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伊予市誌

一、金融の変遷

 伊予市にも古くから金融機関に類するもの、例えば八倉(旧南伊予村)の地名が示すように不動穀の貯蔵庫(注、不動倉と言い奈良時代に設けられた物で、税の米穀の一部を非常用として貯えておく倉庫)があり、中世にも市場(旧北山崎村)のように、物資の集散・交換地には土倉業が発達していた。そこでは業者が、米穀などの納入のほか、質物の保管を行い、これと交換に庶民に対して金銭を貸し付けるという初歩的な金融もなされていたようであるが、詳しい事はわからない。
 江戸時代になって商工業が盛んになり、貨幣経済が発達した。当時農村では、原則的に自給自足経済であったが、町分においては、貨幣による商取引が盛んに行われていた。
 特に各藩では幕府の許可を受けて、藩札を発行し、金属貨幣とともに使用した。大洲藩でも各種の藩札を発行していたが、灘町にも郡中会所を置き宮内才右衛門が藩の許しを得て五分米預かりの札を発行した(注、大洲藩では青銅七〇文を以て銀札一匁とし、一、〇〇〇匁を以て一貫目となし、銀札一〇〇目を以て金一両に替えていた)。
 また、貨幣の流通が盛んであった町分には、質商も少なくはなかった。質商は言うまでもなく、業者が質物を取って借主に金銭を貸すものであって庶民金融の機能を持ち、文化・文政のころには、農村にも広範に質屋営業が行われるようになった。
 このほか、頼母子と呼ばれた一種の金融機関も一般に行われた。掛金は商工業者の営業資金、庶民の住宅、物品購入資金の調達などに利用された。また郡中万安港の築造費用にも頼母子銀などがしばしば用いられた。
 郡中灘町には、金銭の融資機関として綿役所なるものがあった。これは、大洲藩の手代岡文四郎が藩の許可を得て起こしたもので、篠巻綿の製造が中国筋より実綿を買い込むに当たって、その代金を貸し与え、綿は質として役所付の倉庫に貯蔵しておき、営業者は随時これを請け出せるようにした。そして、その貸付金の利息を収めて所得としたものであって、質屋的な性格を帯びているものである。なお、この利息は、しばしば港の修築費として融資されていた。
 また、備荒貯蓄としての〝郡中貯〟も金融機関としての性格を有しており、例えば一八四七(弘化四)年には、積金の制度を作り貯米利息の内から五〇両または一〇〇両ずつ積み立てて凶年時に備えるようにした。そしてこの制度を続けることによって資金を代官所へ積み立てて利殖を図り、凶作時には人々の救済用として分配したものであった。
 三島町・灘町・湊町は宿場町・商工業の町として栄え、かつ松山藩と隣接しているため両替商のようなものも当然設置されていたものと推定されるが、その具体的な点については明らかではない。
 これらのほかにも、庶民を対象にした高利貸業があり、また、個人貸借による金策も一般に広く行われていた。