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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

原始・古代〔推古1(593)~延暦24(805)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

593(推古1・癸丑)  
  4―10   聖徳太子、摂政となる。
  この年   四天王寺建立される、。


596(推古4・丙辰)   
  10―    聖徳太子、高麗僧恵慈・葛城臣らと伊予の湯(道後温泉)に来浴し、湯ノ岡に碑を建てたと伝えられる〔釈紀〕。
  この頃   大下田南古墳群(砥部町)築造される。


603(推古11・癸亥)   
  12―5   冠位十二階を制定する。


604(推古12・甲子)   
  4―3   憲法十七条を制定する。
  この頃   紀博世、伊予国に派遣される〔続紀〕。


607(推古15・丁卯)
  7―3   小野妹子を隋に派遣する。


630(舒明2・庚寅)
  8―5   第1回遣唐使を派遣する。


639(舒明11・己亥)
  12―14   舒明天皇、皇后とともに伊予の湯に来浴する。時に大風雨があったという。(翌年4-16大和へ帰還)〔書紀・扶桑略記〕。
  この頃   法安寺(小松町)造寺される。


645(大化1 6.19・乙巳)
  6―12   中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を暗殺する。
  6―19   初めて年号を建てて大化とする。


646(大化2・丙牛)
  1―1   改新の詔を宣布する。
  この頃   大山上安倍小殿小鎌、伊予国に下って朱砂の採取にあたり、のち秦首氏の娘を娶る〔続紀〕。


649(大化5・己酉)   
  この頃   伊予でも建評(郡の前身)が進行する。
  この頃   向山古墳(川之江市)、川上神社古墳(川内町)築造される。


660(斉明6・庚申)
  9―5   百済の使、唐・新羅軍の攻撃による百済滅亡(7 -18)を伝える。
  12―24   斉明天皇、百済救援のため難波宮に移り、戦備を整える。


661(斉明7・辛酉)
  1―6   天皇、中大兄・大海人皇子、西征の途につく。
  1―14   天皇、筑紫に赴く途中で熟田津石湯の行宮に寄る〔書紀〕。
  3―25   天皇、那大津(博多)に入港。
  この年   額田王熟田津で歌を詠む〔万葉集〕。


663(天智2・癸亥)
  8―    日本・百済軍、唐・新羅の水軍に敗れる(白村江の戦い)。なお、この時越智氏が百済救援軍に参加、唐で捕虜になったのち帰国、建郡したという伝承がある〔日本霊異記〕。
  この頃   来住廃寺、湯ノ町廃寺(松山市)造寺される。


667(天智6・丁卯)
  3―19   近江人津宮に遷都。
  11―    大和国の高安城・讃岐国の屋嶋城などを築く。
  この頃   永納山城跡(東予市)が築かれる。


670(天智9・庚午)
  2―    全国的に戸籍(庚午年籍)を造る。


672(天武1・壬申)
  7―22   壬申の乱で大海人皇子大勝。


673(天武2・癸酉)
  この年   伊予国から封戸50戸を薬師寺に施入する〔新抄格勅符抄〕。


684(天武13・甲申)
  10―1   八色の姓を制定。
  10―14   伊予の湯(道後温泉)、大地震のために湧出がとまる〔書紀〕。


689(持統3・己丑)
  6―29   飛鳥浄御原令を施行。
  8―21   伊予総領田中法麻呂らに対し、讃岐国御城(三木)郡で捕えた白燕を放ち飼うよう詔が出された〔書紀〕。


691(持統5・辛卯)
  7―3   伊予国司田中法麻呂ら宇和郡御馬山より産出した白銀、銚を献上する〔書紀〕。
  この頃   古墳がつくられなくなる。


696(持統10・丙申)
  4―17   風早郡の物部薬に追大弐の位階と絁・絲・布・鍬・稲・水田などを賜与し、また戸調の税を免除するなどして、長らく唐地において捕虜として苦しんだのを慰労した〔書紀〕。


697(文武1・丁酉)
 閏12-7   伊予国など8か国の飢饉を救済し、税を免じた〔続記〕


698(文武2・戊戌)
  7―17   伊予国からしろめを献上する〔続紀〕。
  7―27   伊予国から□(・金へんに葛)鉱を献上する〔続紀〕。
  9―28   伊予国など4か国から朱沙を献上する〔続紀〕。
  10―4    薬師寺の建立ほぼ終る。


699(文武3・己亥)
  8―21   伊予国から白燕を献上する〔続紀〕。
  この頃   宇和評から贄とおもわれる水産物が、貢進されていた〔藤原宮木簡〕。


701(大宝1 3.21・辛丑)   
  3―21   大宝令施行。
  8―3   大宝律令完成。
  8―21   伊予国など17か国が蝗と大風により、農作物や家屋に被害をうける〔続紀〕。


702(大宝2・壬寅)
  10―14   大宝律令を諸国に頒布。


703(大宝3・癸卯)
  8―2   従五位上百済王良虞、伊予守となる(律令体制下での、伊予守の初見)〔続紀〕。
  このころまでに成立したと推測される「民部省式」(古記所引)に伊予国は、中国と規定されていた〔賦役令集解所引古記〕。


706(慶雲3・丙午)
  2―16   伊予国など7か国に飢饉があり、救済される〔続紀〕。
  4―29   伊予国など7か国の飢饉はやまず、疫病が流行したので、使者が遣わされ、救済される〔続紀〕。


707(慶雲4・丁未)
  12―24   伊予国に疫病が流行したので、医薬品が支給される〔続紀〕。


709(和銅2・己酉)
  3―28   宇麻郡常里の戸主金集史挨麻呂の弟保麿、大和国飛鳥寺で受戒する。僧名願忠〔西琳寺文書〕。
  この頃   久米郡石井里から大豆が、おそらく交易物として貢進されていた〔藤原宮木簡〕。


710(和銅3・庚戌)
  3―10   平城京に遷都。 


712(和銅5・壬子)
  1―28   太安万侶『古事記』を撰上する。
  7―15   伊予国など21か国に初めて綾錦を織らせる〔続記〕              


713(和銅6・癸丑)
  5―2   風土記の編纂を諸国に命じる。この時、また諸国郡郷名を好字2字で表記するよう命じる。


714(和銅7・甲寅)
  10―1   伊予国など6か国に大風による被害があったので、この年の租調が免ぜられた〔続紀〕。


716(霊亀2・丙辰)
  5―16   従来、伊予と豊後との境界に戌(まもり)を置いて往来を禁じていたが、五位以上の者の使者に限り、この禁令を解く〔続紀〕。
  5―16   大安寺を平城京に移す。


718(養老2・戊午)
  5―7   従来、土佐国への駅路は伊予を経るコースをとっていたが、道が遠まわりで険しいため、今後は阿波国を通過するコースをとるよう、土佐国から出された願いが許される〔続紀〕。


719(養老3・己未) 
  7―13   初めて按察使を置く。四国については、伊予守従五位上高安王が任ぜられ、阿波・讃岐・土佐3国を管する〔続紀〕。
  この頃   山部赤人、伊予の温泉(道後)を訪れ、作歌する〔万葉集〕。


720(養老4・庚申) 
  2-4   大学明法博士として越智直広江の名がみえる〔僧尼令集解〕。


721(養老5・辛酉) 
  1―27   越智広江、明経第一の博士として、師範たるに堪えるをもって、物を賜る。これより先1―23には、退朝の後、東宮に侍せしめられている〔続紀〕。


723(養老7・癸亥) 
  この年   大和国興福寺に施薬院・悲田院が建てられ、伊予の水田などが施入される〔扶桑略記〕。


724(神亀1 2.4・甲子) 
  3―1   流罪について遠近の道程が定められ、伊予国は中流と規定される〔続紀〕。
       

725(神亀2・乙牛) 
 閏1-4   陸奥の俘囚144人が伊予国に移される〔続記〕


731(天平3・辛未) 
  11―22   初めて鎮撫使が置かれ、南海道鎮撫使には正四位下大伴道足が任ぜられる〔続紀〕。


733(天平5・癸酉) 
  この年   伊予の封戸50戸が大和国薬師寺に施入される〔新抄格勅符抄〕。


734(天平6・甲戌) 
  1―11   興福寺西金堂を建立。
  この年   南海道など七道の検税使の算計法が定められる〔延暦交替式〕。                


736(天平8・丙子) 
  8―6   伊予国の天平8年度の正税出挙帳が完成し、介の紀必登に付して中央に提出することになる〔正倉院文書〕。


738(天平10・戊寅) 
  11―    伊予国から封戸150戸を山階(興福)寺に施入する〔新抄格勅符抄〕。


740(天平12・庚辰) 
  9―3   藤原広嗣が反乱。大野東人を持節大将軍とし、南海道などより軍1万7千を率いてこれを討たせる〔続紀〕。


741(天平13・辛巳) 
  3―24   国分寺・国分尼寺建立の詔。


745(天平17・乙酉) 
  1―21   僧行基を大僧正とする。
  11―27   公廨稲制度が始まる。伊予国は上国で30万乗が設置される〔続紀〕。


746(天平18・丙戌) 
  4―5   諸道の鎮撫使を任じ、参議従四位下紀麻呂を南海道鎮撫使とする〔続紀〕。
  9―    この月、越智郡石井郷戸主●木部龍が調として納めた絁が、正倉院に現存する〔正倉院御物〕。


747(天平19・丁亥) 
  2―11   法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳の中に、伊予国に庄14か所が存在したことが記されている〔北浦定政手澤本〕。
  9―27   東大寺大仏鋳造開始。


748(天平20・戊子) 
  1―1   師久米直熊鷹、この日より千部法花経の書写に従う〔正倉院文書〕。
  4―25   久米郡天山郷戸主久米熊鷹ら31人について、造東大寺司写書所から出家の一括申請がなされる〔正倉院文書〕。
  11―20   久米直熊鷹、腹病を理由に請暇の解文を提出する〔正倉院文書〕。


749(天平感宝1 4.14・己丑) 
   (天平勝宝1 7.2)
  5―15   宇和郡の人凡鎌足ら、伊予の国分寺に資財を献じて外従五位下を授けられる〔続紀〕。     
  10―24   東大寺大仏本体完成。


750(天平勝宝2・庚寅) 
  2―23   伊予国から封戸100戸が東大寺に施入される〔続紀〕。
  4―7   久米郡石井郷戸主田部足国の戸口、田部五百依が、優婆塞の資格を得るため、造東大寺司に貢進される〔正倉院文書〕。
  5―26   造東大寺司、伊予の衛門士3人分の位記を、朝集使に托して国で交付するように依頼する〔正倉院文書〕。


752(天平勝宝4・壬辰) 
  4―9   東大寺大仏開眼供養。
  10―25   風早郡および温泉郡から封戸100戸を東大寺の寺家雑用料にあてる〔東大寺文書〕。


756(天平勝宝8・丙申) 
  1O―7   南海道諸国の春米を海路によって運送することを認める〔続記〕
  10―26   これよりさき、東大寺の奴浄水、伊予国に逃亡する〔東大寺文書〕。
  11―20   東大寺に施入された新居庄の四至を定める。野80町、池地(柏坂古池)3町6段110歩であった〔東大寺文書〕。
  12―20   聖武天皇の周忌御斎会の用として、伊予国など26か国に灌頂幡・道場幡・緋綱を頒下する〔続紀〕。


757(天平宝字1 8.18・丁酉) 
  4―7   温泉郡橘樹郷戸主秦勝庭の戸口物部小鷹、中務省画工司画工として、東大寺大仏殿天井廂の彩色に従事する〔正倉院文書〕。
  7―4   橘奈良麻呂の変おこる。


758(天平宝字2・戊戌)
  3―11   神野郡の人少初位下賀茂馬主ら、賀茂伊予朝臣の姓を賜る〔続紀〕。
  6―22   伊予介某、東大寺写経所に経師1人を送る〔正倉院文書〕。
  9―28   伊予などの6か国に飛駅の鈴を1口ずつ頒つ〔続紀〕。 
  この年   神野(新居)郡石鎚山の修業僧寂仙没すと伝える〔日本霊異記〕。  


759(天平宝字3・己亥) 
  8―3   僧鑑真、唐招提寺を建立。
  9―19   新羅を征討するため、南海道の諸国に105般の船を3年以内に建造するよう命じる〔続紀〕。
  この頃   大和国法華寺金堂の造営料に、伊予国からの調糸があてられる〔正倉院文書〕。


760(天平宝字4・庚子) 
  3―26   伊予国など15か国に疫病が流行し、救済される〔続紀〕。
  6―25   観世音菩薩像造立のために、伊予国の砥3果が大蔵省から支給される〔正倉院文書〕。


761(天平宝字5・辛丑) 
  10―1   『法隆寺伽藍縁起井幷流記資財帳』成る。
  10―10   入唐使高元度の伝えた唐帝の要望により南海道諸国に牛角を貢上させる〔続紀〕。
  11―17   新羅征討にそなえて、伊予守百済王敬福を南海道節度使に任じ、伊予など12か国の船・兵子・子弟・水夫らを検定させる〔続紀〕。


763(天平宝字7・癸卯) 
  8―14   昨年来の長雨、今年に入ってからの旱ばつにより、伊予国も飢饉の状態が続いたので、救済される〔続紀〕。
  8―18   南海道の諸国に旱害があったので節度使が停止される〔続紀〕。


764(天平宝字8・甲辰) 
  4―16   伊予国などに旱ばつによる飢饉があり救済される〔続紀〕。
  7―14   周敷郡の人多治比真国ら10人に周敷連の姓を賜る〔続紀〕。
  8―9   このころ、南海道の諸国に旱害があり疫病が流行する〔続紀〕。
  9―11   恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱。
  10―26   周敷郡の人、周敷真国ら21人、さらに周敷伊佐世利宿禰の姓を賜る〔続紀〕。


765(天平神護1 1.7・乙巳) 
  2―15   伊予国など4か国に飢饉があったので、救済される〔続紀〕。
 閏10―2   道鏡を太政大臣禅師とする。
  10―    神野郡伊曽乃神に神封10戸があてられる〔新抄格勅符抄〕。


766(天平神護2・丙午) 
  3―3   伊予国の人、従七位上秦浄足ら11人に阿陪小殿朝臣の姓を賜る〔続紀〕。
  4―20   神野郡伊曽乃神および越智郡大山積神に従四位下を授け、神戸各5戸ずつをあてる。また久米郡伊予神および野間郡野間神に従五位下を授け、神戸各2戸ずつをあてる〔続紀〕。
  9―13   伊予国の人大足山が稲・鍬・墾田を国分寺に寄進したので、その子の氏山が外従五位下に叙せられる〔続紀〕。
  9―23   高向家主南海道巡察使となり、地方政治の実情把握にあたる〔続記〕
  10―20   道鏡を法王に任じる。
  この年   伊予国から封戸10戸を大和国火幡神に、30戸を同国高鴨神にあてる〔新抄格勅符抄〕。


767(神護景雲1 8.16・丁未)
  1―8   諸国国分寺で吉祥天悔過之法を行う。
  2―20   越智郡大領越智飛鳥麻呂、絁および銭を献じ、外従五位下に叙せられる〔続紀〕。
  3―20   従三位藤原蔵下麻呂、伊予土佐両国の按察使に任じられる。
  6―3   伊予国人、白丁越智国益、私物を献じ、外従五位下に叙せられる〔続紀〕。
  10―17   宇摩郡の凡継人、銭・紵布・竹笠・稲を献じ外従六位下に、その父の稲積は外従五位下にそれぞれ叙せられる〔続紀〕。


768(神護景雲2・戊申) 
  4―28   神野郡の人賀茂人主ら4人、伊予賀茂朝臣の姓を賜る〔続紀〕。
  8―12   大学直講の凡黒鯛の勤学を賞して伊予の稲千束を与え、その母に従八位下を授ける〔続紀〕。


769(神護景雲3・己酉) 
  4―5   温泉郡の人正八位上味酒部稲依ら3人、平群味酒臣の姓を賜る〔続紀〕。
  11―28   伊予国より白鹿を献上する 〔続紀〕。
  この年   大和国某寺に伊予国の封戸を施入する〔新抄格勅符抄〕。


770(宝亀1 10.1・庚戌) 
  4―26   陀羅尼経を納めた三重小塔百万基を十大寺に分置する。
  5―11   これより先、伊予守高円広世らが白鹿を献じたことを賞し、関係者に物を賜うとともに、広世ら国司および郡司らには位階を昇進させ、国郡の租税を減免する(位階の授与は10―26)〔続紀〕。
  8―21   道鏡を下野薬師寺に配流。
  この頃   温泉郡に箆原郷という郷があり、その戸主千縫田人なる者が白米を貢進していた〔西隆寺木簡〕。


774(宝亀5・甲寅) 
  6―18   この頃伊予国に飢饉があり救済される〔続紀〕。
  9―6   諸国の溝池を修造させる。


775(宝亀6・乙卯) 
  3―2   初めて伊予国に大小目(国司の四等官)が置かれる〔続紀〕。


776(宝亀7・丙辰) 
  1―19   畿内七道に検税使が派遣され、南海道使には多治比三上が任命される〔続紀〕。


779(宝亀10・己未) 
  この年   天台僧光定、伊予国風早郡に生まれる。俗姓贄氏〔文徳実録〕。


780(宝亀11・庚申) 
  7―22   越智郡の人越智静養の女、私物を出して窮迫した農民を救済し位2階を昇叙される〔続紀〕。


784(延暦3・甲子) 
  3―13   伊予守吉備泉、下僚の告発もあり国司としての適格性を問われ解任される〔続紀〕。
  7―4   伊予国など3か国、山城国山崎橋建造の料材の進上を命ぜられる〔続紀〕。
 閏9―12   伊予守藤原末茂、日向介に左遷される〔続紀〕。
  11―11   長岡京に遷都。


785(延暦4・乙丑) 
  9―24   右兵衛督五百枝王、藤原種継暗殺事件に連座して、伊予国に流される〔紀略〕。


791(延暦10・辛未) 
  3―6   刪定律令24条を施行する。
  7―22   伊予国から白雀が献上されたので、捕えた凡大成に位階と稲、伊予の国司および関係する郡司らに位階がそれぞれ与えられる〔続紀〕。
  9―17   伊予など8か国に命じて、平城宮の諸門を長岡宮に移建させる〔続紀〕。
  12―8   越智郡の人越智広川ら5名、紀臣の姓を称することを願い出て、許される〔続紀〕。


792(延暦11・壬申) 
  6―14   これより先、諸国の兵上が廃止され、かわって健児が設置される。伊予国は50人と規定される〔類聚三代格〕。

  10―25   遠路のため、伊予国より瓜を献ずることを以後停止する〔紀略〕。
 閏11―11   伊予国より白鹿を献ずる〔紀略〕。


793(延暦12・癸酉) 
  6―23   平安京遷都にあたり、伊予国は郁芳門の建造を命ぜられる〔拾芥抄〕。  
  8―21   内舎人山辺春日ら、佐伯成人を謀殺、翌日陰謀が発覚して逃走する。のち伊予国で捕えられ、処刑される〔類聚国史〕。
  この頃   伊予国和気郡・温泉郡・越智郡などから白米が長岡京に貢進されている〔長岡京木簡〕。
  この頃   空海は石鎚山など、四国各地で修業を続けていた〔聾瞽指帰〕。


794(延暦13・甲戌) 
  10―22   平安京に遷都。


795(延暦14・乙亥) 
  4―14   伊予国よりの献物がある〔類聚国史〕


796(延暦15・丙子) 
  2―25   南海道の駅路が不便なので旧路を廃して新道によることとする〔紀略〕。
  11―21   公私の船は、豊前国草野・豊後国国崎・坂門の3港より豊前門司の勘過を経ることなく、自由に往還することが許され、その旨が伊予国など沿海諸国に周知される 〔類聚三代格〕。 
  この年   東寺・西寺・鞍馬寺が創建される。


797(延暦16・丁丑) 
  1―27   伊予国の駅家11が廃止される〔後紀〕。
  2―13   菅野真道ら、『続日本紀』を撰上する。
  11―5   坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。


799(延暦18・己卯) 
  6―5   南海道の諸国、去年の凶作によってその年の田租を全免される〔後紀〕。
  8―22   伊予国の人従七位下越智祖継、本貫を左京に移す〔後紀〕。
  12―29   諸国に本系帳を作らせる。


800(延暦19・庚辰) 
  4―12   綿種を伊予国などの諸国に栽培させる〔類聚国史〕。
  7―10   讃岐国那河、多度両郡の因支首氏ら、伊予別公と同祖であることを主張、言上する〔北白川宮所蔵文書〕。


802(延暦21・壬午) 
  1―19   最澄、高雄山寺で法華会を開く。
  9―3   伊予など31か国の損田農民の租税を免じ調を徴する〔類聚国史〕。


803(延暦22・癸未) 
  2―22   国儲稲が公廨稲から分置される。伊予国は上国で、9,000束が設置される〔延暦交替式〕。


805(延暦24・乙酉) 
  2―19   諸国国分寺で薬師悔過を行わせる〔後紀〕。
  6―10   伊予など11か国について、彩帛をやめ、旧来のように絹を調として貢進させる〔後紀〕。
  7―1   遣唐使、帰国して唐の情勢を伝える。
  10―19   坂上田村麻呂、清水寺を建立。
  12―7   伊予など21か国について、都の造営や疫病の流行による民衆生活の疲弊のため、当年の庸が免ぜられる〔後紀〕。