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伊予市誌

二、明治以降の金融

 一八六八(明治元)年、港の修繕費としての運上金を納めることを条件として、灘町天神社内において富くじが行われた。富くじは今日の宝くじの源流をなすものであり、主として江戸時代に、寺社修復再興などの資金集めに行われていたものであった。この富くじは、一八七一(明治四)年まで、わずか三回行われただけでその後廃止された。
 頼母子は、依然として明治以降も盛んに行われた。一八七六(明治九)年港の永代維持のために一、七〇〇円の頼母子を行い、更に一八八一(明治一四)年には郡中港修繕原備頼母子講を時の伊予郡長西川武久の尽力により企てられた。このときの頼母子は大掛かりなもので、元締として伊予郡西垣生村村上久太郎、同郡昌農内村窪田節次郎、同郡横田村篠崎謙九郎、同郡上三谷村三好薫、同郡尾崎村伊藤徳隣、同郡湊町岡井九左衛、同郡灘町宮内小三郎、同郡同町宮内治三郎、同郡同町宮内直吉らが加わり、第一着に灘町で募った金額は、六、〇〇〇円余にも及ぶものであった。