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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

六 青年教育の振興と青少年団活動

 青年学校の発足と義務制化

 昭和一〇年(一九三五)四月一日「青年学校令」が公布され、従来の実業補習学校と青年訓練所が統合されることになった。青年学校は、「男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共ニ、職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ、以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ目的」とし、道府県・市町村・学校組合・商工会議所・農会・私人などが青年学校を設置することができた。教授及訓練期間は普通科二年・本科男子五年女子三年・研究科一年以上とするが、土地の情況によって普通科または本科のみを置くか各科一年を短縮することができた。教授及訓練科目は、普通科が修身及公民科・普通学科・職業科・体操科・本科は体操科が教練科に代わり、女子には教練科を省いて家事及裁縫科・体操科を加えた。入学資格は普通科が尋常小学校卒業者、本科が高等小学校卒業者、研究科が本科卒業者であった。同日、文部省は「青年学校規程」と「青年学校教員資格規程」を公布して、青年学校の設置廃止及び設備に関する規則や教員の資格に関する規則を定めた。愛媛県では、これらの法規に基づいて同年四月二四日に「青年学校令施行細則」を定めて、青年学校の設備廃止と設備、教授及訓練課程と学則、生徒の入学転学並に委託、教科書、職員の任免と服務及職務、授業料、雑則について具体的な規制を行った。また「青年学校名称ノ件」を通達して、校名呼称を指示した。
 青年学校制度が成立したので、県学務部では四月二四日に「青年学校学則標準」を通達した。また五月二日から一四日まで県下各地で関係者会議を開いて趣旨の徹底を図り、七月一日を目標に準備を進めるよう督励した。この結果、六月初めから県に学則などの必要書類を具した設立申請書が続々と提出された。しかし一部地域の設立手続が遅れたため、三か月後の一〇月一日に県内三七九校が一斉に開校した。
 こうして青年学校が発足したが、なお三分の一の青少年が末就学であった。軍部はかねてから青年学校を修了することが入営後に大きい効果をもたらすことを認識していたので、戦局の拡大による兵力増強の必要から、すべての青少年に青年学校の課程を修めるよう政府に働きかけた。そこで政府は青年学校の義務制実施の方針を決定し、昭和一四年四月二六日に新しい「青年学校令」を公布した。同令では、小学校就学者・師範学校在学者・中学校実業学校在学または修了者を除く「年齢十二歳ヲ超エ満十九歳ニ至ル迄ノ男子ハ、其ノ保護者ニ於テ之ヲ青年学校ニ就学セシメ義務課程ヲ履修セシムルコトヲ要ス」として、第一学年から年を追って義務制を実施することにした。青年学校の義務制化に伴い、愛媛県ではその充実を図るため、(1)時局即応の青年教育に関する事項の徹底、(2)独立青年学校・青年学校女子部・私立青年学校の設置促進、(3)学校組織編成の工夫と昼間教育の推進、(4)就学出席の向上、(5)専任教員の増員と教員待遇の向上などを青年学校振興の重点として掲げた。
 青年学校は制度上短期間に著しく発展したが、実際には戦時下の困難な事情と幾多の不備を免れなかった。設備の点では小学校に併設されるものが多く、指導の点では専任教員の充実が困難であった。更に勤労青年の業態が複雑であったので、整備された教育は望めなかった。なお、多くの青少年男女の勤務する会社・工場には昭和一五年時で三八校が設立されていた。

 県立青年学校教員養成所の設立

 昭和一〇年(一九三五)に勤労青少年教育機関として青年学校が誕生したことにより、青年学校における教授訓練を行うために専任教員を養成することが急務となり、昭和一〇年三月「青年学校教員養成所令」が定められた。愛媛県は松山農業学校内に併設していた実業補習学校教員養成所を三月二六日に文部大臣認可を得て、青年学校教員養成所と改称した。同時に松山市御幸町の旧御幸尋常高等小学校跡に移り独立校舎を持ち、三人の専任教諭と二一人の教授嘱託による職員組織を整えた。県は昭和一〇年三月三一日に「愛媛県立青年学校教員養成所規則」を令達し、修業年限二年・生徒定員五〇名、入学資格は師範学校卒業者・農業学校卒業者・小学校教員で農業専科教員の免許状所持者が農業科担任の経験者など、卒業者は県内で二か年間青年学校教員の職務に従事するなどとした(『愛媛県教育史』資料編七二九~七三〇)。
 こうして設立された県立青年学校教員養成所は、第一回入学生として志望者七四名のうち二一名を選抜した。入学生の大半は農業学校卒業者であった。同養成所は全員を報徳学舎(寄宿舎)に収容し、共同農家生活を実践させて、至誠実行・犠牲報国の信念を確立させるとともに青年学校指導者としての知識技能の修得と強健な身体の錬成を図った。その後、青年学校の義務制化に伴い、同校教員養成所は昭和一四年に生徒定員を六〇名、翌一五年に九〇名を増員した。また修業年限一年・生徒定員二五名の臨時養成科も新設され、同一七年からは講習科として存続した。
 本県における青年学校教員養成機関としては、青年学校教員養成所のほかに青年学校水産教員養成所と女子青年学校教員養成所があり、いずれも県営であった。前者は昭和一四年四月に宇和島明倫町の県水産試験所内に開所した。生徒定員は三〇名で、全国にも珍しい青年学校水産科専任教員養成施設であった。後者は昭和一六年四月から松山市三津浜町の女子師範学校内に設置された。修業年限二年、生徒定員四〇名で、女子師範学校・高等女学校・実業学校卒業者を入学資格とした。
 昭和一九年四月、これら県立三教員養成所は廃止されて、旧青年学校教員養成所の校地に官立愛媛青年師範学校が誕生した。生徒定員は三〇〇名であったが、同一九年度は新入学生の募集は行わず、県立青教養成所の在校生約七〇名が編入され、翌二〇年度に男子八〇名、女子四〇名が新しく入学して、青年師範学校が発足した。

 愛媛県青少年団の結成と銃後活動

 昭和一二年(一九三七)七月の日中戦争の勃発によって、青少年団体は戦争協力団体に編成替えが行われた。昭和一四年四月、大日本聯合青年団は従来の連合体を廃し中央統制を強化するために大日本青年団と改称、新しく団則を定めて国体の明徴と八紘一宇の世界観をうたい、銃後活動の任務を明確にした。愛媛県でも、昭和一五年四月八日に「聯合」の名称を廃して県青年団・県女子青年団と改称した。新しい団則では、県男女青年団は本部と地方青年団とからなり、地方青年団は地域別青年団(郡市青年団・区及び町村青年団)、業態別青年団、学校青年団に分けられた。本部の総裁には県知事、団長には県学務部長が当たり、団長は団務を総理し、地方青年団の正副団長の任免権を持っており、地方青年団に対する県統制が強化された。
 昭和一六年一月には大日本青少年団が結成され、大日本青年団・大日本聯合女子青年団・大日本少年団聯盟・大日本海洋少年団などの青少年団体が統合された。これを受けて、県当局は二月二八日に「愛媛県青少年団則」と地方青少年団準則を定めた。団則によると、事務所を県庁教育課内に置き、団長は県知事、副団長中一名は県学務部長が当たり、「皇国ノ道ニ則リ男女青年ニ対シ団体的実践鍛錬ヲ施シ共励切磋確固不抜ノ国民的性格ヲ錬成」することを目的としていた。地方団準則は、郡(市)青少年団則・町(村)青少年団則・単位青年(女子青年)団則・単位少年団則からなり、それぞれ目的・事業・役員・団員・経費などについて明記していた。
 県青少年団結成式は、同一六年三月一日県会議事堂に三五〇人の関係者が出席して開催された。聖恩奉体国民精神作興旗と県団旗を奉迎して君が代を斉唱、宮城並びに神宮遙拝・団長中村知事による「教育ニ関スル勅語」と「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」の捧読、副団長福吉学務部長の経過報告に続き、団長の式辞・大日本青少年団長の告辞代読・関係者の挨拶、来賓の祝辞があった(「海南新聞」昭和一六・三・二付)。県は学務部長名による「管内地方青少年団結成ニ関スル件」の通牒を各市町村長に発送し、郡市青少年団・町村青少年団・単位青年団・単位女子青年団・単位少年団の編成に関する留意事項を示して、三月末日までに結成して県団長に報告するよう指示した。こうして単位青年団と単位少年団を下部組織、郡市青少年団を中間組織とし、すべての面で青少年団によって統制される愛媛県青少年団の体制が確立した。
 県青少年団は、三月に幹部協議会を開き、銃後奉公として増産運動の完遂、県民生活改善、国民貯蓄運動の強化徹底などの実践目標を決めた。また重点目標として興亜青年運動をあげ、青少年義勇軍と満州勤労奉仕隊の結成を勧誘するとともに青年団幹部の大陸現地訓練を計画した。九月には各単位団のなかに興亜部を設置を指示、興亜精神の高揚のために歴史・地理・世界観の教授と拓殖訓練のために野営・野外作業を行い、義勇軍志願の奨励に努めた。この結果、県内で多数の青少年団が義勇軍に応募した。義勇軍の出発に際しては盛大な壮行式が催され、満蒙の広野に送り出されていった。昭和一九年四月には、県青少年団は戦う青少年団の実践内容として、災害地復旧・土地改良・不耕地絶滅・客土空地利用などによる生産増強・健全生活運動・健民修錬・防空防火訓練などの決戦体制の強化を単位青少年団に指令し、青少年の奮起と健闘を促した。