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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 教員補充策と師範学校の改革

 教員の不足

 昭和初年以来、深刻化した不況期を克服し、窮迫した財政の救済を図るため、県では昭和一一年(一九三六)三月に「師範学校学則中改正」・「女子師範学校学則中改正」を布達して、師範学校本科第一部生への公費月額三円を年額二〇円に、女子公費生の支給月額二円を年額一五円に減額した。
 ところが、その後、戦局の進展に従って軍需工業は拡大を重ね、残されていた民需工場も次第に軍需工場に切り換えられた。生産が軍需工業に集中して活況を呈したため、優秀な人材がこの方面に招致された。いきおい師範学校志願者の減少を招来し、同校生徒の資質の低下という深刻な問題を惹起した。加えて現職員中の男子教員で、すすんで繁栄している軍需工業方面に転進し、あるいは大陸出向、更に短期兵役に就くものも少なくなく、小学校は近年にない教員の払底ぶりをみる有り様となった。「海南新聞」昭和一四年三月二日付では、県内の小学校教員不足数が一八〇名あり、更に学級の自然増加が六〇~七〇学級を数えられるので、合計二五〇名の不足が予想されるのに対し、男子第一・二部の卒業生一六○名、女子のそれが八〇名の合計二四〇名である、ところが、男子は卒業と同時に短期現役に入営するので、教員として配置できるのは女子の八〇名のみであり、差し引いて一七〇名を代用教員で補充しなければならない旨を報じているが、教員の慢性的かつ絶対的な不足は、戦時体制下における大きな特色であった。
 この状況を克服するため、県では同一四年(一九三九)三月に「愛媛県師範学校学則中改正」を行って、第二部の生徒定員を従来の一六○人から二四〇人に、同じく「愛媛県女子師範学校学則中改正」で女子第二部の生徒定員を八〇人に増員した。
 文部省はこれらの悪条件のもとで、速やかに教員の補充を図るとともに、一方で教員の資質をも維持しなければならなかった。昭和一五年三月に、文部省は地方財政の許す限り、公費生を増員して優秀な生徒を師範学校に吸収するよう、学務局長の名で地方長官に通牒を出したのもそのあらわれである。
 しかし現実には、昭和一〇年以降代用女教員の数がにわかに増加した。その数を見ると、同一〇年度に一七六名であったのが、同一三年度に三三二名、同一五年度に六三六名に増加、その数は一〇年度の三・六倍に上昇している。その結果、教員の資質の低下は免れず、その傾向は戦時体制の強化に伴いますます激しくなった。
 県は、同一五年四月に「愛媛県師範学校学則中改正」によって、第一部生徒定員を従来の四〇〇人から六〇〇人にし、同時に公費支給年額を一二円から八二円に引き上げた。また、同日の「愛媛県女子師範学校学則中改正」によって、女子公費生に対し男子と同額が支給された。翌一六年七月に、両師範学校の学則中改正を断行し、第一部・第二部を問わず、すべての在学生徒を公費生とし、その支給額を一挙に三〇〇円に増額する優遇策をとった。しかし優秀な教員の確保は、質量ともに困難であった。

 傷痍軍人准教員養成講習科

 この実情のなかで、県は教員の不足を緩和し、かつ戦場で傷ついた傷痍軍人を救済する一助として、同一四年七月に「愛媛県傷痍軍人尋常小学校准教員養成講習科規則」を定めた。この施策は、傷痍軍人を対象としたものであって、准教員養成講習科を愛媛県師範学校内に付設し、教員の速成を図った。この講習科の受講生は、高等小学校卒業者及びこれと同等以上の学力を有するものに限定され、生徒定員六〇名、修業年限一か年であって、九月に始まり八月末に終了した。
 このようにして講習科は発足したが、入学を志願する傷痍軍人は少なく、翌一五年七月にこれを閉鎖した。結果的にこの講習科は成功しなかったが、傷痍軍人にまで補充を求めなければならなかったところに、当時の教員不足の深刻な事態を察知することができる。

 助教養成講習会

昭和一八年(一九四三)になると、師範学校制度改革に従い、卒業生二四〇余名は卒業期を九月に繰り延べられるので、教員の配置上に、合計四五〇余名の訓導の不足が予想された。県では臨時に教員の速成を図るために、助教養成講習計画をたて、高等女学校最高学年生徒のうち、将来教員たらんとするものを選定のうえ、在学期間中に教育者たるの素地を養成し、卒業と同時に助教として採用しようとした。これが「助教講習会開催要項」であって、表4―27のような受講人員と採用見込み郡市を示すとともに、県下各高等女学校を会場として講習会が開かれることになった。ここで注意すべきは、南予地域に無資格教員が多く、宇和島市で全体の三七%、西宇和郡で四三%、南・北宇和両郡で三四%、東宇和郡で三一%を占めていたことである。
 助教講習会における受講資格者は、高等女学校四、五年に在学する生徒であって、一~三月の期間中において合計九〇時間が充てられた。講習科目及び時間数は、教育一五、音楽五、工作五、体操五、図画五、教科書研究三〇、教育実習二〇、学校服務三、科学指導二時間であった。講習会の最終日に臨時検定試験を行い、成績優良なものに対して、初等科訓導教育の佳良証を与えることとなっていた。
 つづいて、県は国民学校初等科教員の速成を図るため、女学師範学校で六か月間の講習を行った。昭和一八年一月付で「昭和一八年度国民学校教員養成長期講習会要項」を告示した。この要項によると、講習期間は前期―四月七日~一〇月六日、後期―一〇月七日~翌年三月二〇日であって、両期ともに募集人員は四〇名ずつであった。受講資格者は高等女学校卒業者、または専門学校入学者検定規定による試験検定合格者であった。受講者には筆答試験・人物考査・身体検査などを課し、その成績によって採否を決定した。

 県立初等科訓導養成所

 昭和一九年度以降の県の対策は、これまでの教員の量的拡充方針に合わせて、現職の助教に対し集中的な再教育方針が採られた。助教の資質の向上を図ったところに、この時点における特色を認めることができる。県は受講人員二〇〇人、教育期間一〇月一〇日~翌年三月五日とし、受講生は一年以上助教の職にあって成績優秀なものを選抜した。これは同一九年八月の文部省国民教育局から出された「国民初等科訓導養成ニ関スル件」に対応して、「愛媛県初等科訓導養成実施要項」を制定して実施したものであった。
 しかし、これらの努力にもかかわらず、県内国民学校の教員構成は相変わらず有資格者が不足し、助教の数は全教員の二三%を占め、特に南予方面では南・北宇和郡三〇%、西宇和郡三五%に達する状況であった。そのため、宇和島市の県立鶴島高等女学校と八幡浜市の県立八幡浜高等女学校では、同校後援会の協力のもとに、国民学校初等科訓導養成所をつくった。これらの養成所は高女卒業を入学資格とし、修業年限一年であって、翌二〇年度から県に移管して、その整備充実を期した。更に松山国民初等科訓導養成所が、師範学校女子部内に新設された。
 県は前記の三養成所において、有資格女教員の養成を推進することになった。同年一月に定められた「愛媛県立国民学校初等科訓導養成所規程」は、そのためのものであった。三養成所の受講期間及び生徒定員をみると、松山が前期(四~九月)八〇人、後期(一〇~一二月と一~三月の二回)に各四〇人、八幡浜が前期(四月~一二月)・後期(一~三月)各五〇人、宇和島が前期(四月~一二月)・後期(一~三月)各五〇人であった。修了者に対しては、試験検定によって国民学校初等科訓導免許状と修了証書を授与し、国民学校に勤務させることとした(『愛媛県教育史』資料編九二二~九二四)。
 このようにして生まれた愛媛県立国民学校初等科訓導養成所は、二月六日に前期生を募集し、四月から開所したが、戦局の悪化に伴う混乱期にあい、十分な教授訓練も実施できなかった。師範学校生徒ですら、学業を捨てて勤労動員に追われ、勉学に従う余裕はなかった。そのうえ重要都市の空爆、食糧及び日常物資の極端な不足、思想の動揺などによって、空しく八月一五日の終戦を迎えなければならなかった。

 師範学校令の改正と官立愛媛師範学校
  〈教育審議会の師範学校改革案〉

 戦時下において文部省は、教員の不足補充とともに、教員の資質向上の問題に取り組まなければならなかった。既に昭和一三年(一九三八)一二月に、総理大臣の諮問機関である教育審議会が、「師範学校ノ修業年限ハ三年トシ、中学校卒業程度ヲ以テ入学資格トスル」とともに、「道府県ハ高等国民学校卒業者ニ対シテ適当ナル教育施設ヲナシ、師範学校入学ノ道ヲ開ク」ようにする師範学校改革案を発表した。
 この改革案は、同一六年(一九四一)三月の「国民学校令」の公布に対応して具体化され、翌年一月の閣議で同校制度の改善要項を決定した。その要点は、第一に師範学校を官立とし、専門学校程度に昇格すること、第二に国民学校高等科修了者のために、予科を置くこと、第三に本制度は昭和一八年四月一日より実施することの三項目から成っていた。この審議会の師範学校改革策を基礎として、翌一八年三月に「師範教育令改正」が公布され、我が国の師範教育制度は大幅な改正をみた。
 改正された師範教育令は、全文一九か条からなり、師範学校と高等師範学校、高等女子師範学校とに分けられている。次にその改正の主要点を列挙すると、第一に「師範学校ハ皇国ノ道ニ則リテ、国民学校教員タルベキ者ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的」とすると規定され、明治一九年の師範学校令以来みられた順良・信愛・威重という師範教育を象徴する三気質に関する条文が削除されたこと、第二に「師範学校ハ官立トス」とあって、師範学校を直接国家の管轄下に入れたこと、第三は従来男女両師範学校が並立していたのを道府県ごとに一師範学校設置の原則を打ち出して、「師範学校ニ男子部及女子部ヲ置ク」としたこと、
第四に師範学校編成を本科(三年)・予科(二年)とし、本科入学資格を予科修了者、中学校・高等女学校卒業者として同校を専門学校と同一水準に昇格させたこと、第五に「師範学校ニ於テハ授業料ヲ徴収セズ」とし、加えて学資給与をなし、その見返りとして服務義務年限を課していることなどであった。第六に「師範学校ノ編制、教科、教授訓練、教授用図書、生徒ノ入学、退学、懲戒、学資ノ給与及卒業後ノ服務ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム」として、師範教育に対する国家統制がこれまでより一層厳しくなっていることなどであった。

 〈師範学校規程の制定〉

 前述の師範学校令の第六条にしたがって、文部省は昭和一八年(一九四三)三月に「師範学校規程」を制定し、官立師範学校に関する具体的な内容を示した。この規程では、まず、生徒教育の留意事項を特に強調している。これらの事項は、極めて国粋主義的で戦時色の濃厚なものであり、「国体ノ本義ヲ闡明シ、皇国ノ使命ヲ自覚セシメ、皇国ノ道ノ先達タルノ修練ヲ積ミ、至誠尽忠ノ精神ニ徹セ」しめ、更に「教学ノ本義ヲ体得セシメ、身ヲ教職ニ挺シテ国本ニ培ヒ、皇謨ヲ翼賛シ奉ルノ信念ヲ涵養ス」る必要を述べ、「学行ヲ一体トシテ心身ヲ修練セシメ、国民錬成ノ重キニ任ズルノ徳操識見ヲ涵養シ、師表タルノ資質ヲ錬成スベ」きことを力説した。
 次いで本科の教科は、男子部が国民科・教育科・理数科・実業科・体錬科・芸能科・外国語科、女子部が国民科・教育科・理数科・家政科・体錬科・芸能科・外国語科として、各教科の要旨をあげた。予科の教科については、男子部が国民・理数・体錬・芸能・外国語の各科、女子部がこれに家政科を加えたものであり、生徒全員に修練を必修させた。

 〈官立愛媛師範学校の設立〉

 同一八年四月一日に新しい師範教育令によって、全国に五六の官立師範学校が設置され、愛媛県では男女両師範学校が統合されて、男・女両部からなる新制の師範学校が誕生した。
 しかし、これら師範学校の大きな改革も、戦局が重大化するにつれて、実質的な内容面からの充実がなされず、教育者の資質向上の実をあげることができないばかりか、むしろ低下し更に悪化する方向をたどった。同一九年度から師範学校への入学資格の一年繰り下げ、翌年に卒業期の繰り上げが行われた結果、ますます劣悪化するばかりであった。しかも生徒が常時勤労動員に繰り出されることによって、師範学校は本来の教員養成機関としての機能を全く喪失したまま、終戦を迎えた。

表4-27 助教講習会会場と採用見込み人員

表4-27 助教講習会会場と採用見込み人員