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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

原始・古代〔古墳時代前期~古墳時代後期〕

 古墳時代前期

【年代(西暦)】  【事 項】
  畿内から瀬戸内海沿岸の各地に前方後円(方)型の巨大な墳丘をもち、多くは竪穴式石室に割竹形木棺を納め、多量の鏡、鉄製の武器、農耕具などを副葬したきわめて画一性の強い首長墓である古墳が出現する〔京都府椿井大塚山古墳〕。
  前方後円墳が今治地域で出現する。(国分古墳(今治市))
  舶載鏡に加え仿製鏡、車輪石や石釧などの石製宝器が副葬され、家形や盾、蓋、靭などの器材埴輪が出現する。
  椿井大塚山古墳出土鏡と同笵関係を分有する中国製三角縁神獣鏡が出土する。(嶺昌寺古墳(伊予市))
  小松、今治、北条、松山の各地域を基盤にして前期古墳群が形成される。(大日裏山古墳群(小松町)、相の谷1・2号墳(今治市)、妙見山古墳(大西町)、櫛玉比売神社古墳(北条市)、吹上の森1・2号墳(伊予市)、弁天山0・1号墳 (松山市))
  土師器の地域色が急速に弱くなり、東北地方から九州にいたる広い地域で共通の特徴をもつ土器が製作・使用されるようになる。
  強固な堰を設けた水利灌漑施設が整備される。(古照遺跡(松山市))
  中国・朝鮮との通交に関するものと想定される祭祀が始まる〔福岡県沖ノ島遺跡〕。

391年
  倭国渡海して百済・新羅を破る〔高句麗広開土王碑〕。


 古墳時代中期

【年代(西暦)】  【事 項】
  北九州に墓道をもつ竪穴系横口式石室が出現する〔福岡県老司古墳〕。

400年
  好太王、5万の大軍を新羅に送り、倭国軍を破り、追撃して任那・加羅の地に至る〔高句麗広開土王碑〕。
  大王陵クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り、さらに巨大化する〔大阪府仁徳天皇陵古墳・応神天皇陵古墳〕。
  砥部川流域の緑色片岩製箱式石棺が伊予市や三津浜湾沿岸丘陵の古墳に使用される。(猪の窪古墳(伊予市)、津田山古墳、高月山古墳(松山市)、釈迦面山1号墳(砥部町))


413年
  倭国・高句麗、ともに東晋に貢物を献上する〔晋書安帝記〕。


421年
  倭王の讃、宋に朝貢する〔宋書倭国伝〕
  以後100年間、倭の五王(讃・珍・済・興・武)歴代宋に遣使、安東将軍倭国王の称号を授かる。
  各地に巨大古墳が出現する。古墳の副葬品に、馬具・甲冑・刀など軍事的なものが多くなる。
  県下の中期の首長墓は定型的な前方後円墳から、円墳や帆立貝式の前方後円墳に変化する。(金子山古墳(新居浜市)、樹の本古墳(朝倉村)、小竹8号墳(北条市)、観音山古墳(松山市))
  大阪府南部の陶邑窯跡群において、須恵器の集中的な生産が開始される。
  曲刃鎌やU字形鋤・鍬先が出現し、農具の鉄器化が進展する。
  鋤・鍬・エブリ形木製農具などが多量に出土する。(福音寺遺跡竹ノ下地区(松山市))
  竪穴住居に造りつけのカマドが出現し、普遍化する。


471年
  辛亥年7月中の紀年銘を有する鉄剣がある〔埼玉県埼玉稲荷山古墳〕。
  九州の阿蘇熔結凝灰岩を用いた舟形石棺が用いられる。(蓮華寺在(松山市))
  木棺直葬や箱式石棺を内部主体とした古式の群集墳が形成される。(唐子台古墳群(今治市)、東野御茶屋台古墳群(松山市)、土壇原古墳群(松山市))
  海上交通の安全や農耕の祭祀遺跡が成立する。(大木遺跡(魚島村)、出作遺跡(松前町))


 古墳時代後期

【年代(西暦)】  【事 項】
  この頃から西日本各地では横穴式石室が古墳の最も普遍的な埋葬施設となる。
  本格的な横穴式石室が導入される。(三島神社古墳(松山市))
  再び地域の首長墓として前方後円墳が復活する。(経ヶ岡古墳(伊予三島市)、菜切り谷古墳(今治市)、衣黒山古墳(大西町)、波賀部神社古墳(松山市)、客池古墳(伊予市))


527年
  筑紫国造磐井が新羅と通じ反乱をおこす〔書紀〕。


538年(552)
  百済の斉明王、仏像と経論を献じる〔元興寺縁起〕。
  この頃より約半世紀の間、西日本各地では群集墳がその造営の最盛期を迎える。
  石棚付横穴式石室が構築される。(山口1号墳(川之江市)、新城3号墳(北条市))
  県下各地に群集墳が築造される。(横山古墳群(新居浜市)、野々瀬古墳群(朝倉村)、新城古墳群(北条市)、東山鳶が森古墳群(松山市)、大下田古墳群(砥部町)、伊予岡八幡神社古墳群(伊予市))
  松山南部古窯址群で須恵器や埴輪が焼成される。
  砂鉄を原料として鉄生産が広まる。
  巨大な石材で構築した横穴式石室がつくられる。(奥ノ谷古墳(北条市)、北谷古墳 (松山市))
  前方後円墳が造られなくなり、群集墳の多くは築造をやめる。