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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 国民学校の発足と師道の振粛

 皇国精神培養の教育

 時局下、文部省は昭和一〇年(一九三五)一一月教学刷新評議会を設け、これの答申を得て同一二年七月教学局を新設して、皇道思想の培養を基本とした教学刷新の施策を強力に進める中心機関とした。本県でも、小学校長会・中等学校長会・県教育会総会・愛媛教育研究大会などで教学刷新の実行を指示督励した。
 県内小学校では、学校経営方針に皇国教育精神の確立と師道の振粛を掲げるようになった。この時期の小学校における皇国精神培養教育の展開について、二、三の例をあげよう。
 温泉郡の潮見尋常高等小学校では、国体観念を明確にし国民精神の涵養に努める、敬祖崇祖の念を敦くし円満な品性の陶冶に努める、郷土を理解させ愛郷の念を喚起するとともに勤労精神の涵養に努めるなどを教育綱領とした。また、「一、君ヲ尊ビ国ヲ愛セヨ 一、神ヲ敬ヒ祖先ヲ崇メヨ 一、父母師長ヲ敬ヒ下幼ヲ慈メヨ 一、勤労ヲ愛シ仕事ニ励メヨ 一、誠ヲ尽シテ実行ニ努メヨ」を校訓とした(「自昭和四年潮見尋常高等小学校学校沿革誌」)。
 西宇和郡の川之石尋常高等小学校では、教科指導の努力点として、修身科において皇国精神の涵養(教育勅語の徹底、敬神敬祖の念、儀式訓練の厳粛)と実践指導の徹底(日常生活指導・作法教授重視・訓育施設の厳守)を挙げ、国史科において国体明徴・日本精神涵養に重点を置き、地理科とともに郷土に即した教育を行うことにしていた。また訓育では、「皇国心培養」を到達点として、国体観念の明徴、国民精神の体得、世界における地位使命の自覚、協同社会的・公民的自覚、勤労訓練の尊重、報恩感謝、宗教的情操、質実剛健の訓練、出席歩合の向上の命題を目標に掲げ、実施行事と期日を学校暦で振り分け明示した(「自昭和十年川之石尋常小学校の沿革と現状の大要」)。
 伊予郡の佐礼谷尋常高等小学校では、「教育勅語ノ聖旨ヲ奉戴シ児童人格ノ完成ヲ図リ、特ニ努力発展向上ノ進取的気象ヲ養ヒ、没我献身的ニ奉仕スル実践力旺盛ナル日本魂ノ強固ナル日本人的性格ヲ陶冶シ、新時代ニ順応シテ活動シ得ル興国精神、旺盛ナル国民的基礎ヲ涵養セントス」を教育要旨とした。これに基づき、訓育に、日本精神陶冶(国旗掲揚、皇居遥拝、神宮遥拝、氏神参拝、記念講話)、敬虔な人格陶冶、明朗な人格陶冶、実践的人格陶冶(労作尊重心の啓培、協同性の涵養、責任遂行性の涵養、科学的鍛錬)、公民的陶冶(学校自治、少年団、各種作業)の五大目標を掲げた。また児童の日常生活の日々を起床~登校、始業前、朝会、授業時、休憩時、昼食時、放課後、下校~就寝に区分して、挨拶など訓練事項を具体的に示し実行させた(「自昭和八年佐礼谷尋常高等小学校沿革史」)。

 国体観念強調の行事

 大正一二年(一九二三)一一月の「国民精神作興ニ関スル詔書」の発布以来、市町村・学校では毎年一一月一〇日に捧読式を挙行し、以後一週間を国民精神作興週間として勤倹強調行事が実施されていた。昭和一二年(一九三七)の日中戦争勃発により時局がいよいよ深刻さを加えるに及んで、政府は一層組織的な国民運動を展開するため同一二年八月に「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定した。文部省は内務省とともに一〇月一三日(戊申詔書渙発の日)から一九日までの一週間を第一回国民精神総動員強調週間として、その実施要項を地方長官に通達した。
 本県当局はこれを市町村・各学校に伝達して強調週間の実施励行方をすすめ、各学校ではこれに応じて行事を展開した。その具体例をみると、佐礼谷尋常高等小学校では、一三日午前六時三〇分から国民精神総動員強調式を行った後、一四日を出征兵士感謝日、一五日を非常経済日、一六日を勤労報国日、一七日を銃後援護日、一八日を神社参拝日、一九日を心身鍛錬日として、運動会などの行事を繰り広げた(「佐礼谷尋常高等小学校沿革誌」)。松山市の味酒尋常小学校では、一三日に強調式行事、一四日に出征軍人慰問状発送、慰問金募集ビラ配布、出征軍人遺家族慰問、一五日に物品消費節約訓話、物品名前記入検査、国産品使用奨励、一六日に出征軍人遺家族再調査、一七日に神社参拝、一八日に神社清掃、墓所掃除、神棚清掃参拝、一九日に遠足運動を実行した。
翌一三年二月一一日(紀元節)~二月一七日の第二回国民精神総動員強調週間中、同校では、一一日の県市主催建国祭に五・六年生が参加した後、一二日には勤倹貯蓄奨励強調日として、貯金預け入れとその奨励、物資の倹約訓話及び実地指導、一三日には神社祖先崇拝強調日として、仏壇神棚清掃拝礼、墓所・神社参拝、一四日には健康増進強調日として寄生虫駆除・服薬、一五日には堅忍持久強調日として長距離走行、一六日には勤労奉仕強調日として神社寺院境内の清掃、校舎校庭学校園の大掃除を実施し、一七日の祈年祭には低学年が阿沼美神社に、高学年が朝日八幡神社に参拝した(「味酒尋常小学校沿革誌」)。
 その後、日中戦争の長期化に伴い、国民精神総動員運動による国体観念の強調と経済生活の節約方策がすすめられた。昭和一四年八月には毎月一日を興亜奉公日として出征兵士の労苦をしのび、自粛自省して実際生活に具現するとともに奉公の誠を尽くす日が設定された。県内小学校では、九月一日以後毎月一日は早起きして神社に参拝し、校長訓話や勅語捧読などの行事が一様に励行された。
 昭和一四年(一九三九)五月二二日、天皇は皇居前広場において全国から参集した青少年学徒の部隊行進を親閲し、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を発布した。これを受けて、文部大臣からは青少年学徒の奮起を促す訓令が発せられた。また学校ではこの日を記念して毎年五月二二日にこの勅語を捧読し、部隊行進・神社参拝・武道訓練などの行事を催すよう各学校長に通達した。五月二七日、本県知事古川静夫は「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語ニ関スル訓令」を県内の学校・幼稚園に発し、四囲の情勢前途予断を許さない重大な時局に備え国家の将来を継承し、皇運の隆昌に寄与すべき我が青少年学徒の負荷はますます大きいといわなければならない。教化指導の任にある者は時局下教学の振興に奮励し、皇運輔翼の大任を果たすべき健全有為な学徒を育成して聖旨に応え奉ることを期すべしと訓令した(資近代4四五七)。
 昭和一五年は紀元二六〇〇年に当たる年であったので、政府は二月一一日の紀元節に祝典、一一月一〇日に宮城前広場で奉祝式典を挙行することにした。本県当局でもこれに呼応して、二月三~八日の間に西条・今治・松山・大洲・宇和島の五か所で開催された小学校長会で、紀元二六〇〇年奉祝に関する指示を行った。その指示事項は、今年の紀元節挙式は特に心を配り荘厳に施行すること、挙式後に神社参拝を行い聖寿の万歳と国運の隆昌を祈念すること、各学校での学芸会・運動会・展覧会などを奉祝記念行事とし、植樹・造林・開墾・施設などの記念行事を実行すること、市町村その他地元団体が行う奉祝行事に協力することなどであった。
 二月一一日の紀元節には、午前九時を期してサイレンを合図に県民すべてが皇居を遥拝し、各学校では式典の後近くの神社に参拝し、各種団体共催の建国祭に参加した。一一月一〇日には、各学校で式典・神社参拝が行われ、提灯行列・神輿・旗行列・音楽行進などの祝賀行事が各地で繰り広げられた。奉祝日前後には県内各地で体育大会・音楽会・展覧会などが開催され、また年度中に記念植樹・造林・開墾地造成・奉安殿建設などが実施された。
 昭和一五年はまた教育勅語渙発五〇周年に当たるため、一〇月三〇日に記念式典が催された。文部省と帝国教育会及び愛媛県は、式典日に教育功労者の表彰を行った。愛媛県では一三〇名の教育関係者がそれぞれの表彰を受けた。昭和一七年は学制頒布七〇年に当たったので、文部省は一〇月三〇日に記念式典を挙行するよう指示した。当日天皇は文部大臣を召し「国民精神ノ発揚ト学術技芸ノ振興トニ」努力するよう沙汰されたので、大臣は訓令を発して教育者の努力を要望した。このように、あらゆる国家的行事を通じて国体観念の高揚が教育の場で実施されたのであった。
 
 義務教育費の国庫県費負担

 教員俸給を含めての小学校経費は年々増大して市町村財政を圧迫した。昭和恐慌下地方財政の逼迫の中で教員給与寄付問題などが大きな社会問題となったことは既に述べた。義務教育費の国庫補助あるいは負担が待望されて久しく、政府は昭和一一年ころから義務教育費の負担区分を根本的に改革する具体策を立案するようになった。この改革は国と地方との財政に甚大な影響を与えるものであったから容易に実現しなかったが、昭和一五年に地方財政制度が改革されたのを機に、新しい「義務教育国庫負担法」と「市町村立小学校教員ノ俸給及旅費ノ負担ニ関スル件」が制定され、義務教育学校教員の給料・旅費は国庫と道府県が半額ずつ負担することになった。この義務教育費の国庫・県費負担は、現在に至るまでそのままの形式で存続しており、この意味で、昭和一五年の義務教育費国庫負担法とそれに関連した法令の改正の意義は極めて大きかった。半面、経費負担を媒介として、国と府県との行政的管理が強化されるようにもなった。
 県当局は、従来市町村予算に縛られ適材適所の配置を妨げていた弊害がなくなる、従来町村によって相違のあった待遇の不均衡を矯正することが可能となる、市町村財源に多少の余裕ができ、設備方面に財源を振り向けることとなるといった教育上の好影響を新聞紙上で語っている。義務教育費の大部分を占める市町村立小学校教員費の昭和一五年度分が三七〇万余円(国庫補助金一八二万余円・県費負担一八八万余円)の国庫・県費で賄われた結果、若干の待遇向上と都市による格差の是正が図られた。

 国民学校と錬成教育

 昭和一六年(一九四一)三月、教育審議会の答申に基づき「国民学校令」が公布され、四月一日から小学校は国民学校という新しい看板に改められた。国民学校の目的については、同令第一条で「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」と明確に示された。国民学校の教育課程には六年の初等科と二年の高等科が置かれ、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数、理科)、体錬科(体操・武道)、芸能科(音楽・習字・図画・工作)、実業科(農業・工業・商業・水産)の教科科目の制度が採用された。義務教育年限は八か年となり、教育上多年の懸案が法文化したが、これの実施は財政その他の事情により昭和一九年度からとなっていた。その後、戦時体制の強化に伴って実施の時期は更に延期され、ついに終戦前にその実現を見ることはできなかった。国民学校は、その教育理念において国粋主義的色彩が濃厚であることと義務教育年限が二か年延長されたことを除けば、従前の小学校と根本的な相違は見られなかった。
 「国民学校令」の公布に伴い文部省は「国民学校令施行規則」を定め、国民学校に関する具体的な内容を示した。愛媛県は、国民学校令と同施行規則に従って五月一九日に「国民学校令施行細則」を定めた。同細則は全文一四七か条と附録書式からなり、国民学校の設置廃止、教科編制・設備・就学・検定及び免許状・職員進退及び懲戒処分・俸給旅費その他給与、授業料などについて規制した。
 昭和一六年四月一日、県内の小学校は国民学校と名称を変えた。
 『愛媛教育』昭和一六年六月号には、宇和島市和霊国民学校の発足時における実践記録が掲載されている。三月三一日、「学年末の整理は片づいて、愈々国民学校の開校を待つのみである。旧来の残滓を悉く払拭して起たう。新建設への開城である。大部分の職員は、この動きを含んで、今し待機の静けさの中に出勤してゐる」「この静けさを破るもの、……それは今朝来雇い入れた左官の槌の音。表門及裏通通用門にはめられたタイル張りの門標取換の工事である。五十年の歴史をこめた小学校の名が一枚々々剥がされていく。一人立ち、二人三人と佇む街頭の人々の眼に、新国民教育発足の印象を深く刻みつけて、この工事は進む。新たな歴史の象徴として、根本的の修覆である」。四月一日、「国民学校令実施の朝、興亜奉公日の神詣りは、新国民教育誕生の祝福と皇道興隆の祈誓をこめて、いと厳粛に、感慨深いものがあった。」「学校ヘ―、門標の覆ひは除かれて、朝の校門前は浄らかである。心に受けた辞令を持って、今こそ第一日の出勤」「従来の教育道から百八十度の転廻のあらう筈はない。ただ一切を整理し尽し、一切を空なる姿にまで明け渡した時、国民学校に真正な姿をもって迎へられるのであることを信じて」。同校教員は、四月三日宇和島市教育大会に参加、新年度初頭の職員会、五日新年度準備、七日入学式・始業式と新年度行事を進めた後、国民学校発足に際し教育者としての覚悟を神前に誓い皇道の興隆を祈念するために、三〇名の同志相集って和霊神社に参詣、誓詞奏上の後、神酒を戴いて国民学校発足を祝福し、神前の誓いのままに明日よりの授業にいそしむ覚悟を新たにした。
 松山市の潮見国民学校は、「皇国ニ生ヲ享ケタル光栄ヲ感佩シ、国体ニ対スル信念ヲ堅持シ、常ニ御聖訓ノ御趣旨ヲ奉体シ、以テ国民学校教育ノ本旨及其ノ方針に鑑ミ、皇国ノ道ヲ習練セシメ、質実剛健ノ気風ヲ振作シ、以テ皇国ノ負荷ニ任ズベキ国民ノ基礎的錬成ヲ期ス」ことを学校経営の基本方針とし、校訓として報恩・礼節・気魄・堅忍・和協を掲げた。教授方針は、「教授即訓練ノ根本信条ニ立チテ日本文化ノ伝承理解ト創造発展ヲ図リ、国運発展ニ貢献スルノ素地ヲ培フコトニ努メル」、訓育方針は「訓練即教育ノ根本信条ニ立チ、国体ニ対スル信念ヲ深カラシメ、至誠一貫皇運ノ扶翼ニ邁進スベキ国民的性格ノ錬成ヲ期ス」として、朝礼並びに儀式記念日行事の厳粛、神社参拝、礼の徹底、作業訓練、国策訓練、学級朝会、食事訓練などの実践を図った(「自昭和四年潮見尋常高等小学校沿革誌」)。
 国民学校発足前後から学用品や教育備品が不足し始めた。県学務部では、既に昭和一三年一〇月に学用品の節約について県内の小学校に通達し、教科書は丁寧に取り扱うこと、学習帳は記入を丁寧に無駄のないよう注意すること、下敷きはボール紙などの廃物を利用すること、鉛筆の削り方に注意すること、消しゴムはなるべく使用しないこと、練習用紙は裏表幾度も使用すること、清書は書き損じを絶対にしないよう必ず一枚で仕上げること、手工材料はなるべく色紙刷広告類・レッテル類・空箱などの廃物を利用することなど、学用品全般にわたり節約を促していた。学用品は、同一八年ごろから配給に近い状態となり、そのうえ品質が悪化した。鉛筆は木質が悪く、芯が折れやすかった。ノート・画用紙は俗にわら紙と称する再製紙で色が薄黒くざらざらして粘りのないものであった。通学服は国防色に染め変えて着用し、ズック靴は配給制となって容易に得られなくなったので、手製のわら草履をはいて登校する児童が多くなった。それでも学童たちは、「ほしがりません勝つまでは」、「兵隊さん僕らも銃後でがんばります」を合い言葉に、錬成教育と国民体操・強歩訓練などの体錬運動に耐えていった。

 師道の振粛

 満州事変以後、教学刷新の一つとして師道の振粛が教育界内外から強く叫ばれるようになった。愛媛県当局でも、師道の振粛については特別の配慮と施策を講じた。なかでも、その代表的なものが国民精神文化講習会であった。
 その第一回講習会は、昭和七年(一九三二)八月一日から一か月間、各郡市割り当てによる受講人員四〇名が参集して、師範学校で開催された。文部省の督学官小川義彰・金鶏学院安岡正篤をはじめ、中央地方の学識経験者が講師・導士となり、講習は成果を収めた。同九年の第三回講習会からは会場に松山市山越の龍穏寺が当てられ、剣道・弓道と禅修行の修錬行事を講義外に折り込んだ。指導者には東京大学教授平泉澄、『国体の本義』の著者近藤寿治らが招かれ、受講者は県下の主席訓導を中心に選抜した。
 昭和一一年(一九三六)一一月二九日、第五回講習会開講式の直後、受講者と従前の講習者が集まって愛媛県日本精神文化研究会を結成した。会長には学務部長を推挙し、「吾等会員は教育勅語の御聖旨を奉戴し、師道の確立国体観念の明徴を期し、日夜教育道に精励し、実践躬行以て聖旨に副ひ奉らんことを誓ふ」宣言を採択した。
 同研究会が急ぎ結成されたのは、教員赤化思想事件の衝撃が背景にあった。これは、一〇月三一日に喜多郡天神村立天神尋常高等小学佼の二名の訓導が赤化思想の嫌疑で内子警察署に摘発拘引された事件であった。二名の訓導は単にマルクスら革命思想家の若干の書物を購読していたに過ぎなかったが、これを機に本県では師道振粛が強調され重視されることになった。
 「海南新聞」昭和一一年一一月三日付は社説「師道の振粛」を掲げ、「これらを実践躬行せしむるためには、単に表皮一片の訓示に止まることなく各学校を通じて一貫した教育精神を確立強化し、教員の養成指導修養機関の完備を期さなければならぬ」と評した。この年の通常県会でもこの問題が大きく取り上げられ、対策の強化が要求された。県学務部は翌一二年一月二五、二六日に県下小学校長・青年学校長会を緊急に招集、県知事大場鑑次郎は四六〇名の校長に対し、「大いに師道を振粛することによりて国民教育の成果を収むるに遺憾なからんことを希望いたします」と訓示した。また県学務部長猪股博は、昭和一五年二月の『愛媛教育』巻頭言で「師道」を論じ、県下教職員の自省と奮起を促した。県内各地では、県学務部や県教育会などが主催する国民精神文化講習会・師道修錬会・錬成講習会などが頻繁に開催されるようになった。

 県教育会の銃後活動

 愛媛県教育会は昭和一二年をもって創立五〇周年を迎えた。これを記念して会員の拠金による教育会館建設が進められ、松山市北持田町の旧松山農業学校跡に壮大な四階建ての会館が完成した。一一月二二日、古川知事ら多数の来賓を迎えて愛媛県教育会館落成式及び教育会創立五〇周年記念式典が挙行された。翌二三日、この会館で第五〇回総会が開かれた。古川知事は時局下教育者の覚悟を促し、総会では「時局ニ鑑ミ教育上最モ留意スベキ具体事項如何」について審議を重ね、「我等ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉体シ愈々健全ナル国民思想ヲ振起シ、国運隆昌ノ渕源ヲ養ヒ以テ教育報国ノ誠ヲ致サンコトヲ期ス」との決議を行った。
 次いで、昭和一四年二月の第五一回総会では「時局ノ重大性ト本県教育会ノ実情ニ鑑ミタル教育者ノ覚悟」、同一五年三月の第五二回総会では「皇紀二千六百年教育勅語御下賜五十周年ヲ迎ヘ時局ノ愈々重大ヲ加ヘル時、一層聖旨ノ徹底ニ力ヲ尽ス方策如何」、同一六年三月の第五三回総会では「高度国防国家体制ノ樹立ニ対シ本県教育上特ニ留意スヘキ点如何」、「国民学校制度ノ実施ニ膺リ、特ニ教育者ノ資質向上ヲ計ル要切ナルモノアリ、其ノ対策如何」を主要議題として協議し、師道振粛を図ることを根本義とするとの決議文を採択した。
 太平洋戦争が開始された昭和一七年五月の第五四回総会では、「大東亜戦争下ニ於ケル教育者ノ決意如何」を討議して、「一、我等ハ皇国ノ歴史的大使命ヲ体認シ聖戦ノ目的完遂ニ砕励ノ誠ヲ輸サンコトヲ期ス、一、我等ハ日本的世界観ヲ確立シ率先垂範皇国ノ道ノ先達タランコトヲ期ス、一、我等ハ教育奉公ノ信念ヲ堅持シ皇国民錬成ニ全カヲ傾倒センコトヲ期ス」の決議を行った。戦前における教育会最後の総会となった昭和一八年五月の第五五回総会では、「決戦下ニ於ケル教育体制確立ノ方案如何」を協議した。その結果、「今ヤ乾坤一擲八紘為宇ノ大精神ヲ即今ニ顕現スベキノ秋ナリ、事ニ教育ノ任ニアルモノ宜シク一切ノ旧態ヲ放下シテ直ニ決戦ニ即応スベシ、一、国家非常ノ要請ニ膚接スルノ教育タルベシ、二、学校ノ強カナル一致体制ヲ実現スベシ、三、決戦必勝ノ信念ヲ護持顕現スベシ」の「決戦教育綱要」を決議、その実施事項を提示して各学校での励行を申し合わせた。

 学童の勤労奉仕

 太平洋戦争における戦局は、昭和一九年に至って決定的な段階になった。文部省は、一月に「国民学校教育ニ関スル戦時非常措置ニ関スル件」、三月に「決戦非常措置ニ基ク学徒動員実施要綱ニ依ル学校種別学徒動員基準ニ関スル件」を通達して、国民学校高等科学徒の勤労動員は土地の状況並びに心身の発達を考慮して適当な作業を選ぶことなどを指示した。その後、中等学校学徒の軍需工場動員により食糧増産などのための農業土木動員が手薄になったので、国民学校児童と青年学校生徒でこれを補充することが必要となった。文部省は、八月に「国民学校児童並ニ青年学校生徒ノ勤労協力ニ関スル件」の通牒を発した。これにより、国民学校初等科児童も勤労に動員できることになり、高等科児童の勤労は学徒勤労令を適用して学校少年団の隊組織をもって学校報国隊とみなして実施する、青年学校は大日本青少年団の隊組織で行うことにした。
 本県では、昭和一八年(一九四三)七月に「食糧増産応急対策実施ニ伴フ青少年学徒動員ニ関スル件」などによって、農村地域における国民学校高等科・初等科高学年児童については、地元の要請を考慮して必要に応じ農繁期授業停止を延長すること、各学校では既設の農場及び活用の可能な校庭・学校園などを利用して食糧の増産を行うこと、また、努めて付近の伐木跡地・河川敷・荒地などの休閑地・不耕作地を活用して報国農場を設置し、雑穀の作付けを行うことなどを指示していた(資近代4八六七~八六九)。
 昭和一九年には、食糧窮迫に伴い食糧増産に関する通牒が数多く出された。すなわち、三月に野草食用化のための「わらびヲ採ラウ、蕗送ラウ運動実施ノ件」、学童をして麦の肥培管理の徹底と甘藷の育苗完遂、落葉収集その他自家肥料増産などに挺身させるための「食糧増産ニ関スル学徒動員ニ関スル件」、五月に食糧自給確保のための「空地利用奨励ニ関スル件」、「農作業適期完遂運動実施ニ関スル件」、六月に「空地利用ニ伴フ報国農場経営ニ関スル件」、九月に飼料自給増産確保の緊要性による「樹葉ノ飼料化運動ニ関スル件」、一〇月に軍需用菜種油の需要増大による「菜種緊急増産報国栽培実施ニ関スル件」、一二月に松根の徹底的採掘を行い、簡易な乾溜方法による松根油の飛躍的増産を図るための「松根油等緊急増産実施上学徒非農家等動員ニ関スル件」、「冬山木材非常増産並ニ供出貫徹運動実施ニ関スル件」などが相次いで通達された。これらの通牒には、それぞれ要綱ないし計画が詳細に示されて、国民学校学童の広範囲な活用を促した(資近代4八八一~九〇一)。
 昭和二〇年には、食糧事情がますますの逼迫の度を加えた。県は三月一四日に「野草ノ食糧化並ニ蛋白質脂肪食品ノ自給対策等ニ関スル件」を発し、ヨメナ・ヨモギ・ツワブキ・ツクシ・イタドリ・セリ・ワラビ・ゼンマイなどの野草を食糧化するよう奨励すること、市街地の国民学校児童に郊外の野草を採取させ、各自家庭で食用化するよう指導すること、農山村の国民学校児童に野草を採取させ、農業会を通じて出荷させること、学校でコイ・アヒル・ウサギなどの飼育を奨励すること、学童にイナゴ・タニシなどを取らせ蛋白資源の確保に努めることなどを指示した。三月一六日には「校内休閑地等活用ニ依ル食糧増産ニ関スル件」を出し、学校既設の農場・校舎間の空地、学校園などを全面的に活用して、甘藷・大豆などの増産を要求した(資近代4九〇六~九〇七)。
 これらの通達を受けて、県内国民学校、殊に農山村の学校では、食糧・肥料・木炭増産などの勤労に奉仕した。伊予郡の広田国民学校学童の勤労奉仕の例を挙げると、昭和一九年(一九四四)四月二二日午後高等科勤労奉仕、二七日蕨採集遠足、五月四日高等科男女による運動場開墾、一八日午後高等科砂運び、六月一日初六(初等科六年)以上山草刈り、二日高等科児童木材搬出、三日高等科男子山畑開墾作業と甘藷植付け、五日初六以上山畑開墾勤労作業、六・七日高等科児童麦刈り奉仕、八~一二日農繁休業、一四日決戦畑甘藷の植付け、一五日初五以上桑の剥皮、一六~二〇日農繁休業、二三日初六以上田植え作業、二五日高等科田植え作業、二八日高等科決戦畑甘藷植付けと大豆蒔、七月三日高等科男子木炭運搬、女子大豆蒔と甘藷植付け、一二日高二木炭搬出、二五日初三以上山草刈り、二九日高等科決戦畑の除草、初三以上薪搬出、八月二日高等科草刈り、三日初三以上決戦畑の手入れ、四、五日苧麻採集、一〇日薪搬出、一〇月三一日高等科稲刈り作業開始、一一月一日甘藷供出、四日高等科麦田打ちと大豆引き作業、一三・一四日高等科麦播種作業、一五日高等科稲こぎ、一六~二〇日農繁休業、二八日初六以上木炭搬出、一二月八日高等科薪搬出、昭和二〇年一月九日初六以上木炭搬出、一一日高等科木炭搬出、二六日高等科木炭搬出、三一日高等科木炭材運搬、三月八日初六以上薪搬出、一二日初五以上薪搬出、二三日高等科杉材木炭搬出、二四日初五以上木炭搬出、二六日高等科木炭搬出、二七日初五以上薪搬出と、終戦時まで厳しい勤労作業が続けられた(昭和一九年起「広田国民学校沿革誌」)。
 市部の国民学校学童の勤労作業について見ると、旧市内の高等科児童を収容する松山国民学校では、食糧増産のため運動場の農地化を図るかたわら衣山に学校農場を設けて甘藷・大豆植付けに学童を動員した。また城山の薪搬出、官庁街周辺民家の取り払い、市役所地下室の建設、久米滑空路の整地、湯山での防空資材伐り出し、東洋レーヨン松前工場での糸つむぎ労働、松前塩田づくり、七月上旬の田植え奉仕などに、周辺国民学校高等科学童や青年学校生徒とともに出動した。
 こうして昭和一九、二〇年の戦時下になると、国民学校上級生は、しばしば勤労作業に動員されて勉学に励むことができなくなった。県当局は、同一九年四月に内政部長通牒で国民学校初等科五年以上の児童を隔週日曜日に登校させて補充授業を行うよう指示したが、これも実際は勤労作業に充てられることが多かった。下級生は、毎日戦勝祈願の拝礼の後、授業が続けられた。しかし、中堅男子教員が応召で学校を去り、運動場が畑に変わり、教室には砂袋・火タタキ、水槽の防火用具が備えられ、教科書など学用品が揃わない状況では、教育をする環境は失われていた。その上、戦勝祈願・英霊出迎え行事や繰り返し実施される防空演習・退避訓練などがしばしば授業を中断させた。この中にあって学童は、着古した国防服・モンペに身を固めて元気よく登校し、ひたすら皇軍の勝利を信じて、不自由な学校生活に堪えたのであった。

 学童疎開と分散授業

 昭和一九年の中ごろから米機の本土空襲が激化した。このため、一般疎開のほかに学童の疎開を強行することが緊急事となり、六月三〇日に国民学校初等科児童の疎開を促進する要綱・要領が定められた。学童の疎開は縁故疎開を原則とするが、縁故疎開が困難な場合は集団疎開を実施することにしており、集団疎開させる学童の範囲は国民学校初等科三年以上六年までとされた。これに基づき、同年八月の東京都板橋区児童を最初に、九月にかけて東京都区・横浜市・川崎市・横須賀市・名古屋市・大阪市・神戸市・尼崎市の児童約三五万人が、三四都府県の旅館・寺院・集会所など七、〇〇〇余か所へ集団疎開した。
 愛媛県には、大阪市此花区内の国民学校児童が集団疎開した。九月一五日、同区内の朝日・連法・高見・島屋・春日出・桜島・田貫島など一二の国民学校児童四、五、六年生二、六〇〇人は臨時列車で本県入りし、それぞれ割り当てられた宿舎・国民学校の所在駅に降り立ち、受け入れ国民学校児童や婦人会の出迎えを受けた(『愛媛県教育史』第二巻八八五~八八七参照)。田貫島国民学校四、五年生は温泉郡河野公民館に収容され、河野国民学校を借りて勉学した。河野村に来てから一三日目の九月二七日、同校児童四二名は綴方の時間に疎開生活を綴った。作文では、地元の児童やお母さんたちが盛大に迎えてくれてうれしかったこと、重い荷物を運んでくれたこと、既に大阪では口に入りにくくなった甘藷を馳走されたことなど、地元民の親切に感謝の気持を表している。美しい風景と新鮮な空気の中で勉学と体錬に励んでいることや、海山で遊び、芋掘り・運動会の催しには率直な喜びを示し、「このやうに心配して下さる人々の心に感謝し、米英に勝つまではさびしくとも帰らないつもりです」「體を強くして、お父さんお母さんを安心させたいと思います。この大東亜戦争の勝つまではがんばります」とけなげに誓っている(疎開児童文集「河野村へ来てから」)。
 伊予郡郡中に配置された島屋国民学校四~六年生と桜島国民学校六年生は、彩浜館・米湊集会所・栄養寺・常願寺などに分宿し、郡中旭・東国民学校などの教室を借りて勉強したが、到着当日はのぼりや旗で出迎えられ、一人ずつの食膳と花型ようかんでもてなされた。その後も婦人会から魚・野菜・もちなどの差し入れを受け、道後温泉・城山に遠足するなど比較的恵まれた日々を送っている。しかし一〇歳前後の児童が、親元を離れて暮らすことの苦痛は大きく、夕闇せまるころ、走り去る上り列車をじっと見送る姿に淋しさがあふれ、夜ともなれば親を慕うて泣き出す子も少なくなかった(大阪島屋小学校「集団疎開のようす」)。
 昭和二〇年(一九四五)三月、疎開学童中六年生九一〇人は、地元中等学校の受け入れ態勢が整わないので大阪に引き揚げ、愛媛県に残留する児童は一、六九八人となった。松山市にとどまった高見国民学校四、五年生約一五〇人は、来迎寺・弘願寺・長建寺など城北寺町の寺院を宿舎とし、清水国民学校の四教室を借りて勉強していた。しかし三月以降、松山市街はしばしば空襲を受けることになり、児童に危険が迫ってきたので、引率教員は他の再疎開先を求めて県と交渉した。その間、久米国民学校に間借りしていた朝日国民学校五、六年生三七人の児童は、五月に温泉郡三内村に移っていった。高見校は適当な受け入れ場所がないままに七月二六日の大空襲の夜を迎え、疎開児童は身一つで潮見国民学校に逃れた。潮見でしばらく滞留の後太山寺に移り、疎開当初からここに収容されていた春日国民学校児童とともに、数か月の耐乏生活を忍んだ。
 松山市では、米機の標的になりやすい学校から児童の生命を守るためと国民学校校舎を軍の使用に明け渡す必要から、昭和二〇年五月に「松山市国民学校疎開ニ関スル件」を市内国民学校長に通達した。これには、初等科低学年は地域別に学級を編成し、学校に遠距離の者は公会堂・寺院その他をもって臨時に教室に充てる、学級は単式を本体とするが、やむを得ない場合は二学年の複式を認める、教室の関係で二部授業を行う場合は午前午後の二部とする、垣生・生石両校は吉田浜海軍基地に近い所に位置していて最も危険であったので、初等科の縁故疎開を勧奨し残った児童は太山寺町へ集団疎開を行う、松山国民・番町・梅田の三校は現状のままとするといったことを明らかにし、市内国民学校は右の三校を除いて、五月中に疎開教室を新設して順次分散授業を行うよう指示された。この結果、市内の国民学校では校区内の寺院・神社・公会堂などを物色して疎開教室を定め、通学区域ごとに学級編成替えを行った(『愛媛県教育史』第二巻八九五~九〇〇参照)。桑原国民学校は、東野・正円寺・樽味地区の通学児童を正円寺会堂・東野二丁目会堂・東山神社・東野一丁目会堂・山神社、桑原・畑寺・三町・松末・束本地区の通学児童を畑寺会堂・三島神社・八幡神社・三町会堂・繁多寺の疎開教室にそれぞれ学年ごとに振り分け、五月一九日から分散授業を開始した。他校でも久枝校が二一日、素鵞校が二二日といったように、五月下旬に相次いで教室疎開・分散授業を開始した。また、道後国民学校の裏山に特設防空壕を設けて七月二三日に市役所・市内各学校の御真影を壕内の金庫に安置した。番町国民学校は、既に昭和一九年よりの縁故疎開児童が七〇〇余人に及び、同二〇年七月時登校児童はわずか二八〇余人に減っていたので、先の教室疎開通牒では除外されていた。しかし集団疎開を望む保護者の要望が次第に強くなり、学校長は学校単独で集団疎開を実施することに踏み切った。七月八日に児童は疎開先に出発し、六年生とその弟妹七〇人が温泉郡五明村公会堂、三、四年生とその兄姉五年生が伊台村青年会堂、五年生二〇人が松山市堀江大栗会堂にそれぞれ落ち着いた(中原成人「昭和二十年戦災日誌」)。