帯に一台の割合となった。
 NHKテレビ放送開始後一〇年目に当たる一九六三(昭和三八)年には、伊予市のテレビ台数は三、五四八台となり、テレビは急速に増えていった。松山中央放送局の調べによると、一九六七(昭和四二)年には受信者数(テレビとラジオ)五、三五八(七九・〇%)ラジオのみの受信者数四八五となっている。
 また、一九六九(昭和四四)年には、テレビ愛媛が放送を開始し、伊予市上野行道山頂に送信所を設置した。
 翌昭和四五年度には、伊予市〈テレビ・普通〉契約台数四、○三三、カラー契約数一、七六六(二六・一%)合計五、七九八(八五・五%)と、カラーテレビが次第に普及していった。昭和四八年度市内の普通テレビ契約数二、二九〇、カラーテレビ契約数三、六三二(五一・三%)合計五、九二二(八三・七%)となり、県平均八二・○%を上回った。一〇年後の昭和五九年度の市内テレビ契約数は七、一五二で、そのうち普通テレビ四八二、カラーテレビ六、七七〇となっている。
 一九八九(平成元)年には衛星放送が開始され、一九九二(平成四)年にあいテレビが放送を開始した。平成六年度の市内テレビ契約数は一般放送受信八、一〇七、衛星放送受信一、六〇八となっている。
 更に、一九九五(平成七)年に愛媛朝日テレビが放送を開始している。
 平成一四年度の市内テレビ契約数は一般放送受信九、〇一五、衛星放送受信二、七五四となっている。
 なお、二〇〇三(平成一五)年に東京・大阪・名古屋で地上デジタル放送が開始され、今後地方に拡大される予定である(NHK松山放送局)。
 パソコン(パーソナル・コンピュータ)の普及によりインターネットの利用は著しく増加しており、一九九六(平成八)年に伊予市の公式ホームページを開設した。平成一五年度には月平均五、四三一・八件のアクセスがあった。

 現在の交通
 伊予市内の主要道路は、八倉から三秋までの山沿いを四国縦貫自動車道の松山自動車道(川内~伊予間、一九九七(平成九)年開通。伊予~大洲間、二〇〇〇(平成一二)年開通)伊予インターが市場で国道五六号線に接している。四車線化を進めている国道五六号線が本市の中央部をほぼ南北に走り、また、国道三七八号線が灘町と並行して下吾川から米湊、尾崎、中村より三秋の峠を経て双海町へと通じている。主要地方道伊予川内線は整備が終わり、伊予砥部線は伊予市分の整備は終わりトンネルの工事を残すのみである。
 鉄道では伊予鉄道郡中線とJR四国(四国旅客鉄道株式会社、一九八七(昭和六二)年四月国鉄から民営化)の予讃線(伊予北条~伊予市間一九九〇(平成二)年電化開業)及び内山線(一九八六(昭和六一)年開業)が通じている。また、松山駅付近鉄道高架事業のためJR車両貨物基地が松山駅から上野に移転する計画がある。

第149表 南郡中駅(国鉄)、郡中駅(伊予鉄)貨客状況表

第149表 南郡中駅(国鉄)、郡中駅(伊予鉄)貨客状況表


第150表 南郡中駅(国鉄)からの運賃表

第150表 南郡中駅(国鉄)からの運賃表


第151表 郡中港入港船舶数並びにトン数

第151表 郡中港入港船舶数並びにトン数


第152表 郡中港乗降船客人数

第152表 郡中港乗降船客人数


第153表 伊予港入港船舶調べ

第153表 伊予港入港船舶調べ