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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

原始・古代〔旧石器時代前期~弥生時代後期〕

 旧石器時代前期

【年代(西暦)】  【事 項】
B.C.200万年頃 
  地球上に最初の人類アウストラロピテクス(猿人)が出現する(アフリカ南部~東部・インドネシア)。

B.C.50万年頃  
  アジア・ヨーロッパ・アフリカなどに原人(中国の北京原人・ドイツのハイデルベルグ人・南アフリカのパラントロプス人など)が生息する。
  中国の北京原人は火を使用し、チョッパーや各種の剝片石器を使用する。

B.C.40万年頃  
  氷期の海面低下で日本列島は大陸と繋がっており、揚子虎・犀・熊などの周口店動物群が日本列島へ移動する。
  この頃にナウマン象が出現するか。

B.C.15万年頃  
  リス氷河期による海面低下で朝鮮半島と日本列島が陸橋で結ばれ、オオツノジカ、野牛など大陸系大型哺乳類が本州地域へ渡来する。
  アジア・ヨーロッパ・アフリカに旧人(中国の馬覇人・ネアンデルタール人など)が拡がる。日本の牛川人(愛知県)は旧人に属するといわれる。

B.C.5万年頃   
  リスーヴュルム間氷期に海面が上昇して、日本が大陸から離れる。
  土器を知らない人によってチョッパー、チョッピング・トゥール、ハンドアックスなど日本最古の石器が使われ始める〔群馬県岩宿遺跡〕。



 旧石器時代後期

【年代(西暦)】  【事 項】
B.C.3万年頃   
  世界に新人=ホモ・サピエンス(中国の周口店山頂洞人・クロマニョン人など)が出現する。
  新人に属すると推定される「三ヶ日人」・「浜北人」(静岡県)。  
  「港川人」(沖縄県)が出現するなど日本各地の丘陵や台地で人類が生活する。
  ナイフ形石器、彫刻刀、スクレイパーなどが製作、使用される。
  東日本では石刃技法が多く用いられ、近畿・中国・四国地方では横剝ぎ技法が発達する。

B.C.2万年頃
  サヌカイト製ナイフ形石器が盛行する〔岡山県鷲羽山遺跡〕。(鯨遺跡(弓削町)、金ヶ崎遺跡(伯方町))
  鹿児島錦江湾奥部の姶良火山爆発により火山灰(AT火山灰)降下、時期区分の鍵層となる。
  海面の上昇で朝鮮海峡・津軽海峡が出現し、日本の大部分が大陸から分離する。

B.C.1万3000年頃 
  ナイフ形石器が小型化する。(丸山遺跡(松山市))
  細石刃などを木や骨などの軸にいくつも植えこんで用いた細石器が普及する。
  縄文時代草創期にかけて、九州地方を除く全地域に投槍の先端とみられる有舌尖頭器が広まる。(川田遺跡(川之江市)、小林遺跡(土居町)、釜ノ口遺跡(松山市))


 縄文時代草創期

【年代(西暦)】  【事 項】
上黒岩岩陰遺跡第9層B.C.12165±600B.P.(¹⁴C推定年代)
  土器が発明される。最古の土器は丸底の深鉢形で細隆起線文や豆粒文などの文様をもつ。弓矢と石鏃の使用が始まり、打製石器に加えて磨製石器が使用される〔長崎県泉福寺洞穴遺跡〕。
  有舌尖頭器や尖頭器とともに、細隆線文・爪形文様のある土器が使われる。(上黒岩岩陰遺跡第9層(美川村))
  女性像を表現したと思われる線刻礫が製作される。
  煮沸のため赤変した集石遺構が検出され、微隆線文土器やオオツノジカが出土する。(穴神洞遺跡第8層(城川町))

上黒岩岩陰遺跡第6層B.C.10085±320B.P.
  薄手の無文土器に二等辺三角形の石鏃が出土する。(上黒岩岩陰遺跡第6層、穴神洞遺跡第6層、中津洞遺跡第6層
(城川町))
  漁撈活動が初めて活発化し、貝塚が営まれはじめる〔神奈川県夏島貝塚〕。
  大型獣がいなくなり、シカやイノシシ・ウサギなどの中・小動物が増える。


 縄文時代早期

【年代(西暦)】  【事 項】
  西日本を中心に尖底の押型文土器が流行する。
  押型文土器は、連続刺突文や特殊菱形文の施された神宮寺式土器から、山形や楕円形文の黄島式土器、さらに粗大な楕円文の高山寺式土器へと推移する。

黄島貝塚B.C.6443±350B.P.
  海面の上昇により、瀬戸内海ができる。
  ヤマトシジミ(半淡水産)の貝塚がハイガイ・マガキ(海水産)の貝塚に変化する〔岡山県黄島貝塚〕。
  山形文・楕円押型文土器(上黒岩Ⅲ式)・厚手無文土器(土壇原式)・大型楕円押型文土器(穴神Ⅱ式)へと変遷する。(上黒岩岩陰遺跡第4層、土壇原Ⅱ遺跡(松山市))
  小型の三角形石鏃が出土し、弓矢を中心とした狩猟生活が進展する。(穴神洞遺跡第3層)
  狩猟用に使われた2頭の日本犬を埋葬する。(上黒岩岩陰遺跡第4層)
  ドングリ・クルミ・トチなど堅果類を貯蔵する施設がつくられる〔鳥取県目久美遺跡〕。
  屋外に炉をもち、数戸を単位とする小集落が形成される。
  台地上に隅丸方形の竪穴住居跡が営まれる。(土壇原Ⅱ遺跡)
  一般的な埋葬方法は屈葬。
  円形土壙内から二次埋葬された人骨3体出土、男性人骨にはヘラ状骨製品が貫通する。(上黒岩岩陰遺跡第4層、穴神洞遺跡第4層)
  最古の土偶が関東地方でつくられる。
  装身具類が盛行する。イモガイ・マルツノガイ・タカラガイ製垂飾品、鹿角製耳栓、イノシシの牙製の骨角器、ハマグリ製貝器など。(上黒岩岩陰遺跡第4層、穴神洞遺跡第4層)

B.C.4500年頃   
  中国の江南で水稲が栽培される〔浙江省河姆渡遺跡〕。
  九州南方の鬼界カルデラが噴火、アカホヤ火山灰が降下する。


 縄文時代前期

【年代(西暦)】  【事 項】
  中国地方各地で、貝殻条痕文と連続刺突文のある丸底深鉢形土器が作られ、九州地方の轟A・B式に似た文様のある土器も使われる〔岡山県羽島貝塚〕。
  九州の轟式、瀬戸内の羽島下層式の影響が強い土器が分布する。(中津川洞遺跡第2層)
  大分県姫島産黒曜石が使用される。
  汎世界的な温暖化で海面上昇する。関東地方では現在の海岸線より約50km奥まで貝塚集落が出現する。
  数棟からなる竪穴住居が円形広場をとりまくように配置され、馬蹄形集落を形成する。
  瀬戸内沿岸では多くの貝塚が営まれ、長期間の集落が形成され始める。
  丘陵上に方形竪穴住居跡が営まれる。(谷田Ⅰ遺跡(松山市))
  カワニナと獣骨片が散在する炉跡がつくられる。(中津川洞遺跡第2層)
  集落内部に共同墓地が形成される。
  粘土床を伴う女性埋葬がおこなわれる。(中津川洞遺跡第2層)
  丸木舟の使用や木工技術が発達する。
  漆の使用が始まる。
  瀬戸内では、縄文地に突帯文をもつ彦崎乙Ⅱ式土器〔岡山県彦崎貝塚〕や田井式土器〔同田井遺跡〕が盛行する。
  玦状耳飾などの装身具類が発達する。


 縄文時代中期

【年代(西暦)】  【事 項】
  全面に粗い縦走縄文や撚糸文をつけた立体的装飾の少ない深鉢形の土器〔岡山県船元貝塚〕から、縦走の撚糸文に沈線で装飾を加えた深鉢形の土器〔同里木貝塚〕へ、さらに細かい条痕文に沈線で装飾を加えた土器〔同里木貝塚〕へと推移する。
  瀬戸内の様相が強い水崎Ⅰ~Ⅵ式土器が出土する。(水崎遺跡(波方町))
  中部山岳に大集落が激増し、関東地方でも貝塚を伴う大規模な環状集落が出現する。
  中期の遺跡数が少ない。
  海岸線はほぼ現在の線に近づくと推定される。
  集落内に集会場らしい特大竪穴家屋が営まれる。
  瀬戸内海の島々にも貝塚を伴う集落が営まれるが、石棒や石皿・打製石斧など同時期の東日本に多い石器は数が少ない。
  網漁による集団漁業が行われる。
  一大型石錘が多量に出土する。(水崎遺跡)


 縄文時代後期

【年代(西暦)】  【事 項】
  土器の機能が分化し、各種の器形のものが作られるとともに、文様に磨消縄文が流行する。
  沈線で囲んだ内側の縄文を残し、外側の縄文を磨消する中津式土器〔岡山県中津貝塚〕や三本沈線による曲線的な文様をめぐらす福田KⅡ式土器〔同福田貝塚〕などの磨消縄文土器が盛行する。
  瀬戸内の様相が強い六軒家Ⅰ式―小松川式―六軒家Ⅱ式へと推移する。(六軒家遺跡(東予市)、小松川遺跡(小松町))

B.C.1600年    
  この頃、殷王朝が成立する。
  口縁部を厚くして曲線的な文様を集中させた縁帯文の津雲A式土器(岡山県津雲貝塚)や幾何学的な縁帯文をもつ彦崎KⅠ式土器〔同彦崎貝塚〕、口唇部をふくらませて縄文を施した彦崎KⅡ式土器が流行する。
  東・中予では瀬戸内的な川原谷式―上野Ⅲ式―同Ⅳ式へと推移する。(上野遺跡(松山市))
  南予では宿毛式土器〔高知宿毛貝塚〕の影響下に平城Ⅱ―平城Ⅲ式―伊吹町式へと推移する。(平城貝塚(御荘町)、伊吹町遺跡(宇和島市))
  この頃から中国・四国地方で集落の数が急激に増加する。
  丘陵や台地上で方形竪穴住居跡が営まれる。(上野遺跡、久米窪田Ⅰ遺跡(松山市))
  環状列石・環状石鏃・周提墓などの墓地が発達する。
  抜歯の風習が東北地方から全国に拡がる。幼児骨と成人骨を区分して埋葬する年齢階梯性の強い社会が出現する。
  抜歯のみられない伸展葬の人骨が埋葬される。(平城貝塚)
  環状列石から馬の埋葬遺構が検出される。(山神遺跡(久万町))
  祭祀的な配石遺構5基が検出される。(岩谷遺跡(広見町))
  多量の石鏃・石斧・石匙・石錘などの石器や貝輪・耳飾などの装身具も広く使用される。
  三頭、十字形(四頭)石器が出土する。(山神遺跡)
  関東地方で土器製塩が始められ、東北地方などに波及する。
  西日本の土器に縄文の文様が使われなくなる。
  食物を盛る黒色磨研の精製浅鉢形土器と、煮沸専用の粗製深鉢形土器の使い分けがおこなわれる。

B.C.1050年
  この頃、周王朝が成立(~前256)、殷が滅ぶ。


 縄文時代晩期

【年代(西暦)】  【事 項】
  土器に縄文の文様が消失する。(叶浦遺跡(伯方町))
  東北地方の亀ヶ岡式土器が盛行、広く東日本から近畿地方まで影響を及ぼす。
  貝塚がなくなり、岡山県前池遺跡や山口県岩田遺跡で、ドングリの貯蔵穴がつくられ、磨製石鎌形石器や農耕具に類した大型打製石器が使われる。
  方形竪穴住居跡やイチイガシの充満した貯蔵穴、旧河川跡では杭列が検出される。(船ヶ谷遺跡(松山市))
  精製、粗製二種の突帯文土器が製作・使用される。
  抜歯の風習が複雑となり、叉状研歯などが行われる。
  漆塗りの籠や装身具の製作が広く行われる。
  岩偶や土偶、さらに木偶・釧状木器など植物性遺物が出土する。(船ヶ谷遺跡)
  朝鮮半島から石庖丁、太型蛤刃磨製石斧などの大陸系文物、風俗、習慣とともに水稲耕作の技術が北部九州に招来される〔佐賀県菜畑遺跡〕。
  松山平野で初期稲作が開始され、壷形土器、石庖丁、石鎌などが出土する。(大渕遺跡(松山市))


 弥生時代前期

【年代(西暦)】  【事 項】
  弥生文化が沿岸部を中心に波及する。
  大陸、朝鮮からの文物とともに、技術・知識・思想なども伝播する。
  木葉文、重弧文、羽状文で飾る流麗な壷形土器が製作される。(持田遺跡(松山市))

B.C.221年
  この年までに秦の始皇帝、初めて中国を統一する。
  矢板や杭列によって保護された低湿地上に水田が開かれ、隣接する微高地上に竪穴住居・高床倉庫が営まれる〔岡山県津島遺跡〕。
  円形竪穴住居で集落が形成される。(文京Ⅳ遺跡(松山市))
  九州西北部を中心に支石墓が盛行する。畿内では方形周溝墓が出現する。
  響灘などの海岸砂丘上に、土壙墓・箱式石棺墓などからなる集団墓が形成される。
  土壙墓や壷棺墓などで集団墓が営まれる。(西野Ⅲ遺跡(松山市))
  中部瀬戸内地方を中心とする阿方式土器など地域性の強い独自の土器が作られる。(阿方貝塚・片山貝塚(今治市))
  農業社会が盛行し、環濠をもつ大規模な中心的大集落が形成される。(来住Ⅴ遺跡(松山市)、姫坂遺跡 (今治市))
  集落と区画された台地上に貯蔵穴群が営まれる。(鶴ヶ峠遺跡(松山市))
  銅剣、銅矛、銅戈などの青銅利器が朝鮮半島からもたらされる。
  中予地域では、有柄式磨製石剣を祭器として埋納する。(宝剣田遺跡(松前町)、東谷・寺山遺跡(伊予市))
  石斧、石庖丁の専業生産が行われ、社会的分業の萌芽となる。
  砥部川流域の緑色片岩を利用した石庖丁や未製品が中予地域に流通しはじめる。
  鹿の骨を用いた卜占が行われる。

B.C.108年
  前漢光武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡など4郡を設置する。


 弥生時代中期

【年代(西暦)】  【事 項】
  近畿地方の影響の強い櫛描き文土器が盛行する。
  中部瀬戸内地方を中心にサヌカイト製の打製石庖丁が盛んに用いられる。
  北九州では甕棺墓が盛行し、なかには多数の前漢鏡を副葬したものが現れる〔福岡県三雲・須玖・立岩遺跡〕。

紀元前後
  この頃、倭人は百余国に分かれ、その一部は漢の楽浪郡と交渉をもつ〔漢書地理志〕。

14年
  新の王莽「貨泉」を鋳造する。
  近畿地方で銅鐸の製作が開始される。
  西日本で銅矛・銅剣・銅戈などの青銅製武器形祭器の製作が始まる。

57年
  倭の奴国王が後漢に朝貢して光武帝より印綬を受ける〔後漢書東夷伝〕。

107年
  倭国王帥升ら、後漢に生口160人を献じる〔後漢書東夷伝〕。
  北九州では新から後漢にかけて作られた方格規矩四神鏡を多数副葬した甕棺墓が営まれる〔福岡県井原鑓溝遺跡〕。
  凹線文の顕著な土器が瀬戸内沿岸で広くつかわれる。
  扇状地に大集落が形成される。(文京遺跡)
  集団墓のなかから墓域を区画する台状墓が営まれる。
  方形周溝墓が畿内から波及するという。(釈迦面山遺跡(松山市と砥部町にまたがる地域))
  全国的に鉄器の国産化がはかられ、鉄製の鋤先が使われはじめる。(釈迦面山遺跡)
  北九州から武器形祭器(細形・中細形銅剣、中細形銅矛)が波及し埋納される。(西番掛遺跡(土居町)、新谷遺跡(今治市)、扇田遺跡(丹原町)、宝泉遺跡(川内町))
  瀬戸内海沿岸を中心に各地に軍事的性格をおびた高地性集落が出現する。(立石山遺跡(生名村)、丸山遺跡 (伊予三島市))
  芸予諸島や沿岸部の高地に集落が形成される。
  中国・四国のほぼ全域で、この地方独自の特異な祭祀遺物である分銅形土製品が作られる。
  分銅形や方形のほか、その折衷型で眉・鼻を強調した松山平野特有の分銅形土製品が盛行する。(別所中園遺跡(玉川町)、女夫池遺跡(北条市)、御幸寺山東南麓遺跡・文京遺跡・祝谷六丁場遺跡(松山市)、水満田遺跡・高尾田遺跡(砥部町))
  備讃瀬戸を中心に土器製塩が始まる。


 弥生時代後期

【年代(西暦)】  【事 項】
184年頃
  倭国大いに乱れ、国々が相戦い長く盟主が定まらない〔魏志倭人伝〕。
  その後、倭の諸国は卑弥呼を共立して連合の盟主とする〔魏志倭人伝〕。
  全国的に土器の器形、文様が規格化、簡素化する。
  中期以来の円形住居とともに方形や多角形の竪穴住居跡に変化し、小型化する。
  瀬戸内海地域に特有な武器形祭器である平形銅剣が製作され埋納される。
  平形銅剣Ⅰ式が道前平野に埋納される。(古田松木遺跡(丹原町)、広岡竹谷遺跡(東予市))
  中期以来、高地性集落が営まれる。(八堂山遺跡(西条市))
  石器が減少し、鉄器が普及する。
  巨大な墳丘をもつ首長墓が出現する〔岡山県楯築遺跡〕。
  九州では甕棺墓が少なくなり、土壙墓や石棺墓が多くなる。
  土壙墓に中国鏡片が副葬され、特殊に発達した大型器台が松山地域で発展する。(土壇原北遺跡(松山市))

239年
  女王卑弥呼、魏に遣使、親魏倭王の称号をうけ、銅鏡を下賜される〔魏志倭人伝〕。
  平形銅剣Ⅱ式が松山平野や今治平野などで集中的に埋納される。(今市遺跡・樋又遺跡・道後公園東麓遺跡(松山市)、下保田遺跡(朝倉村)、萩生遺跡(新居浜市)、柴生遺跡(川之江市))
  中広形銅矛が全県的に分布する。(金生川河床遺跡(川之江市)、別所新池遺跡(玉川町)、四郎谷遺跡(野村町))
  広形銅矛が松山平野以南に分布する。(向山遺跡(伊予市)、大窪台遺跡 (宇和町))
  備讃瀬戸で製塩炉を用いた土器製塩が行われる。

248年
  女王卑弥呼死去、内乱の後、宗女臺与が13歳で女王となる〔魏志倭人伝〕。
  地域間の土器交流が活発となる、畿内庄内式土器が各地へ波及し斉一化する。
  畿内系・吉備系・山陰系などの外来系土器が流入する。(宮前川遺跡(松山市)、宮ヶ内遺跡(今治市))

266年
  倭の女王、使者を遣わし西晋に貢献する〔晋書武帝紀〕。
  各地でそれぞれ地域的特色の強い墳丘をもつ首長墓が営まれる。
  突出部を伴う墳丘墓が築造される。(唐子台墳墓群(今治市))
  高地性集落が廃絶する。
  この頃から銅剣・銅鐸・銅矛などの青銅製祭器が用いられなくなる。
  水銀朱の生産・供給が行われ始める。