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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

中世〔建久3(1192)~建治2(1276)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1192(建久3・壬子) 
  7―12   源頼朝、征夷大将軍となる(鎌倉幕府の確立)。


1194(建久5・甲寅) 
  3―17   幕府、諸国守護人の国衙領侵犯を禁じる。
 閏8―1   宇和郡三島神社銅製懸仏が造られる〔同懸仏銘〕。
 閏8―2   某、宇和郡三島神社境内に経筒を納める〔三島神社所蔵経筒銘〕。
  9―22   伊予国などが造営を助成した興福寺の落慶供養がおこなわれる〔皇代暦〕。


1195(建久6・乙卯) 
  11―25   越智郡が九条兼実の所領となったので地頭職を停止する〔吾妻鏡〕。


1197(建久8・丁巳) 
  10―2   内大臣源通親、伊予国を賜って二条殿の造営をはじめ、翌年4月落成する〔猪隈関白記〕。


1198(建久9・戌午) 
  1―17   後鳥羽院政始まる。
  8―    弁阿(聖光)、伊予に来て専修念仏をひろめる〔聖光上人伝〕。


1200(正治2・庚申) 
  5―12   幕府、念仏宗を禁じる。
  10―20   伊予国司ら、不動倉の開検を申請して許される〔猪隈関白記〕。


1202(建仁2・壬戌) 
 閏10―20   再び伊予国司ら不動倉の開検を許される〔猪隈関白記〕。
 閏10―21   伊予国司の申請で不動倉の稲穀を開検させる〔猪隈関白記〕。
 この年    栄西、建仁寺を建立する。


1203(建仁3・癸亥) 
  3―10   西園寺公経、伊予国を知行国として賜る〔明月記〕。
  4―6   河野通信、鎌倉から帰るとき幕府から守護の指揮をうけずに国内近親郎従を統率することを許される〔吾妻鏡〕。
  4―7   宣陽門院領弓削島荘の沙汰人百姓ら、国使の乱入をとどめるよう訴え、国司が国使停止の旨を留守所に伝える〔百合文書〕。
  4―    伊予国衙、後鳥羽上皇の命をうけて越智郡玉河保を伊勢大神宮領にする〔神鳳鈔〕。
  7―    運慶・快慶、東大寺金剛力士像を造る。
  9―6   源頼家、北条時政殺害を計るが失敗する
  この年   忽那兼平、風早郡忽那島に長福寺を建立する〔忽那島開発記〕。

1204(元久1 2.20・甲子) 
  8―    伊予国衙、越智郡三島社に日供料として田地36町を寄進する〔大山積神社文書〕。
     
1205(元久2・乙丑) 
  3―26   藤原定家ら『新古今和歌集』を撰進する。
  5―6   幕府、忽那家平に忽那島西方松吉名を領知させる〔忽那家文書〕。
  7―3   三島社神宮などに下文が下され、相論の当事者の上洛が求められる〔大山積神社文書〕。
  7―14   地頭左衛門尉平某、盛経の乱暴をとどめ神主菅原貞綱を三島社日供沙汰人職と定める〔大山積神社文書〕。
 閏7―29   幕府、伊予国御家人32人を守護の沙汰をとどめ河野通信に統率させる〔吾妻鏡〕。
  11―12   将軍源実朝、忽那兼平を忽那島地頭職に任命する〔長隆寺文書〕。
  12―2   西園寺公経、伊予国の収入によって高陽院殿を造る〔伏見宮御記録〕。
  12―    石清水八幡宮別当道宗・宗清、伊予郡吾河保などの所領を紀房清に譲る〔石清水文書〕。


1207(承元1 10.25・丁卯) 
  4―29   伊予国司、淫祠を建て人民を妖惑するとして天竺冠者を捕えて京に送る〔明月記〕。
  5―6   幕府、忽那島地頭名と給田畠について新儀をとどめるよう命じる〔忽那家文書〕。


1208(承元2・戊辰) 
 閏4―27   忽那国重、忽那島地頭職に補せられる〔忽那家文書〕。
  5―15   西園寺公径、伊予国租をもって法勝寺九重塔を造進する〔百錬抄〕。


1209(承元3・己巳)  
  この年   修明門院、石清水八幡宮に伊予国の1荘を寄進する〔石清水文書〕。


1213(建保1 12.6・癸酉) 
  5―2   和田義盛、挙兵し敗死する。
  12―18   源実朝の『金槐和歌集』成る。
  この年   幕府、河野通盛に和田義盛討伐の賞として和気郡大内郷などを与える〔予陽本〕。


1215(建保3・乙亥) 
  2―8   河野通信、池内公通に所領を譲る〔池内家文書〕。


1216(建保4・丙子) 
  5―16   池内公通、子孫に所領を知行させるように置文を定める〔池内家文書〕。


1217(建保5・丁丑) 
  この年   伊予国千富御厨・玉河(丹生河)御厨を大神宮領とする〔神鳳鈔〕。


1218(建保6・戊寅) 
  2―26   新補地頭8人、伊予国各郡に補せられる〔吾妻鏡〕。


1219(承久1 4.12・己卯) 
  7―13   大内守護源頼茂、内裏で討たれる時、河野氏も同類であると申し立てたという〔愚管抄〕。
  この頃   杉原紙初めて流布する。


1220(承久2・庚辰) 
  11―5   皇太子懐成親王が高陽院で着袴の儀を行われるので伊予国から広筳を献上する〔玉蘂〕。
  この頃   慈円『愚管抄』成る。


1221(承久3・辛巳) 
  4―28   河野通信、後鳥羽上皇の召に応じて京都高陽院に参上する〔承久記〕。
  5―15   後鳥羽上皇、伊賀光季を誅し、北条義時追討の院宣を諸国に下す(承久の乱)。
  6―12   河野通信ら京方に属し、山城国広瀬で幕府軍を防いで敗れる〔承久記〕。
  6―15   幕府軍入京、後鳥羽上皇、北条義時追討の宣旨を撤回する。
  6―28   幕府、伊予国の反河野氏勢力に命じて河野通信を討伐させる〔吾妻鏡〕。
  7―14   河野通信、高縄城で敗れて捕えられ翌月陸奥へ流される〔予陽本〕。
  8―7   河野通久、承久の乱の功によって阿波国富田荘を与えられる〔予章記〕。
 閏10―12   忽那国重、忽那島地頭職を安堵される〔長隆寺文書〕。
  この頃   西園寺氏、近江国日吉神社四季神楽料所として桑村本郡を寄進する〔元応元年大社小比叡社社家注進状〕。


1223(貞応2・癸未) 
  1―1   越智郡三島神社焼失する〔三島宮御鎮座本縁〕。
  3―6   沙彌定公、輿鏡を宇摩郡古美新宮へ施入する〔熊野神社鏡銘文〕。
  5―19   河野通信、奥州の配所で没する〔予陽本〕。
  6―15   官宣旨を下し、新補地頭の得分を定める。
  9―22   河野通久、阿波国富田荘のかわりに久米郡石井郷地頭職に補せられる〔淀稲葉家文書〕。


1224(元仁1 11.20・甲申) 
  1―29   幕府、伊予国の新補地頭が河野氏相伝の下人を拘束するのを止めさせる〔保阪潤治所蔵文書〕。
  この頃   親鸞、『教行信証』を著す。


1225(嘉禄1 4.20・乙酉) 
  6―16   朝廷、賀茂久子を賀茂別雷社領野間郡菊万荘などの預所職とする〔賀茂別雷神社文書写〕。
  12―21   幕府、評定衆を定め、定番人を置く。


1226(嘉禄2・丙戌) 
  9―2   忽那兼平没する〔忽那島開発記〕。
  11―30   願主定広、大般若経を竜円に書写させて宇摩郡古美新宮に施入する〔熊野神社大般若経奥書〕。


1228(安貞2・戊子) 
  この頃   宇和郡黒島の漁夫、海中から多くの鼠をひき上げたという〔古今著聞集〕。


1231(寛喜3・辛卯) 
  3―27   橘公業の子乙王丸、宇和荘内小立間などの地頭職に補せられる〔小鹿島文書〕。
  7―    諸国大飢饉となる。
  8―4   伊予国、京都北野祭の幣帛料を引受ける〔民経記〕。
  9―28   池内公通、その子実蓮に所領を譲り渡す〔池内文書〕。


1232(貞永1 4.2・壬辰) 
  4―1   伊予国、朝廷の更衣の御帳帷1帖を献上する〔民経記〕。
  7―27   六波羅探題、忽那国重と領家との争いを裁定し国重の忽那島地領職同島内松吉名を安堵させる 〔長隆寺文書〕。
  8―10   幕府、貞永式目(御成敗式目)51条を制定、この日施行する。


1233(天福1 4.15・癸巳) 
  4―16   幕府、寛喜2年の大風以前の出挙の利息を定めて伊予国などに布告する〔吾妻鏡〕。
  7―    道元、『普勧坐禅儀』を撰する。
  12―10   幕府、忽那国重について前年の六波羅探題の裁定を承認する〔長隆寺文書〕。


1235(嘉禎1 9.19・乙未) 
 閏6―29   鎌倉五大堂(明王院)落慶供養する。
  10―11   六波羅探題、石清水八幡宮領薪荘の紛争について興福寺から訴えられていた平康助を伊予に流す〔石清水文書〕。
  この年   中納言藤原実基、三島神社の領家となり木工入道某預所となる〔臼杵三島神社文書〕。


1236(嘉禎2・丙申) 
  2―22   幕府、小鹿島公業の所領宇和郡を西園寺公経に与える〔吾妻鏡〕。
  9―3   幕府、承久の乱の勲功追賞を沙汰する。


1237(嘉禎3・丁酉) 
  2―8   平業光、忽那島をせんさいこせんに譲る〔勧修寺家文書〕。


1238(暦仁1 11.23・戊戌) 
  4―    伊予国検注所、田所に命じて三島社末社諸山社季祭供田の違乱を停止させる〔大山積神社文書〕。
  6―20   六波羅探題、周敷郡北条地頭多賀谷氏に対して得分の中から京都警備の篝料を出させる〔安芸永井文書〕。
  この頃   西園寺公経、伊予国の2郷をあてて横川三昧院を再建する〔華頂要略〕。


1239(延応1 2.7・己亥) 
  9―9   幕府、新補・本地頭が所務を混用するときは改易することなどを定める。
  12―    宣陽門院覲子内親王、弓削島荘を東寺に寄進し、同荘の所当等注文が作成される〔百合文書〕。
  この年   越智盛氏、桑村郡に観念寺を建立する〔観念寺文書〕。


1240(仁治1 7.16・庚子)  
 閏10―5   幕府、守護宇都宮氏に対して、多賀谷氏の所領周敷郡北条郷に守護使が入部するのを停止させる〔安芸永井文書〕。
  9―    温泉郡石手寺の金剛力士像が造られる〔同像銘〕。
  この年   宇和郡仏木寺を西園寺太政大臣家の菩提道場とする〔仏木寺記録〕。


1241(仁治2・辛丑) 
  1―4   伊予国、西園寺公経の知行国として宮中御斎会後7日御修法の用途などを進済する〔勝延法眼記〕。
  12―5   宇和郡三島社社殿を修造する〔宇和旧記〕。


1242(仁治3・壬寅) 
  2―7   伊予国、太政官庁の修造を命ぜられる〔御即位部類記〕。
  6―23   西園寺公経、青蓮寺領摂津国賀島荘を私領とし伊予国からその代地を寄進する〔仁和寺諸堂記〕。
  7―4   西園寺公経の渡宋船帰国する。
  9―    某、三島神社油畠を光実房に宛て神燈油を沙汰させる〔大山積神社文書〕。


1243(寛元1 2.26・癸卯) 
  11―15   宇和郡仏木寺造営される〔仏木寺文書〕。
     

1244(寛元2・甲辰) 
  12―7   幕府、伊予国吉原郷の地頭職については口入することができぬ旨を地頭代に告げる〔尊経閣所蔵東福寺文書〕。


1245(寛元3・乙巳) 
  2―13   伊予国、閑院内裏で行われる孔雀経法の米・油を割り当てられる〔百錬抄〕。
  10―13   権律師宣俊、宇和郡仏木寺を栄全に支配させる〔仏木寺文書〕。


1248(宝治2・戊申) 
  10―27   宇摩郡寒川地頭小河祏長、阿禰陀堂を建立し、この日供養をする〔南海流浪記〕。


1249(建長1 3.18・己酉) 
  9―7   青蓮院門跡、灯油を伊予国に課する〔華頂要略〕。
  10―8   記録所で沽価法を定める。


1250(建長2・庚戌) 
  11―    九条道家、和気郡吉原荘などを前摂政一条実経に譲る〔九条家文書〕。
  この頃   円明寺両脇侍立像が造られる〔同墨書銘〕。


1251(建長3・辛亥) 
  この年   石手寺鐘楼の銅鐘が造られる〔同銅鐘銘〕。


1252(建長4・壬子) 
  2―14   東寺講堂で長日行法を始行し、新勅旨田・伊予国弓削島などを料所に宛てる〔東宝記〕。
  4―14   河野通時、幕府弓始の射手となる〔吾妻鏡〕。
  この春   一遍、大宰府に僧聖達を訪問する〔一遍聖絵〕。


1253(建長5・癸丑) 
  3―28   幕府、伊予国貞光名田の争いについて、三島神社大祝安俊と江長忠とを対決させる〔三島家文書〕。
  7―29   幕府、忽那島山狩寺(長隆寺)別当職・寺領を静慶に安堵する〔長隆寺文書〕。


1254(建長6・甲寅) 
  3―8   幕府、忽那島地頭の訴訟を和解させて、東浦を兄忽那重俊分、西浦を弟同重康分とする〔忽那家文書〕。
  7―9   六波羅探題、西山興隆寺境内で殺生を禁ずる〔興隆寺文書〕。


1255(建長7・乙卯) 
  9―11   某、管野氏のために五輪塔を伊予郡に建てる〔伊予市市場五輪塔銘〕。
  10―    国衙内の田所、社寺などの免田を注進する〔国分寺文書〕。


1256(康元1 10.5・丙辰) 
  3―6   橘某、留守所に命じて三島神社の御供田の税を免ずる〔大山積神社文書〕。
  7―9   幕府、忽那弥亀丸(実重)に忽那島西浦惣追捕使職、名田畠を領知させる〔忽那家文書〕。


1259(正元1 3.26・己未) 
  2―22   弓削島荘雑掌明鑑と地頭日奉茂忠、同景行の間で和与が成立する〔百合文書〕。
     

1260(文応1 4.13・庚申) 
  7―16   日蓮、『立正安国論』を北条時頼に献進する。
  7―20   法橋定喜、弓削島荘預所に任ぜられ公用銭についての請文を東寺へ提出する〔百合文書〕。


1262(弘長2・壬戌) 
  9―5   院宣を下して上賀茂社領野間郡菊万荘が別納の地であることを確認し、社家の違乱を止める〔賀茂別雷神社文書〕。


1264(文永1 2.28・甲子) 
  3―10   延暦寺の訴により、検非違使右衛門小尉正六位上中原章継、伊予国に流される〔外記日記〕。
     
1265(文永2・乙丑) 
  9―9   開田准后法助、菩提院了遍に弓削島荘などの預所職を知行される〔百合文書〕。
  10―29   六波羅探題、小目代黒原右衛門大夫親知と祝安俊の相論について関東下知状の旨を施行する〔三島家文書〕。
  11―上   富尾寺日通、伊予郡に多重石塔を建てる〔伊予市宮ノ下多重石塔銘〕。


1267(文永4・丁卯) 
  3―    伊予国留守所、僧信知を興隆寺権別当職に任ずる〔興隆寺文書〕。
  10―    弓削島荘運上物用途支配状が東寺において作成される〔教王護国寺文書〕。


1268(文永5・戊辰) 
  1―29   凝然、越智郡円明寺で『八宗綱要』を著す〔同書〕。
  2―4   仏師興慶により宝蔵寺木造釈迦如来立像が造られる〔同墨書銘〕。


1269(文永6・己巳) 
  5―15   伊予の人了円房良範ら6名、東大寺円照から鷲尾金山院で戒法をうける〔円照上人行状〕
  8―1   左兵衛尉平能忠、大仏師興阿に宇和郡能忠寺の阿弥陀三尊立像を造らせる〔同木像銘〕。


1270(文永7・庚午) 
  2―8   東寺領弓削島荘で内検が行われ、取帳と目録が作成される〔百合文書〕。
  4―20   東寺塔焼ける。
  5―10   幕府、源実朝の後室八条尼が実朝の菩提を弔うため遍照心院(大通寺)に伊予国3郷を寄進したことを了承する〔大通寺文書〕。
  8―21   法橋乗実、東寺に対して同寺領弓削島荘などの預所職補任を要求する〔百合文書〕。
  12―    武蔵国金沢文庫焼亡する。


1271(文永8・辛未) 
  この春   一遍、善光寺に参詣する〔一遍聖絵〕。
  この秋   一遍、伊予窪寺で修業を始める〔一遍聖絵〕。


1272(文永9・壬申) 
  2―15   得能通純、六波羅南方北条時輔討伐に参加する〔伊予三島縁起〕。
  8―    源実朝の後室八条尼、遍照心院領の新居荘などについて置文をつくる〔大通寺文書〕。
  9―27   弓削島荘の百姓ら、東寺に麦作の被害を訴え年貢の免除を求める〔百合文書〕。
  12―26   幕府、河野通時と同通義との久米郡石井郷などの所領の争いに裁許を下す〔萩藩譜録〕。


1273(文永10・癸酉) 
  7―    一遍、浮穴郡菅生の岩屋(岩屋寺)に参籠する〔一遍聖絵〕。
  9―23   弓削島荘雑掌康経、年貢注進状および年貢未進注文を東寺に提出する〔百合文書〕。


1274(文永11・甲戌) 
  3―上   東寺供僧能済、弓削島荘の雑掌を選定する〔百合文書〕。
  4―    宇摩郡の人善性房有海、東大寺の円照能済から具足戒を受ける〔円照上人行状〕。
  この夏   一遍、高野山より熊野本宮に参詣し神示を受ける(時宗の開宗)〔一遍聖絵〕。
  10―20   元軍、九州に来襲(文永の役)、ついで元の軍船200余艘漂没する。
  11―1   幕府、元軍襲来により、中国・四国に御家人・非御家人を動員し防御すべきを命じる〔百合文書〕。
  この年   一遍、初めて入京する〔一遍聖絵〕。


1275(建治1 4.25・乙亥) 
  3―17   東寺供僧、先に停止していた網の納入を弓削島荘預所に命ずる〔教王護国寺文書〕。
  6―29   これより先弓削島荘の荘務権をめぐって東寺供僧と菩提院了遍との間に確執があったが、この頃、了遍は荘務権を供僧に渡す〔百合文書〕。
  7―25   仏木寺の木造大日如来坐像が造り始められる〔同墨書銘〕。
  7―28   東寺供僧18人、申状を作成して弓削島荘など4荘を供僧料とすることを確認する〔百合文書〕。
  12―8   幕府、明春外征を企て山陰・山陽・南海諸道の梶取・水手を博多に召集させる〔百合文書〕。


1276(建治2・丙子) 
  3―30   幕府、筑前国筥崎より今津の海岸に石塁を築かせる。
 閏3―15   法橋乗実、再び東寺供僧に対して弓削島荘などの預所職を要求する〔百合文書〕。
  6―25   東寺供僧、法橋乗実の要求を拒否する〔百合文書〕。
  8―21   新居郡黒島西法寺において、蒙古降伏の祈禱が行われる〔明正寺文書〕。
  8―27   越智安俊、三島宮大祝職となる〔三島家文書〕。
  9―    伊予国衙内の田所、国分寺の得分免田を報告する〔国分寺文書〕。
  この年   如法寺木造地蔵菩薩立像が興慶により造られる〔同像銘〕。
  この年   伊予市大平に多重石塔が建てられる〔同石塔銘〕
  この年   一遍、伊予に来る〔一遍聖絵〕。