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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

近世〔天正13(1585)~慶長19(1614)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1585(天正13・乙酉) 
  2―4   毛利軍、喜多郡横松表で合戦する〔平賀家文書〕。
  2―7   河野通直、毛利氏の部将平賀元相の喜多郡横松表での戦功を謝す〔平賀家文書〕。
  2―11   毛利輝元、羽柴秀吉の要請で来島通総の帰島を許す〔村上文書〕。
  2―11   小早川隆景、村上(来島)通総、帰国につき、村上武吉・元吉に起請文を差出す〔屋代島村上文書〕。
  4―17   毛利輝元、秀吉の要請で伊予国出陣を陣触する〔閥閲録〕。
  5―18   秀吉勢の四国平定に対抗し、長宗我部元親、新居郡の金子元宅と覚書を交換する〔金子文書〕。
  6―5   前土佐国司一条内政、伊予で没す(7―1同一条兼定没す)〔土佐一条家并長曽我部家過去帳〕。
  6―18   秀吉、伊予国を小早川隆景に与えることを約す〔小早川家文書〕。
  6―27   小早川隆景、吉川・宍戸・福原など毛利氏の軍を率いて伊予の今張浦(今治市)に渡る〔閥閲録〕。
  7―17   小早川隆景らの中国勢、新居郡の高尾城(西条市)を攻略し、進んで高峠城(西条市)を攻略する〔予陽本〕。
  7―19   小早川隆景ら、周敷・桑村・越智・野間・風早の各郡内に進む〔予陽本〕。
  7―27   この頃、毛利軍、新居郡の5か城を攻略、秀吉、小早川隆景・吉川元長らの戦勝を祝し、宇摩郡の仏殿城(川之江市)へ進発を命じる〔吉川家文書〕。
  7―29   小早川隆景ら、道後に進入し、湯築城を攻める〔予陽本〕。
  8―6   秀吉、土佐の長宗我部元親を降す(四国を平定)。
  8―6   秀吉、伊予国35万石を小早川隆景に、2万3,000石を安国寺恵瓊に、1万4,000石を来島通総に、3,000石を得居通久に与える〔多聞院日記・小早川家文書・予陽本〕。
  8-8   小早川隆景、伊予表の戦勝を報告し、厳島神社に新居郡内1か所を寄進する〔大願寺文書〕。
 閏8―14   秀吉、蜂須賀正勝らに対し、伊予の諸城を小早川隆景に引き渡し、人質を連れて帰還するよう命じる〔閥閲録〕。
 閏8―16   小早川隆景、喜多郡に入って大津(大洲)の曽根城を陥れる〔閥閲録〕。
 閏8―26   喜多郡の向井行実ら、小早川秀包に知行を安堵される〔大野芳夫所蔵文書〕。
  9―3   小早川隆景、喜多郡大洲大禅寺に禁制を掲げる〔大禅寺文書〕。
  9―13   小早川隆景、宇和郡竜沢寺に禁制を掲げる〔竜沢寺文書〕。
  9―18   小早川隆景、備後国御調郡杭稲荷神社に伊予国大浜八幡宮旧蔵の大般若経を寄進する〔同社大般若経奥書〕。
  9―23   この頃、毛利軍、伊予国をほぼ平定する〔閥閲録〕。
  9―    小早川隆景らの中国勢、道後湯築城を攻め、守将河野通直は隆景の勧告を受け入れて降伏する〔予陽本〕。
  11―1   小早川隆景、能島の村上武吉・元吉父子に対し、周防国屋代島の内来島分・能美島・江田島を与える〔村上文書〕。
  11―5   小早川隆景、宇和郡に入って西園寺公広と会見する〔宇和旧記〕。
  12―3   小早川隆景、宇和郡立間村・北之川村などに禁制を掲げ、軍兵の濫妨狼籍を停止する〔宇和郡往昔城主紀事〕。
  この頃   喜多郡内ノ子高昌寺付近に市が立ち、六日市・七日市・廿日市などがあった〔大洲旧記〕。                    
  この頃   喜多郡内子の上町下町に市が立つ〔大洲旧記〕。
  この年   新居郡金子村の一宮神社、毛利・金子両氏の兵火により焼失する(元和6年12月、再建)〔社寺大観・同社棟札〕。


1586(天正14・丙戌) 
  3―5   小早川隆景、部将の乃美宗勝に対し、伊予国内の諸城の処置
を指令する〔閥閲録〕。
  3―20   来島通総、新居郡前神寺に対し寺領安堵状を発給する〔前神寺文書〕。
  7―18   小早川隆景、宇和郡の久枝興綱に黒瀬城を預けようとして拒否され、旧宇和郡領主西園寺公広より興綱へ黒瀬城預かり勧告状が出される〔宇和旧記〕。
  8―24   小早川隆景、薩摩国島津氏を討つため、宇和郡の法華津前延に出兵を催促する〔清家文書〕。
  この夏   耶蘇会宣教師ルイス=フロイス、瀬戸内海航行に際して能島海賊の保護を受け、小早川隆景にも面会する〔耶蘇会日本年報〕。
  9―1   小早川隆景、土居清良にも催促状を送る〔清家文書〕。
  10―16   元教(姓不詳)、宇和郡竜沢寺に新たに15貫文の寺領を寄進する〔宇和旧記〕。
  10―23   正親町天皇、小早川隆景に、賀茂社領野間郡菊万荘の段銭を競馬料として納入するよう命じる〔萩野仲三郎所蔵文書〕。
  11―2   沼間田民部丞ら、伊予郡谷上山宝珠寺へ分米68石5斗余の田畑を引き渡す〔大洲旧記〕。
  12―13   来島通総、野間郡佐方保賀茂神社・八幡神社・長本寺・遍照院などの寺社領の下札を定める〔波頭博正旧蔵文書〕。
  12―    イエズス会準管区長コエリョ神父、小早川隆景より道後での布教を許されるという〔愛媛宣教百年〕。
  この年   前将軍足利義昭、小早川隆景に対し、伊予国において料所を斡旋するよう依頼する〔小早川家文書〕。


1587(天正15・丁亥) 
  1―11   小早川隆景、河野通直に馬一疋・太刀一腰を贈って、九州征伐に援兵を派遣した労を謝する〔築山本〕。
  1―    宇和郡の御庄基経、尾崎政儀に2貫350文の土地を与える〔尾崎又三郎所蔵文書〕。
  5―8   島津義久、秀吉に降伏する。
  6―19   秀吉、キリスト教宣教師を追放する。
  6―    小早川隆景、筑前国および筑後・肥前両国のうち各2郡に転封となる〔毛利家文書〕。
  7―9   河野通直、道後湯築城を去り、有馬温泉を経て安芸国竹原に向かう〔予陽本〕。
  7―14   河野通直、安芸国竹原において24歳で没する〔高野山上蔵院過去帳〕。
  7―14   戸田勝隆、検地に当たって守るべき条々を定める〔二神家文書〕。
  7―18   検地奉行浅野長吉(長政)、宇和郡魚成村竜沢寺に検地に関する制札を掲げる〔宇和旧記〕。
  8―8   福島正則、新居郡長安村の検地を行う〔長安村検地帳〕。
  8―    戸田信家、宇和郡丸串城の城代となる〔宇和旧記〕。
  8―    秀吉、伊予国のうち5郡11万3,200石を福島正則に与える〔長安村検地帳〕。
  9―8   秀吉、福島正則に、戸田勝隆と協力して民政に当たるよう命じる〔京都大学所蔵文書〕。
  10―    戸田勝隆、大洲地蔵嶽城主となる〔清良記〕。
  12―8   山月小介吉次、新居郡保国寺近辺の公事について協定を図る〔保国寺文書〕。
  12―11   宇和郡の旧領主西園寺公広、大洲戸田駿河守邸で殺される〔藤原姓西園寺氏歴代系譜〕。


1588(天正16・戊子) 
  2―5   福島正則、越智源右衛門に国安村宰領として6町歩の田地並びに居宅を与える〔越智文書〕。
  7―8   秀吉、諸国に刀狩りと倭寇取締りを命じ、特に伊予備後両国間の海賊を取り締まる〔小早川家文書〕。
  8―    福島正則、20万石を領し湯築城に入る[伊予日記]。
  8―    戸田勝隆、法華津八郎らに200石~300石を知行させ、日振島の年寄には居屋敷年貢を免除する〔清家文書〕。
  8―    宇和郡真土村および川内村の検地が行われる〔真土村検地帳・宇和川内村検地帳〕。
  12―    戸田勝隆、豊臣秀吉の生母大政所立願米を京都祇園社に納める〔八坂神社文書〕。


1589(天正17・己丑) 
  2―24   福島正則、桑村郡河原津へ浦方条目を布告する〔松木文書〕。
  12―22   戸田家次、喜多郡上須戒の城戸孫三郎に同郡藤原庄のうち60石の地を与える〔大洲旧記〕。


1590(天正18・庚寅) 
  3―    宇和郡野村の検地が行われる〔検地帳〕。
  7―5   北条氏直、秀吉に降伏する。
  7―22   小田原征伐に参加していた戸田勝隆、富士山麓で大仏殿の用材運送に従事し、近く帰国することを武井宗意に通知する〔武井文書〕。
  12―7   福島正則、伊勢神宮へ周敷(周布)郡北条のうち100石の地を寄進する〔神宮文書〕。
  12―22   戸田家次、喜多郡上須戒の城戸孫三郎に同郡山田庄で120石を与える〔大洲旧記〕。
  この頃   戸田勝隆、宮内某に紫草根皮・紅花の買い入れを命じる〔大洲旧記〕。


1591(天正19・辛卯) 
  1―5   秀吉、朝鮮出兵を命じる。
  2―5   福島正則、武田信吉に越智郡朝倉村山田の地を与える〔武田文書〕。


1592(文禄1 12.8・壬辰) 
  2―8   福島正則、越智郡畑寺村光林寺へ居屋敷及び田地を寄進する〔光林寺文書〕。
  3―13   秀吉、肥前名護屋に集結した朝鮮渡海諸将の部署を定める。福島正則・戸田勝隆・来島兄弟は5番手に属する〔閥閲録〕。


1593(文禄2・癸巳) 
  3―10   秀吉、前田利家・戸田勝隆らに朝鮮の諸城を修理させる〔浅野家文書〕。
  3―16   福島正則、宇野吉次に越智郡国分寺の諸公事を免除させる〔国分寺文書〕。
  5―    秀吉、大友義統の所領豊後国を没収し、その兵士を福島正則・戸田勝隆らの諸将に預ける〔大友文書録〕。
  この年   秀吉、山城国伏見城築城の人足割当のために、諸国諸将の知行高を調査する。伊予国は14郡33万6,200石、うち20万石は福島正則、1万4,000石は来島通総〔当代記〕。


1594(文禄3・甲午) 
  8―    宇和郡保内郷喜木津の検地が行われる〔喜木津検地帳〕。
  10―23   戸田勝隆、朝鮮の唐島(巨済島)で病死する〔清良記〕。
  この年   秀吉、検地掟を布告する。
  この年   越智安信、大山祇神社大祝職となる〔神祇伯家記録抄〕。


1595(文禄4・乙未) 
  5―24   秀吉、国分城主福島正則らを城米奉行として慶尚道釜山に遣わす〔吉川家文書〕。
  7―21   秀吉、淡路国の加藤嘉明に伊予国久米・温泉・野間・伊予4郡内で6万石を与え、浮穴・和気・温泉・伊予4郡内4万310石余の蔵入代官を命じる〔加藤家文書〕。
  7―22   秀吉、藤堂高虎に宇和郡7万石を与え、宇和・喜多・浮穴3郡内6万5,900石の蔵入代官を命じる〔藤堂文書〕。
  10―    加藤嘉明、西山五右衛門に和気郡大内郷130石の地を知行させる〔西山家記〕。
  12―3   藤堂高虎、宇和郡戸雁村の弥左衛門に無田村(務田村)の荒地を開かせ、1年間の作り取りを許す〔県編年史5〕。
  この年   福島正則、豊臣秀次が7―15に紀伊高野山で自殺したので検使となり、その功労によって尾張清洲に移され、24万石を領す〔寛政重修諸家譜〕。
  この年   加藤嘉明、伊予郡松前城を築く〔伊予日記〕。
  この年   新居郡地方に洪水があり、伊曽乃神社・保国寺罹災する〔保国寺歴代略記〕。


1596(慶長1 10.27・丙申) 
  3―7   藤堂高虎、田中林斎に命じて宇和郡竜沢寺へ同郡早川・柿木駄場の2か所を寄進させる〔宇和旧記〕。
  5―12   加藤嘉明、しろかねや又左衛門に家役を免除する〔町会所記録〕。
 閏7―9   大地震、伊予郡保免村薬師寺、周布郡北条村鶴岡八幡宮など被害を受ける〔薬師寺大般若経奥書〕。
  この年   天誉素格を開山として宇和島に大超寺が創建される〔宇和旧記〕。


1597(慶長2・丁酉) 
  1―1   秀吉、朝鮮再出兵を指令する。
  2―21   秀吉、朝鮮再征軍の部署を定める。伊予国の加藤嘉明(2,400人)・藤堂高虎(2,800人)・池田秀雄(2,800人)・来島通総(600人)らは6番手に属す〔加藤家文書〕。
  7―15   藤堂高虎・加藤嘉明、朝鮮の水軍を唐島沖(巨済島)で破る〔加藤家文書〕。
  9―16   来島通総、朝鮮水軍の将李舜臣と全羅道鳴梁で戦って没する〔来島氏系図〕。
  10―    朝鮮の捕虜1,000人を大津に留置する〔看羊録〕。
  この年   泉貨紙の考案者兵頭太郎右衛門が没す〔泉貨居士墓誌〕。


1598(慶長3・戊戌) 
  1―    藤堂高虎・加藤嘉明ら、慶尚道蔚山城を包囲されて苦戦中の加藤清正に援兵を送る〔聿脩録〕。
  3―30   越智郡国分城主池田秀雄、朝鮮半島安骨浦で没する〔寛政重修諸家譜〕。
  5―3   秀吉、加藤嘉明の戦功を賞して、3万7,000石を加増し10万石を知行させる〔加藤家文書〕。
  6―22   秀吉、朝鮮から帰国した藤堂高虎の戦功を賞して、喜多郡・浮穴郡の内で1万石を加増し、8万石を知行させる〔宗国史〕。
  8―15   秀吉没し、在朝鮮の諸将、順次召還される。


1599(慶長4・己亥) 
  7―20   越智郡国分城主小川祐忠、川原焼刈に使う竹類を供出させる〔松木文書〕。


1600(慶長5・庚子) 
  1―    藤堂高虎、板島築城につき郷中・府中に条令を布告する〔宗国史〕。
  8―23   加藤嘉明、細川忠興らと東軍に属して、美濃稲葉山を攻撃する〔浅野家文書〕。
  8―    宇和郡松葉町の侍名主三瀬六兵衛らが、宇和郡の同志と一揆を計画、事前に発覚して、藤堂高虎の大洲留守部隊に討伐される〔宇和旧記〕。
  9―15   関ヶ原の戦い、徳川家康勝利する。
  9―17   河野通軌および毛利輝元の将宍戸氏ら、伊予国に侵入、加藤忠明・佃十成ら三津で芸州勢を撃退する。また離反した荏原城の平岡善兵衛を討つ〔加藤嘉明公譜〕。
  9―20   佃十成、加藤嘉明に叛いた風早郡高縄神社の正岡式部太夫らを攻める〔水里逆洄録〕。
  11―18   加藤嘉明・藤堂高虎、関ヶ原の戦いの功によって各々20万石を与えられる〔徳川加除封録〕。
  12―2   加藤嘉明・藤堂高虎、領知協定を結ぶ〔佐伯文書〕。
  この年   来島康親、風早郡の内1万4,000石を安堵される〔恩栄録〕。


1601(慶長6・辛丑)
  2―    来島康親(久留島長親)、豊後国日田・玖珠・速見3郡のうちに移される〔寛政重修諸家譜〕。
  3―8   加藤嘉明、領内の桶大工を指定する〔束本家文書〕。
  5―11   藤堂高虎、越智郡大山祇神社に毎年供米20俵を寄進する〔大山祇神社文書〕。
  5―21   加藤嘉明、太山寺(15石)・石手寺(200石)・金蓮寺(15石)に寺領を寄進する。同日木村信行に伊予郡大溝村の内400石、服部清六に温泉郡味酒村の内350石を与える〔太山寺文書〕。
  5―    藤堂高虎、大山祇神社に四箇祭礼料米を寄進し社地を画定する〔大山祇神社文書〕。
  11―21   藤堂高虎、渡辺勘兵衛に喜多・浮穴・宇和・周布・桑村・新居郡のうちで2万石を与える〔南部文書〕。同日高虎、関ヶ原の戦いの功によって梅原勝右衛門に新居・喜多・浮穴3郡のうちで1,000石を与える〔宗国史〕。
 閏11―17   藤堂高虎、風早郡大浦村長隆寺の諸公事を免除する〔長隆寺文書〕。


1602(慶長7・壬寅) 
  6―11   藤堂高虎、越智郡今治城の普請を始める(慶長9年9月、落成)〔今治諸旧記録〕。
  6―    藤堂高虎、大山祇神社本殿拝殿を補修する〔大山祇神社本社及摂社明細図書〕。


1603(慶長8・癸卯) 
  2―2   藤堂高虎、今治の町割を開始する〔今治旧記〕。
  2―12   徳川家康、征夷大将軍となる(江戸幕府創立)。
  8―    加藤嘉明、伊予郡上三谷村若一社を再興造営する〔大洲旧記〕。
  9―11   加藤嘉明、道後八幡神社に社領100石を寄進する〔伊佐爾波神社文書〕。
  この年   加藤嘉明、松山城を築く〔叢談〕。


1604(慶長9・甲辰) 
  1―7   足立半右衛門重信、浮穴郡の内荏原・高井・野田の間で川原を開墾することを奨励する〔伊予史談会所蔵文書〕。
  9―    幕府、松山城主加藤嘉明および藤堂高虎の家臣の闘争の訴訟を裁く。嘉明の弟忠明・高虎の養子高吉はともに出家する〔聿脩録〕。


1605(慶長10・乙巳) 
  1―11   藤堂高虎、常行寺に宇和郡平地・真土村の内100石を寄進する〔高山公実録〕。
  6―25   風早郡忽那島小浜村の農民、藤堂高虎の増税に反対し、一つ免騒動おこる〔伊予百姓一揆〕。
  7―28   藤堂高虎の部下田中林斎、大洲に塩売買の塩屋町を設ける〔城甲文書〕。
  8―    加藤嘉明、温泉郡阿沼美神社を造営する〔阿沼美神社棟札〕。
  11―10   藤堂高虎、宇和郡河原渕に制札を掲げる〔宇和旧記〕。
  11―27   藤堂高虎、今治城諸口の警備を定める〔高山公実録〕。


1606(慶長11・丙午) 
  2―29   加藤嘉明の子明成、温泉郡石手寺境内の花を折り取ることを禁止する〔石手寺文書〕。
  3―1   藤堂高虎、江戸城増築の縄張をする〔慶長日記〕。
  4―8   藤堂高虎、大洲法華寺に寺屋敷を寄進する〔法華寺文書〕。
  5―10   足立半右衛門重信、風早郡宮内村に入作を奨励する〔正岡文書〕。
  9―15   藤堂高虎、江戸城増築企画の功によって、備中国で2万石を加増され、その半分を養子高吉に与える〔高山公実録・聿脩録〕。
  9―22   藤堂高虎、藤堂良勝に今治屋敷の作事を督促させる〔藤堂文書〕。
  この年   石鎚神社再興される〔同社棟札〕。


1607(慶長12・丁未) 
  1―16   藤堂高虎、喜多郡大津八幡宮へ社領20石を寄進する〔宇都宮文書〕。
  1―23   藤堂高虎、忽那島長隆寺に手作米・竹木を寄進する〔長隆寺文書〕。


1608(慶長13・戊申) 
  1―13   宇摩郡津根村の野田九郎右衛門尉、薩摩国種子島の島津重虎から鉄砲書を相伝する〔野田文書〕。
  3―    藤堂高虎、今治城に移る〔公室年譜略〕。
  8―25   藤堂高虎、伊賀・伊勢両国で24万3,000石を与えられ、伊予国今治より移る。今治城には養子高吉を置く〔恩栄録〕。
  9―15   伊勢国安濃津城主富田信高(知勝)、宇和郡10万石余を与えられ板島城に入る〔諸家文書纂〕。
  12―15   藤堂高虎、大洲八幡宮に30石を寄進する〔宇都宮文書〕。


1609(慶長14・己酉) 
  2―17   宇和郡真土村の検地が行われる〔真土村検地帳〕。
  6―3   加藤嘉明ら、尾張国名古屋城の普請に参加し、根石を置く(築城開始は翌15・2―より)〔当代記〕。
  6―28   幕府、禁煙策をとり、加藤嘉明の領国内でも煙草の売買および栽培を禁止する〔佐伯文書〕。
  9―15   淡路国津名郡須(洲)本城主脇坂安治、2万石を加増されて、伊予国で5万石を与えられ、大洲に入る〔徳川加除封録〕。
  この年   脇坂安治、先に浅野長政が実施した検地にもとづいて、喜多郡各村の年貢を定める〔大洲旧記〕。


1610(慶長15・庚戌) 
  7―2   足立半右衛門重信、風早郡宮内村の苧麻を買い上げる〔正岡文書〕。
  8―18   脇坂安治、喜多郡給人所に年貢米納入の法度を公布する〔黒田文書〕。
  この年   板島城主富田信高、宇和郡塩成三机浦の開鑿工事を始める〔宇和旧記〕。
  この年   脇坂安治の子安元、妻を江戸に送って人質とする〔寛永諸家系図伝〕。


1612(慶長17・壬子) 
  2―    松浦氏ら宇和郡喜佐方村安楽寺を再建、ついで僧智厚、迫目の薬師堂を建てる〔吉田古記〕。


1613(慶長18・癸丑) 
  2―    宇和郡野村三島神社が再興され、ついで歌人の画像が寄進される〔宇和旧記〕。
  3―5   足立半右衛門重信、温泉郡二神島の竹木について法度を定める〔来迎寺旧蔵文書〕。
  6―5   僧実雄、温泉郡石手寺の篭所を建てる〔石手寺拝殿篭所棟札〕。
  9―15   伊達政宗、遣欧使節支倉常長をヨーロッパに派遣する。
  10―24   幕府、板島(宇和島)城主富田信高と石見国津和野城主坂崎直盛との争いの訴訟を裁いて、信高を改易にし、藤堂良勝を板島城代とする〔台徳院殿御実紀〕。


1614(慶長19・甲寅) 
  3―    和田体庵、伊予千句連歌を写す〔宇和旧記〕。
  8―    藤堂良勝、板島城を修理する〔公室年譜略〕。
  10―1   大坂冬の陣おこる。
  10―25   大地震のため道後温泉の湧出停止する〔道後温泉壅不出記〕。
  10―    徳川家康、豊臣秀頼を討つため伊勢国安濃津城主藤堂高虎を先鋒として大和国から大坂に向かわせ、松山城主加藤嘉明を江戸に留める。やがて高虎の養子高吉は今治から、弟良勝は板島からそれぞれ大坂に向かう〔聿脩録〕。
  12―28   幕府、陸奥国仙台城主伊達政宗の庶長子である秀宗を富田信高の旧領板島10万石に封ずる〔恩栄録〕。
  この年   幕府および諸藩、キリシタンを禁圧する。