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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 社会事業の推進と健民健兵製作

 社会事業行政の変化

 大正末期から昭和初期の恐慌期に、失業や貧困が大きな社会問題となり、その解決が迫られた。内務大臣の諮問機関である社会事業調査会(大正一五年設置)は、社会事業を、一般救護・経済的保護・失業保護施設・児童保護事業の四体系に分けて調査研究していた。これらの成果として昭和四年(一九二九)四月、従来の「恤救規則」に代わる総合的社会事業法規として「救護法」が公布され、同七年一月より施行され、いわゆる救護法時代へ移行した。この法律は救護範囲を拡大し、生活扶助・医療救護・助産救護・生業扶助・埋葬費支給などを決めたもので、救護費は国・県・市町村が一定の比率で分担し、養老院や孤児院などが救護施設として位置づけられた。しかし、要救護者からの救護請求権を認めていない点では第二次世界大戦後に制定された「生活保護法」と大きな差があった。
 「救護法」施行以後も、社会事業諸法制は整備され、昭和八年には児童保護のための「児童虐待防止法」や「少年教護法」、同一一年には方面委員の職務内容を明確にした「方面委員令」が公布された。昭和一二年には母子家庭の扶助を定めた「母子保護法」、傷病兵及び軍人遺家族の救済範囲を拡大した「軍事扶助法」を制定、翌一三年には、経済不況の中で経営難に悩む民間社会事業団体の助成を目的に「社会事業法」が制定されるに至った。また昭和一七年には「戦時災害保護法」も制定された。一方、失業者救済については大正期以来の職業紹介事業・授産事業・公営土木事業による救済のほかに、「公益質屋法」(昭和二年公布)による少額低利金融の発達や時局匡救事業を通して進められるようになった。
 昭和一三年一月厚生省が新設され、従来内務省や文部省などで主管された社会事業と社会教化事業が一元化した。しかし、満州事変の勃発、日中戦争の開始に伴い、戦時体制が進行する中、社会事業行政も軍事政策の一環として位置づけられ、精神作興や人的資源の育成を中心とする社会教化策や銃後活動に奉仕する方向へと変化した。従って昭和一二年から同二〇年までの特異な社会事業形態は「戦時厚生事業」の語で説明されている。
 愛媛県でも、こうした中央の動きに合わせて、昭和二年八月の「公益質屋法施行細則」から同一七年一〇月の「戦時災害保護法施行細則」まで、九法令に関する施行細則を定め(資社経下四二〇~四三四)、事業の進展に努めた。特に人的資源育成の見地から児童保護事業や、軍人遺家族及び傷病兵の保護を中心とする軍事援護事業が盛んとなった。昭和七年から八年にかけて、私立弓削幼稚保育園、西宇和郡宮内村(現保内町)主婦会託児園、城辺託児所、今治市の昭安保育園、長浜奨善会愛児園などの常設託児所が開設され、また農繁託児所も普及発達した。「少年教護法」に基づく少年教護委員は、昭和九年一〇月一〇日に県下四市七町村に六五名が配置され、一四歳未満の問題少年に対する教育的保護を加える体制を整えた。なお、「少年教護法」施行に伴い「感化法」が廃止されたので、県立自彊学園は同年一〇月に県立家庭実業学校と改称し、奥山春蔵校長のもとキリスト教精神による生活指導や職業教育が展開された。
 大正六年七月制定された「軍事救護法」は昭和一二年三月に大幅に改正され、「軍事扶助法」と改称して傷病兵や遺家族の扶助を拡大した。この法律施行に当たり、県当局は「軍事扶助実施要綱」を作成し、社寺兵事課・教育課・衛生課・社会課がこの事業を分担して、出征兵士の激励やその家族や遺族の慰藉と扶助に努めた。
 こうした社会事業の変容に伴い、大正一〇年愛媛県内務部に創設された社会課は同一五年に学務部に移属し、昭和一七年七月一日に社会課は厚生課となり、更に同年一一月に兵事厚生課となった。これは単に名称の変更を意味するのではなく、「防貧」に主眼を置いていた社会事業が徐々に性格を変えて、軍事援護を第一とする翼賛的傾向を強めたことも意味している。なお同一七年七月の県行政機構改革によって地方事務所が県下九か所に拡充され、ここに軍人援護相談所を置き、地方事務所長が相談所長として銃後の援護相談に当たる体制を整えた。昭和一〇年と同一七年における社会事業行政推進の部課及びその職掌は表4―34の通りである。
 昭和二年(一九二七)から同二〇年までの本県社会事業費決算額の推移(表4―35)をみると、その額は年をおって増加し、昭和一三年度は同二年度の五倍強となり、歳出総額に占める割合も〇・四%から一・三%に上昇している。その後は社会事業関係費の増大以上に歳出総額が膨張しているため、社会事業関係支出率は一%を切る状態であった。しかし、前章の大正期における社会行政の項で既述したように、慈恵救済基金や賑恤基金など県特別会計からの社会事業関係費支出は、昭和期も継続し、一般会計より支出される額の五~六倍の額に及んでいる。

 方面委員制度の普及と変化

 大正一三年三月、松山・今治・宇和島の三市に本県最初の方面委員が委嘱され、その後も県下の町村で方面委員が誕生した。昭和一一年(一九三六)三月には表4―36のように県下六五市町村に四二二名の委員が委嘱され、同一四年度は温泉郡三内町(現川内町)を除き県下全市町村に一、四八四名の方面委員が生まれた。この時、婦人の方面委員も約二〇名を数えるようになった(昭和一四年「県政事務引継書」)。これら委員の多くは既に創設されていた愛媛県社会事業協会の会員となり、同協会及び愛媛県社会課と一体となった活動を進めた。
 方面委員の県内各町村への広がりとともに、互福会、助成会、共済会、輔済会、愛隣会などの団体名で方面事業後援組織(現在の市町村社会福祉協議会に相当)が各地に結成された。これら諸団体は各市町村や県の補助金及び会員拠出金を資金にして、失業者保護救済に伴う授産場、職業紹介所、母子保護や児童保護に伴う母子寮や託児所などの諸施設の整備を進めた。方面委員はこれら団体の役員を兼務して事業の整備進展を図る一方、担当区域の生活困窮者の生活状態を調査し、要救護者に対しては方面事業後援団体の設置する施設への入所手続をとった。
 方面委員の職務は昭和二年四月の「愛媛県方面委員設置規程改正」(資社経下四一七)によって、(1)一般社会状態を調査しその改善向上を図ること (2)保護または指導を要する者及び公私の救助を受けている者についてその実情を精査し、適切な方法を講じること (3)社会施設の適否を調査しその完備改善に努め、かつ各種社会事業団体との連絡を密にして方面事業の達成に尽力することなど五項目に及ぶ職務を掌理するよう規定されていた。方面委員の取り扱い事項は、調査・保護・救済・福利・教化・融和・その他戸籍整理の七項目であり、担当区域内に自活困難世帯があった場合には「調査カード」(方面カード)に記入し、一通は市町村長を通して県へ提出、一通は手元に保管して保護救済活動の資料とした。昭和初期の経済恐慌で生計の途を絶たれ、カード登録者数が増加した松山・今治・宇和島市には昭和五年七月、市の社会課内に方面書記(方面事業の事務取扱者)が設置された。この年三月の「今治市方面委員会報告書」(『愛媛社会事業』第一巻三号)によると、累積されたカード数は九三枚で、三月中に新たに「老衰疾病」・「病弱失業」のために四枚の方面カードが追加、死去・扶養者発見の理由で二枚のカードが削除されている。これらのカードに登録されるまでには至らないが方面委員が取り扱った保護救済件数は、カード数の数十倍に及ぶと考えられ、昭和五年度、松山市方面委員二一名による取り扱い件数は九九四件であった。
 昭和七年(一九三二)一月一日、「救護法」の施行に伴い県内三六市町村に新たに救護委員が設置された。この日、愛媛県は「愛媛県方面委員規程」(資社経下四二三)を定めて救護委員を方面委員にも充当した。また県当局や愛媛県社会事業協会から救護委員(方面委員)未設置の町村に対する勧奨が行われ、昭和一四年度までにはほぼ県下全体に方面委員が設置された。この間、昭和一一年の「方面委員令」の公布に即応して、県下の方面委員に関する規程改正が実施され(資社経下四二七)、昭和一二年以降、方面委員は「救護事務・軍事救護事務等ニ付市町村長ヲ援助」するものへと、その性格変更を余儀なくされた。
 「救貧」と「防貧」を主旨として発足した方面委員制度の性格変更に対して、軍事援護は社会事業ではないとする意見に県内にもあった。これに対して愛媛県社会課社会事業主事村松義朗は『愛媛社会事業』(昭和一四年一二月号)で「現下時局と方面事業の新分野について」を発表し、方面事業の担当分野を規定することは難しいと述べながらも、(1)防貧救済を主な使命としていた時代 (2)軍事援護事業をも当然の職責とする時代 (3)戦時戦後の諸社会対策への参与を任務とする時代 以上三つの段階的発展論を示し、「国家総動員法」のもとにあっては「一死奉公笑って護国の鬼と化した同胞の英霊に対する限りなき感謝と、新東亜建設への民族的大使命に対する責任感を、絶へず国民の胸裏に覚甦(かくせい)せしむる事により、思想悪化を防止し摩擦を解消し、以て国民精神総動員の完成に、現実的に参与するのも刻下方面委員にかせられた重大使命の一つであろう。現実的参与というのは、国民精神総動員運動の何れからの部所に役員として自己の名札を掲げる事でなく、方面精神を基としてあくまでも担任地区の人心に正しく働きかける事を意味するのは言ふまでもないところである」という見解を示した。
 こうした方面事業の変化は愛媛県方面委員大会の県指示事項・諮問答申・協議事項にも端的に表れている。昭和五年二月一〇日県立大洲高等女学校で開催された第五回大会、同一四年一〇月三〇日今治市公会堂で開催された第一二回大会での諮問答申事項を比較すると次のようであった。

  昭和五年度 会長(県学務部長)諮問
   「方面委員制度の機能を十分に発揮するため、方面委員として執務上考慮すべき最重要事項について」
     委員答申事項(中平常太郎を代表とする五名により答申書作成)
   一、方面委員の機能を発揮するためには委員の任期を二年制から四年制にする。
   一、救助を行うに当たって単なる物質的救助に流れず自活力を復活せしめ、自助独立心を涵養する。
   一、方面委員相互の連絡を図ることは勿論、各種社会事業団体との連絡提携を密にする。
   一、細民思想の善導に留意し、人格的接触により教化指導に努める。
   一、受持地域内に起こる事件につき細大の別なく常に知悉し得るよう家庭訪問などに努める。

  一、窮民が生じるのは社会制度上の欠陥によることが多い。したがって委員は時代思想に遅れることなく社会共同責任の観念の下に深い同情をもって任務に当たる。
  一、方面委員例会開催を励行する。
  一、必要な箇所に委員の新設または増員を行う。
  一、方面委員助成機関の完備を期す。

 昭和一四年度 県知事諮問事項
  「現下の時局に鑑み県民生活に対する精神的指導の徹底を図る必要ありと認めるが、方面委員としての取組み方法」
    委員答申事項(景浦信敬を委員長とする一六名の答申案作成委員会による答申)
  一、県民に対し日常生活に対する一切の不安を芟除し、時局を正しく認識させることが肝要である。このため、(1)県は今夏の旱害に対し速やかに米穀需給円滑化を図って県民生活の安定を期し、諸般の国策を県民に周知させ不退転の気魄をもって「興亞聖業」の達成に協力させる。(2)この精神指導は町内会や部落会で増々強大が図られているが、方面委員はこれらの役員と協力し各種団体との連絡提携を図って、日本精神の自覚涵養に努めるとともに方面精神の高揚を図り、自らも県民に範を示す。
  一、軍事援護世帯の精神指導は方面委員の重大な任務であるので、方面委員は市町村銃後奉公会の軍事援護相談部の事業の推進力となる。
  一、婦人方面委員の増員を促進し、各種婦人団体と協調して婦人中心の世帯に対する家庭強化、母性および児童保護に努めて精神指導の徹底を図る。
  一、救護の要点は精神教化にあり金品の給与は精神教化の手段にすぎない点に留意し、救護世帯員の自立向上心を涵養するよう努め、国家の深淵なる恩遇と東亞の盟主たる日本国民としての自覚を促す。


 宇和島市民共済会の授産事業

 ところで、方面委員による諸活動では宇和島市民共済会の発足とその授産活動が特に注目される。昭和初期の宇和島市は人口五万五千人余の県下第二の都市で、製糸、織物、海運、醤油などの諸工業があったが、生糸、絹織物は業績不振で多くの失業者を生じていた。中平常太郎、今井真澄ら宇和島市方面委員はこうした事態に当たって、宇和島市長であるとともに同市方面委員後援会長の山村豊次郎と図って昭和二年(一九二七)一〇月二五日、宇和島市民共済会(事務所は宇和島市社会課内に設置)を創立させた。この会は、同市における窮貧救助、失業保護及び罹災救助などを通して宇和島市民の福利増進を図る目的で事業を進め(表4―37)、中平会長・今井副会長以下、菊地正宏・松本良之助・星野太龍・大内英尾ら一八名の理事はすべて方面委員であった。
 宇和島市民共済会の資金は県や市の補助金の外に会員の拠出金であったが、思うように資金は集まらず、方面委員が一〇〇円、二〇〇円の大金を持ち寄り、昭和五年には二〇名すべての方面委員の連帯責任で、愛媛県社会事業協会より五千円、愛媛県農工銀行より一万円を借り入れて事業を行った。同共済会は昭和四年秋ごろから人形作りの外に団扇製造を授産事業の種目に取り入れることを計画していたが、資金の見通しがつくと香川県丸亀市から技術職人を雇い入れ、市内の失業者中一三七人に対して団扇製造講習会を開き、二か月の練習期間で、骨作り・柄塗り・張立て・仕上げなど各工程の従業員を養成した。こうして製造された団扇は和霊団扇と名付けて販売され、昭和六年四月台湾で開かれた愛媛県物産見本市(本県主催)には中平会長が出席し、台北、高雄、嘉義など台湾の主要都市を巡って販路開拓に努めた。この時、中平は宇和島人形六〇〇個、和霊団扇一五万本の注文を取って来た。同会はこの年市内妙典寺前に本格的な授産場を建築して設備を整えている。これら大量注文と施設拡大により、生活困窮者や失業者中より新規の従業員を受け入れ、行商部(人形、団扇製造に適さない者が団扇、粉石齢、脱脂綿を行商)を新設して、昭和一〇年には一三〇名前後の人々が常勤するようになった。団扇については昭和八年度七〇万本を販売、二万一、四七五円の売り上げ実績を示した。
 こうした授産事業の好況により、昭和九年一二月一日宇和島市民共済会は財団法人化し、昭和一三年四月からは妙典寺前に低家賃で住宅を提供する更生家屋昭和園を開設するとともに、市内和霊町にも授産場を新設して下駄の製造を開始した。また昭和一六年四月から市内大石町に母子寮に保育所を併設させた愛育園も発足させた。同共済会は昭和二一年一二月、引揚者や空襲による罹災者救助のために宿所提供施設民生館を和霊町に開設するなど現在まで多種多様な社会福祉事業を推進してきた。
 宇和島市民共済会のほかにも方面委員が主体となった授産事業として、今治市の更生織・八幡浜市の竹箸製造(月販売高二五万膳)・伊予郡郡中町(現伊予市)の更生織・北宇和郡岩松町(現津島町)の屑生糸を原料とする製糸などがあり、毎日一〇人から五〇人が就労していた。特に今治市では昭和八年に失業者救済職業補導講習会を一か月間開催し、昭和九年一月二六日から方面委員会が経営する今治市授産場でバスマットなどの製品を「更生織」と命名して授産活動を進めた。工賃は男一日四〇銭~一円・女二八銭~八〇銭であった(「今治繁盛記」)。

 社会事業諸施設の整備

 昭和二年(一九二七)八月「公益質屋法」が施行され、愛媛県でも八月一六日その施行細則を定め、生活困窮者に対し低利少額金融の途を開いた。喜多郡長浜町では既に大正一二年一月(「県政事務引継書」は一一年一一月とす)以来、町営質庫を開業していたが、法律の施行以来大洲町、宇和島市、野村町、喜多郡大和村(長浜町)などでも市町村営による公益質屋が増設され、昭和九年九月までにその数は五四にのぼり北海道に次いで全国二番目の普及状況を示した(表4―38参照)。
 公益質屋設置に際して国費から質庫・事務所設置経費の五〇%の補助があり、貸付資金は大蔵省預金部及び簡易保険局より融通を受けた。貸付限度額は民営質屋への影響も考慮して一口一○円一世帯五〇円までとされ、利率は月一・二五%が「公益質屋法」の規定限度であったが県内では一%の市町村が多かった。昭和八年一〇月から翌年三月までの六か月間での職業別利用者は表4―39に示したが、一人当たりの平均貸付額は五円五二銭であった。
 今治市出身で東京在住の馬越文太郎は昭和四年末に貧民救助の資として一万円を今治市に寄付した。市ではこれを基にして、「救護法」施行を待って救護院を設置する計画を立てた。昭和八年度になって国庫及び県費の補助を得、総経費一万二、四五〇円を費やして同年一〇月一日今治市日吉に今治市救護院を開設した。院には主任書記一名と看護人二名を常置させ、貧困のため生活することのできない六五歳以上の老衰者・一三歳以下の幼者・妊産婦・不具廃疾者・疾病者などを救護した。開院時から昭和九年三月までの六か月間で救護者は延べ四、一四四人に達した(昭和九年「愛媛県社会事業要覧」)。
 松山市互福会を発展解消して昭和六年八月に結成された松山市方面事業後援会は、県費補助や市内の篤志家及び団体の寄付金を基に、市内築山町や朝美町に防貧施設の一端として救護家屋(更生家屋と称した)九戸を保有し、方面カード登録者を入居させていた(昭和一〇年松山市「市政事務報告書」「松山市史料集 第一一巻」所収)。また第二種階級(第二種方面カードの登録者の意、辛うじて生計を支えているが、なんらかの事故に遭遇すると自活困難に陥るおそれがあると認められる者をさす)の家庭が往々にして「子だくさん」のため生活に困窮するのをみて、昭和一〇年一月一六日市内出淵町に保育園を開設した。園舎には保母住宅も併設し三〇名の園児を保育して児童養護と「家庭産業増進の一助」とした。その後、松山市方面事業後援会は授産事業と保育事業を合わせた総合的施設の建設を計画した。昭和一五年一二月松山市西堀端通に土地と建物を購入、昭和一六年七月一日松山市隣保館設立のための役員を選定して組織を整え、昭和一七年度に松山市隣保館を建設した。建設に当たり恩賜財団軍人援護会、財団法人三井報恩会・財団法人慶福会・愛媛県社会事業協会及び愛媛県から補助を受けた。こうして開設した松山市隣保館では母親は授産を受け、その子供たちは館内で保育されるという状態がみられた。松山市隣保館は昭和一七年一一月二七日財団法人化し、戦後は福祉法人として今日も救護施設丸山荘や保育園を設置している。
 愛媛県ではこのような隣保館が昭和一五年度以降農村部を中心に数多く建設され、その背景には政府の農村社会事業振興策がみられた。昭和四年以来公私経済緊縮運動が展開され、各地で「消費節約」・「生活改善」がうたわれていたが、慢性的な不況に悩む農村では生活の切り詰めが健康・体力の低下を招いていた。昭和七年二月農林省は経済更生部を置き、農山漁村の匡救、産業振興・民心安定・経済更生の諸策を展開した。また昭和一一年六月社会事業調査会は隣保共助に立脚する農民の自力更生を打ち出し、救護事業・医療保護・児童保護・職業保護・経済的保護・生活改善事業を総合的に推進する農村隣保事業を提唱した。昭和一二年二月一九日八幡浜市公会堂で開かれた愛媛県方面委員大会では、県は「本県農村の実情に鑑み適切なる社会施設如何」と諮問し、各市町村に一か所ずつ隣保館を設置することが答申された。前述の松山市隣保館もこの流れにそって建設されたものであった。これら隣保館の建設計画はその後県当局や愛媛県方面委員連盟(昭和一〇年三月発足)によって企画された。「海南新聞」昭和一五年六月四日付は「隣保施設に着手 第一回十一ヶ町村本極り」の見出しで、宇摩郡金生村(現川之江市)・同郡三島町・新居郡泉川町(現新居浜市)・越智郡清水村(現今治市)・温泉郡川上村(現川内町)・伊予郡南伊予村(現伊予市)・同郡郡中町・喜多郡粟津村(現大洲市)・西宇和郡三瓶町・東宇和郡狩江村(現明浜町)・北宇和郡立間村(現吉田町)に農村隣保施設を置く県の決定を報道している。
 これらの隣保館は既設の公会堂、青年会堂などを拡大し、あるいは新たに施設を建設して開館させ、社会事業関係者や看護婦・産婆・保母などが駐在して総合的な社会事業推進の拠点となることが望まれた。しかし、授産・保育・医療救護等の事業よりも銃後奉公のための教化集会活動が中心となり、農村部における戦時厚生事業の拠点となっていった。
 なお、戦時体制が進行する中、昭和一一年九月に愛媛県盲人福祉協会が結成され、同一七年八月一五日には日本聾啞福祉協会愛媛支部が誕生した。これら二つの協会は本県最初の「福祉」という語をもつ組織で、ともに県立盲啞学校を活動の母体とした。ただ、この時の「福祉」はまだ現代的な福祉理念に基づくものではなく、これらの協会は会員の福利向上を図るとともに、翼賛運動下ではその名称も変え、傷病兵や軍需産業に従事する人々に、按摩や針治療などをもって奉仕する治療報国を主な活動とした(「愛媛社会事業」昭和一一年一二月号・「愛媛県立盲啞学校当直日誌」)。

 戦時厚生事業の動向

 日中戦争の長期化、苛烈化に伴って本県でも軍人遺家族の援護、銃後奉公を中心とした社会事業施策に力を注ぐようになっていた。昭和一六年一月には、厚生省に職業局が設置されて労務動員計画を総合的に推進する体制に移行し、更に同月「人口政策確定要綱」が内閣で決定し八月一日には厚生省に人口局が新設された。こうした中で、国民は「人的資源」と考えられ、個人の幸福は国策遂行のために犠性にされ、厚生行政は軍部の意図によって歪められる中で、労務動員策・人口政策・健民健兵政策(本項 保健所の設置と健康運動九一八ページ参照)が戦時厚生事業の中心になった。
 婦人職業紹介・少年職業紹介・内職紹介を事業目的として、大正一一年一月愛国婦人会愛媛支部内やその後市町村役所内に設立された職業紹介所は、昭和一三年までに県内で一四か所を数えていた。こうした公営職業紹介所は昭和一三年七月の「職業紹介法」根本改正及びその施行により国営に移管された。国立職業紹介所は労務配置政策遂行機関として戦時下においては特に重要な使命を持ったが、大正期以来その重要使命であった生活困窮者への経済的保護事業は縮小された。国立今治職業紹介所は昭和一三年一〇月一八日、その事務所を市役所内から大正通の帝国在郷軍人会今治第一分会に移し、一般軍需労務要員・海軍作業庁要員・陸軍作業庁要員・広海軍工廠見習工などの募集と充足を中心に、帰郷並びに傷痍軍人の保護・応召者遺家族の職業保護・少年の職業指導と紹介を行っている(「今治職業紹介所業務概要」)。
 男性勤労者の多くが県外に出ると、県内では婦人が「産業戦士」としての挺身活動に駆り出され、新居郡垣生村(現新居浜市)では婦人のみによって生産を行う工場も現れた。既婚婦人の動員が活発化してくると、家庭における乳幼児の保育問題が浮上し、婦人が後顧の憂いなく生産陣営に参加できるよう戦時保育所の設置が進められた。愛媛県は戦時保育所に勤務する保母は一般的保育技術のみならず、園児の養護・家庭の生活指導にも積極的に働きかけを行い、国民厚生の実を挙げる厚生保母であらねばならないとして、昭和一七年度より今治市の昭安保育園を実習場として厚生保母の養成に努めた。その結果、昭和一七年度に一六名、一八年度は二〇名の厚生保母を養成して県下各保育施設に配置した。また昭和一九年一月二八日には「愛媛県厚生保姆規程」(資社経下四三四)を施行し、厚生保母の待遇と素質の改善向上を図って「保育報国」に専念する措置を講じた。
 大正期以来県内各所で開設された季節託児所(農繁託児所)も、昭和一四年度以降急激に増設され、昭和一八年度からは一部落一か所開設の方針を立てて増設拡充が図られた結果、春季九〇二か所・秋季四二〇か所に戦時季節保育所が開かれた。この間、母親は食糧増産運動に専念して生産に従事し、厚生保母は婦人会員・女子青年団員・女学校生徒の保育実習協力を得て園児の保育に当たった(「愛媛県における戦時厚生事業の動向」「厚生問題」昭和一九年五月号所収)。
 「国家当面の重大時に際し人口増強の国策に則り、母性並将来母性たるべき女子青年をして婦人の天職を完ふせしむる為、之に必要なる乳幼児、児童一般に関する保健及保育上の知識を与ふると共に進んで時局認識の深化を図り、日本婦人として婦道の昻揚を促進して戦力増強に資せんとす」(「愛媛県における戦時厚生事業の動向」)との趣旨によって、昭和一六年以降県内各所で母親学校が開催された。母親学校は愛媛県と大日本国防婦人会愛媛県支部が共同主催して、乳幼児死亡率の高い地域を選び、昭和一六年度一一か所、一七年度一四か所、一八年度一〇か所に妊婦及び乳幼児養育中の母親を集めて開催された。
 人口政策推進の中で、本県では昭和一八年一一月二日「愛媛県結婚奨励基本要綱」を決め、市町村役所内に結婚相談所を設置し、県庁内にも中央結婚相談所を置いた。結婚相談所では男子満二一~三五歳、女子満一七~三〇歳までの人々を調査登録し、未婚者のうち男は二五歳、女は二〇歳に達する一年前に「貴家の○○さんは明年になれば人口国策によって要請されて居る結婚年齢に達せられますから宜敷結婚報国の趣旨に則り健全なる結婚をせらるる様願ひ度き旨」の内容を記した「結婚通告書」を送付する計画を立てている。なお、人口政策に基づく優良多子家庭の愛媛県社会事業協会総裁(県知事)による第一回表彰は昭和一一年八月一五日より行われ、県内五九三家庭が表彰されている。また厚生大臣による優良多子家庭表彰伝達式は昭和一六年一一月三日愛媛県会議事堂で実施された。優良多子家庭とは、一〇人以上の子供をもち、かつ一人でも死亡することなく全員六歳以上(県表彰基準は六歳以上の制限はない)に成長した模範家庭のことである。この年、全国の被表彰家庭は二、一四五家庭であったが、本県からは八四家庭(温泉郡一六・北宇和郡一〇・松山市九・伊予郡七・西条市六など)が表彰されている(『愛媛社会事業』昭和一七年一月号)。この外、昭和一九年二月一一日の紀元節を期して、本県は「皇民育成基本施設要綱」を定めている。これは昭和一九年一月一日以降の出生児に適用され、新生児誕生を祝して県知事より次のような祝詞が送られた(「愛媛県における戦時厚生事業の動向」)。

  目出度く出生せられ御家門のため皇国のためまことに慶祝の至りに存じます どうか心身共にすこやかに御育て下さいまして天皇陛下の立派なみたみ(御民)に成人せられますやう心から御祈り申して居ります 誕生祝いのおしるし迄に記念貯金通帳一冊進呈致しますから御納め下さい
    昭和  年  月  日   愛媛県知事  相 川 勝 六


 保健所の設置と健民運動

 昭和六年(一九三一)の満州事変後国防力増強の要請が高まり、国民の健康増進、母子衛生、伝染病の徹底予防、結核花柳病の撲滅が呼ばれ、国民体力の向上が期待された。その要望を担って誕生したのが保健所であり、衛生思想の涵養、栄養改善と食品衛生、環境衛生、妊産婦及び乳幼児の衛生、疾病の予防、その他の健康増進に関する事項を指導することになった。昭和一二年四月五日に制定された「保健所法」は、道府県に対し人口一二~一三万人に付き一か所の保健所を設けることを指示して、国庫で助成した。本県は、昭和一三年に最初の保健所を宇和島市に設置して七月一五日から業務を開始した。次いで翌一四年八月三島保健所、同一五年一一月大洲保健所、同一七年一一月卯之町保健所と久万保健所がそれぞれ開所した。保健所には、母子の保健衛生指導や傷病者の療養補導に従事する保健婦が置かれ、その養成が図られた。
 昭和一三年一月政府は厚生省を新設したが、府県の衛生課は依然警察部の下に置かれた。昭和一七年衛生課は内政部に移管されて非常時下の健民健兵政策に対処することになった。これと並行して保健所の整備強化が進められた。同一九年に結核予防のため健康相談所を保健所に改組するなどで、本県には既設五保健所に加え松山・今治・新居浜・八幡浜・壬生川・野村・郡中・岩松・御荘・宮窪(のち西条に代わる)の一五保健所が存することになった。
 国防のための兵力の根源である壮丁の体位は横ばいないし低下の傾向にあった。第11師団司令部は、四国四県に対し国民体位向上策の強化を要請した。昭和一二年県当局は「愛媛県国民体位向上対策要綱」を作成して、指導機関の統制拡充、衛生思想の涵養並びに衛生的生活の実践、栄養の改善と住宅その他環境衛生・医療の普及、体育運動の奨励、学校衛生の振興などを推進することにした。
 本県では、既に昭和五年から一一月中旬に健康週間を設けていたが、同一四年五月二日から一週間全国一斉に健康週間を催すことにした。この年の健康週間中、松山市では小中学校児童生徒の体育祭・遠足・体格検査の実行、毎朝各町ごとの街頭ラジオ体操の励行、大清掃の実施、映写会・講習会・喀痰講習会の開催、チフス予防注射の施行などの行事を展開した。宇和島市では、第一日 各氏神に参拝して健康祈願、第二日 室内掃除・家具整理、第三日 胚芽七分つき米奨励、第四日 日光消毒奨励、第五日 下水溝・汚水溜・塵芥箱の清掃改善など日ごとの重点事項を決め、この期間中毎朝七時半から市役所前広場で市民体操を開催、また繁華街では保健所による路上診断、医師会の和霊神社・小学校での健康診断、市立病院の健康相談などが実施された(「海南新聞」昭和一四・四・二九付)。
 各府県で健民運動が励行され始めたので、厚生省はこれを規律化するため昭和一六年「健民運動実施要項」を通達して、健康週間を四月二八日~五月七日の国民健康増進旬間に拡大し、新たに七月二一日~八月二〇日の夏季心身錬成月間や秋季国民錬成を加えて、その行事内容の大綱を示した。本県は、同年四月に健康増進運動具体案を作成、結核予防、母性・乳幼児の体力向上、国民栄養の改善確保、心身鍛錬、環境衛生改善、寄生虫予防、性病予防、伝染病予防、近視及びトラホーム予防、虫歯の予防及び聴力保護、公衆衛生道徳向上、保健施設利用と医療資源確保、県民厚生の各運動ごとにその実践事項を立案して、県民に励行方を呼びかけた。
 昭和一五年四月八日、政府は「国民体力法」を制定した。これは国民の体位低下の傾向に対処し、国家管理の下に一七~一九歳の男子の体力検査を行い、その結果に基づき保健指導を行うことによって体力の向上を図ろうとしたものであった。愛媛県は、一七〇名の医者を体力管理医に委嘱し、翌一六年一〇月まで四万四千余人を対象に体力検査を行った。この検査で発見された結核・花柳病などの要療養者には処置命令が出され、また虚弱青少年を集めて宇和島市の南予会館・西条市の石鎚神社・松山市の太山寺などで体力向上修錬会が実施された。
 昭和一七年二月には「国民体力法」が改正されて、体力検査の対象年齢が二五歳まで引き上げられ、虚弱者に対する健民修錬所の施設促進が指示された。これに応じて県当局は、同一八年四月に「健民修錬所要綱」を定めて工場・事務所に私設修錬所を置くことを奨励した。この年、県は周桑郡国安村(現東予市)高須公会堂と宇和島市南予会館に常設修錬所を置いたが、翌一九年には喜多郡上須戒村(現大洲市)・上浮穴郡久万町・東宇和郡下宇和村(現宇和町)の公会堂などにも増設した。
 青少年の体位向上には学校衛生が重視され、文部省は昭和一二年一月二七日「学校身体検査規程」を公布して、児童生徒の身体検査を毎年定期的に行うことを義務づけた。県学務部は、身体を精密に検査し養護鍛錬の方法を適切に工夫して強健で優秀な児童生徒を育成すること、総会診察に十分意を用い、要養護者の発見に努め健康に関する生活指導によって体位の向上を図ることなどを学校長・学校医に指示した。また身体検査の結果を中等学校入学試験当落の資料として重視した。学校医は、昭和一五年四月時で中等学校五〇校全部、小学校四三一校中三六六校に配置されていた。この学校医を中心に学校衛生、殊にトラホーム治療と寄生虫駆除の徹底が図られた。学校行事では、心身鍛錬が多く組み込まれるようになった。
 戦時下健民運動の一つとして母性と乳幼児保護が強調され、昭和一〇年から五月五日の端午の節句を中心に児童愛護週聞が実施された。週間中、妊産婦及び乳幼児の健康相談、診察、乳幼児審査会などが実施されたが、医師など専門家からは、児童愛護週間だけでは母子衛生の向上は望めず、母親に対する衛生知識の徹底、乳幼児栄養食の改善、健康相談の強制などの策を講じなければならないといった意見が出された。厚生省は昭和一六年七月に「妊産婦手帳規程」を公布、県はその施行細則で、妊娠した者は速やかに市役所・町村役場に届け出て妊産婦手帳を交付され、医師・助産婦の診察と保健指導を受けること、手帳が示されれば市町村は必要物資の配給購入を優先的に取り扱うよう指示した。次いで昭和一七年の「国民体力法」改正に際し乳児の体力検査が義務づけられたので、県は「乳幼児体力検査規程」を布達して、生後四か月から二年までの間に五回の体力検査を受けるよう強制した。こうした乳幼児検診と妊産婦保護の促進によって母子衛生は次第に徹底した。昭和一〇年時出生一、〇〇〇に対する乳幼児死亡率九五・二であったのが、同一八年には耐乏生活下の悪条件にもかかわらず六九・八に下がった。

 結核と伝染病の撲滅策

 愛媛県の結核による死亡者は、昭和七年(一九三二)二、〇六〇人、同一〇年二、四〇一人と漸次増加の傾向をたどった。しかも二〇~三四歳の壮丁層が全体の五割近くを占める状況は、国策である兵力増強の面から放任できない問題であった。この結核死亡者数は四国四県で第一位を占め、全国でも一四~一五位の結核県であった。
 昭和七年から日本放送協会の受信料提供で健康相談所が開設され、本県も資金分配を受けて県庁と今治市・宇和島市・八幡浜町・角野村(現新居浜市)の警察署にこれを置き、結核予防及び患者の相談・指導に当たっていた。しかし県庁や警察署に開所されていて利用し難い状態であったから、松山市の健康相談所は同一一年に独立し、今治の相談所も同一四年に済生会診療所内に移転した。両所ともにレントゲンその他結核診察器具を備えたので、利用者が増加した。結核療養所の設置は、県医師会の再三の決議要請にもかかわらず容易に実現せず、昭和一二年四月の「結核予防法」改正で設置を義務づけられても建設地が決まらず遅延した。昭和一四年四月温泉郡南吉井村(現重信町)見奈良原に傷痍軍人愛媛療養所が開設されて結核兵士を収容した。この療養所の隣接地に県立結核療養所翠松園が同一六年一一月ようやく落成、翌一七年四月に開所した。しかし一五〇床の施設では隔離が期待される患者を十分に収容するだけの余力はなかった。県医師会は、各市町村の遊休隔離舎を改造して、開放性患者を隔離収容するよう提案した。この一七年には北宇和郡近永町(現広見町)・松丸町(現松野町)など隣接町村の一区域が「結核予防会北宇和模範地区指導所」に指定され、国鉄出目駅裏丘陵の桜ヶ丘に事務所を新築し、集団検診による患者の早期発見と三〇床を有する治療施設によって早期治療に努めた。
 結核予防思想の啓蒙普及を図るための「予防デー」は毎年四月二七日に実施されていたが、昭和一四年皇后の令旨を奉戴した結核予防の新国民運動が一一月一四日から全国一斉に展開された。この運動は、従来の啓蒙的行事を染め替えて、都市デー・農村デー・工場デー・学校デー・家庭デーなどの予防重点日を設定し、各場所で結核撲滅の示威行事を繰り広げ、健康報国の意義を国民に意識させようとした。
 県当局はこれらの結核予防運動を展開するとともに、保健所・健康相談所・市町村に健康診断の徹底と保菌者の療養や生活指導を講ずるようしばしば指令し、昭和一七年(一九四二)四月「愛媛県結核予防撲滅五ヵ年計画実施要綱」を作成して結核予防策を体系づけた。この要綱によると、県庁衛生課に実施本部を、各警察署に地方実施部を置き、市町村・学校・工場・官公庁・民間集団などに下部実施部を組織し、各実施部は健康生活指導と予防療養指導を励行することにしていた。結核予防撲滅の方策としては、濃厚感染防止とツベルクリン反応検査・BCG接種の徹底に置いた。そしてこの年の五月一五日~六月一五日を結核予防撲滅運動強化月間として、この実施要綱を実践することにした。県医師会では同一六年一月に結核撲滅会を結成していたが、この運動に全面的に協力することを決め、期間中五〇万人の県民を対象にツ反検査を行い、陰性者にはBCG接種を実施した。
 未感染者に免疫性を付与するBCG接種は昭和一七年から積極的に実施する方向が打ち出され、結核予防に大きな成果をあげ始めた。しかし患者の隔離と早期治療は、結核医学の未発達に加え療養所の増設や公費負担の処置がとれないまま栄養事情の窮迫が重なり、死亡者は増加した。
 戦時下の防疫で注目されるのは予防注射が普及したことである。本県の腸チフスは、昭和八・九年にも大流行して九〇〇人以上の患者を出し、同一〇年には全国第四位の高率を示した。このため県衛生課は腸チフス予防注射の普及に力を入れた。昭和一二年、県衛生課附属細菌研究所で県内菌株をもって加熱ワクチンの製造が可能になったので、「腸チフス予防液交付規程」を発布して、市町村・学校・会社・工場に対して予防液を無償交付した。県・市町村当局の督励もあって利用者は急速に増加して、この年県下で二二万余人(全人口の二〇%)が予防注射を受け、同一五年五月ころまでには五四万余人(全人口の四六%)に達した。この結果、腸チフスの罹患者は減少したが、同年八月には再び九三五人の患者を出したので、この年一二月の通常県会で、岩崎虎雄議員は医師の立場から予防注射の義務規制を要求した。
 戦時下の防疫は、銃後の人的資源確保を至上目的とした健民政策として強力に進められた。各地域の衛生組合を動員して河川・下水溝・肥溜などの汚物掃除が励行され、町村あげての大清掃が定期・臨時に実施された。従来伝染病の多かった町村は防疫強化地区に指定され、健康診断・予防注射が強制された。患者を出すと警察官から叱責され、隠蔽でもすれば隣近所から非国民扱いされた。しかし、終戦前後の昭和一九~二一年は、食糧難による栄養不良で県民の体力は衰え、衛生状態は極度に悪化、予防注射もワクチン不足でままならず、無防備のままで赤痢・腸チフス・ジフテリアなどの伝染病が猛威を振うにまかせた。

表4-34 社会事業部行政の部・課の変化と職掌

表4-34 社会事業部行政の部・課の変化と職掌


表4-35 昭和2年~20年の社会事業関係費(決算額)の推移

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表4-36 昭和11年時、方面委員数

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表4-37 宇和島市民共済会の各種共済取り扱い件数

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表4-38 県下の公益質屋設置状況

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表4-39 愛媛県における公益質屋の職業別利用者数

表4-39 愛媛県における公益質屋の職業別利用者数