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伊予市誌

1 銀行業の発生と発展

 明治維新となり、新政府は経済情勢の変化に伴い、近代化促進の契機として、また財政の根拠を固めるうえに金融機関の創設を急務とした。そこで民間の富豪に奨励して、主要都市のほか一部の地方都市に為替会社を設立し、銀行業務及び紙幣の発行を行わさせた。
 しかし、これらの為替銀行は、当時の金融に対する無知と施設の不十分なため、失敗に終わった。そこで政府は一八七一(明治四)年一一月、国立銀行条例を発布して国立銀行を設け、公認の金融機関として紙幣発行の任務及び普通銀行業務をつかさどらせた。
 こうして、開業した国立銀行は、当初不振であったが、一八七六(明治九)年の国立銀行条例の大改正によって設立が相つぎ、一八七九(明治一二)年末には一五三の国立銀行の設置を見るに至った。このように政府の保護監督による国立銀行の興隆とともに、一方では銀行類似の営業をするものが次第に増加してきた。そして一八七六(明治九)年以降、これらは私立銀行となり、あるいは銀行類似会社として、金融の業務を行った。そのため一八九二(明治二五)年には、私立銀行が二七〇行、銀行類似会社が六八〇社の多きを数えるに至った。
 本県でも、一八六八(明治元)年松山に商法社を設立したのをはじめ、県下に四社が設置されて銀行類似の業務を営んだ。県内の国立銀行では、一八七八(明治一一)年一月、資本金一〇万円で西宇和郡川之石浦に潤業会社を改組して第二九国立銀行(同年三月開業)、同年九月には資本金七万円で紙屋町に五二国立銀行(同月二五日開業)また翌一八七九(明治一二)年四月には資本金五万円で新居郡東町(現西条市)に第一四一国立銀行(同年七月開業)が設置された。
 この機運に乗じて、既に一八七七(明治一〇)年には、灘町にも銀行類似会社として称平社が設立されて銀行業を営んだ。当会社は篠崎謙九郎(旧横田村の人)の手によって設けられたもので、社長のほか役員一人、社員三人、株金高四、〇〇〇円、当該年度(明治一三年末)純益高七二〇円という小規模のものであったが、郡中地方の産業の発展に寄与する所が少なくなかった。これら銀行類似会社の貸金の相手は商工業者が多く、商業金融を主としたが、近在の農漁村に対する不動産金融も行っていたようである。
 しかし、一八八一(明治一四)年以降には、デフレのため銀行の新設が見られなかったが、好況に転じた一八八六(明治一九)年には、宮内惣衛・篠崎謙九郎・宮内治三郎・宮内直吉・亀田信吉・村瀬敬吉・藤谷豊城などの有志が資本金一〇万円で灘町に郡中銀行を創設した。
 郡中銀行の成立過程については、もと灘町の町老であった宮内惣衛が明治初年、郡中貯から積立米を分離して、これを江戸時代末期から行っていた積立金と合わせて取り扱うようになった。これを当時、義倉といっていたが、後には通否社と改められた。郡中銀行は、この通否社に基因してつくられたものである。その後、郡中銀行は当地を中心とした経済界の中枢機関として、金融面に貢献していった。
 明治二〇年代になり、地方産業の進展に伴い県内各地(八幡浜・大洲・今治など)に銀行が設立された。これらは、私立の銀行類似会社の域を出ていなかったが、一八九三(明治二六)年七月、銀行条例の実施によって従来何らの法的根拠を持たなかった普通銀行はその基礎が定まった。そして郡中銀行も、正式な銀行として発足することになった。
 その後、日清戦争の賠償金の流入による経済のぼっ興に伴って金融界も活気を呈し、更に国立銀行より普通銀行への転換もあって、一八九七(明治三〇)年前後は銀行増設の最盛期となった。
 一八九七(明治三〇)年一二月、郡中町においても元初代町長宮内直吉の手によって資本金一〇万円(後増資して二〇万円となる)をもって伊予商業銀行が設置された。なお、前年の一八九六(明治二九)年七月には砥部銀行が、また翌一八九八(明治三一)年三月には中山銀行が設立されて、この地方金融の中心となった。当時の概況を示すと、第144表のとおりである。
 二〇世紀の初めころは、日清戦争後の好況は既に去って反動期に入り、地方の弱小銀行は基礎の定まらぬうちに不況の影響を受けるようになった。更に、これら小銀行自体にも種々の弊害が内在していたため、一九〇一(明治三四)年の上期に襲った金融恐慌によって閉鎖する所も出てきた。
 伊予商業銀行も不況の影響と、重役株主間の意見の衝突によって一九〇一(明治三四)年伊予汽船会社とともに解散し、当地方の経済界だけでなくて一般の人心にも多大の打撃を与えた。また、他地方の信用を失うことによって町の商工業者も、大きな打撃を被りその損失は少なくなかった。第145表は愛媛県における私立銀行の推移を示すものである。
 なお、一九〇一(明治三四)年四月、わが国最初の恐慌の火元と見られた大阪七九銀行の休業は、七九銀行伊予郡中支店にも影響を及ぼし、同年四月二七日に動産を差し押さえられて破産が決定した。そのため、郡中では同銀行に対して取り付け騒ぎが起こり、やがて任意解散をしてしまった。
 また、郡中銀行も当時多少の変調を来たしたが、危急を乗り切る事ができた。そして翌一九〇二(明治三五)年には上灘に代理店を設置し、更に松前にも代理店を設けた。その後、一九〇四(明治三七)年には、伊予農業銀行が岡田村の窪田節二郎などの尽力によって郡中町に支店を置いた。
 郡中灘町にある原町外八か村共有物組合(元郡中貯)は、産業組合、耕地整理組合、溜池改修費、道橋修築費などへの貸し付けや高等教育を受ける者に対する教育資金の貸与(一人につき一二〇円程度)など、金融機関としての性格を備えていた。
 日露戦争後、経済界は好況の時代となり、銀行への資本金は増加の傾向を示した。しかし、一九〇七(明治四〇)年から景気は反動期に入り、普通銀行の大資本化とともに銀行の整理も多く行われた。第146表は銀行の推移を示す。
 中山銀行は一九〇七(明治四〇)年解散の止むなきに至り、一九一〇(明治四三)年一二月には、郡中銀行が五二銀行郡中支店に吸収合併された。なお、合併当時の郡中銀行頭取は高須峯造、専務が近藤亀吉であった。
 同じく、翌一九一一(明治四四)年一〇月には、砥部銀行も五二銀行に合併された。合併前(明治四二年度)の郡中銀行は、資本金一〇万円、預金一億二、九三四万七、四一三円、貸付金九、〇〇五万七、一九一円であった。また、一九〇八(明治四一)年一〇月には、郡中町に資本金一万円で、水産資金供給合資会社が設けられ、水産業関係に対する金融を営んだ。

第144表 伊予郡内普通銀行の概況

第144表 伊予郡内普通銀行の概況


第145表 愛媛県における私立銀行の推移

第145表 愛媛県における私立銀行の推移


第146表 愛媛県本店銀行の推移

第146表 愛媛県本店銀行の推移