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愛媛県史 資料編 考古

三二 永納山城跡(F一三三)

 東予市河原津

 永納山城の発掘調査は昭和五三(一九七八)~五四年に東予市教育委員会により実施された。高縄半島東側の永納山(標高一三二・四m)は燧灘の中央に面し、海・陸交通上の要衝にある。山城からは燧灘や南部の周桑平野、北西部の国府のおかれた今治平野の一部を望むことができる。永納山の北西には医王山(標高一〇二・三m)が連立し、天然の要害地をなし、永納山城の一部に取り入れられている。
 永納山(東西四七〇m、南北七二〇m)の北東部は谷が北に開き、谷川は北流して今治市孫兵衛方面に向かい、医王山の東稜線もこの谷川にのぞんでいる。この北部の谷を中央にとり、列石が北部の山腹から南部の頂上に向かい稜線に沿って二・五㎞にわたってめぐらされている(最高点一二四・九五m~最低点一三一・四五m)。列石はほとんど花崗岩の割石が使用され、曲部における配石も直線的であることが特徴となっている。約二五m幅の谷部に石塁及び水門が想定されているが、国鉄予讃本線によって破壊されているようである。南門は南部の城域外に近い所と推定されている。
 列石の用途は土留のための根固め石(基礎石)であり、割石の上には土塁がめぐらされていた。根固め石は〇・六m×一m~〇・三m×〇・四m、厚さ〇・二五m以上で敷設の仕方は奥行が長く、小口を並列させている。その上に版築土層の土塁が築かれているが、その幅は明瞭でなく、七・五mほどと推測されるにとどまっている。
 この調査は列石の確認とその記録を目的として実施されたため、内部の調査は行われておらず、詳細は不明である。したがって永納山城の性格解明は困難であるが、列石を伴う土塁が城郭線を形成しているところから神籠石(こうごいし)山城の性格が強い。しかし、一方では、列石が切石ではなくほとんどが割石であり、要領のよい面もあることから朝鮮式的要素も認められ、結局、両者の折衷型という見方も有力である。
 次にその築城時期であるが、神籠石山城の使用尺が唐尺とする説や石塁、水門の築造技術が古墳末期の横穴式石室に共通していること、また、屋島城(香川県)などの朝鮮式山城が天智三年(六六四)から六年にかけて西日本一帯に築城されている(『日本書紀』)ことなどから七世紀の中ごろまでには築城されたものと考えられる。なお、白江村の敗戦以後の対唐・新羅防衛策の一環として国家によって築城されたとみるのが妥当であろう。(吉本 拡)