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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

五 産業報国運動と労務動員

 産業報国会の結成

 日中戦争の長期化に伴い、国家総力戦体制の確立が急がれることとなった。その一環として、昭和一三年七月、中央に産業報国連盟が結成され、「国体の本義」に基づく「産業報国」「労資一体」を指導理念として、産業報国運動を推進した。同連盟は、昭和一五年の近衛新体制下で大日本産業報国会が結成されると、これに吸収された。このほか、中央と各企業産業報国会をつなぐ組織として道府県産業報国会が設置され、更にその下には警察署管区を単位とする産業報国会支部が置かれた。
 愛媛県では、既に昭和一三年(一九三八)八月ころから、警察署の指導のもとに宇摩郡の製紙業界や三津浜署管内の工場において産業報国会結成の動きがみられた。一四年四月、厚生省、内務省よりの通達を受けて、県工場課及び各警察署は、県内企業に対して産業報国会結成への本格的指導斡旋に乗り出した。そして、県工場課がかねてから結成を奨励してきた労務者銃後生活刷新班が、同年八月現在で四三六にのぼり、その中で一一二班は産業報国会として活動中であった。残り三二四班はすべて小工場で個別に産業報国会を結成することが困難なため、これらを統合して産業報国会を結成することを計画していた。また、今治署管内では、既に阿部会社、東洋紡績今治工場、国光紡績今治工場、片倉製糸工場が産業報国会を結成していたが、同年一一月に入って、タオル、綿織物工場、石灰採掘場など一八九工場で産業報国会が結成され、一二月中旬までには管内全工場が結成を終わる予定であった。こうした中で、今治署は、同年一二月九日、管内の産業報国会支部創立の準備委員会を開催したが、当日までに二三〇工場、労働者八、〇〇〇名が産業報国会を結成していた。松山市では、松山工友会を組織して事業主側と対立しがちであった市内の箪笥職人が、昭和一五年(一九四〇)一月一七日、松山署の指導のもとに松山箪笥産業報国会を結成した。
 このような、県内各地における活発な産業報国運動の展開のもとに、同年四月一二日、松山市庁ホールにおいて愛媛県産業報国連合会が設立された。この当時の県下における産業報国会は三五五、所属会員は五万七、〇〇○余名に達した(「海南新聞」昭和一五・四・一三付)。愛媛県産業報国連合会は、前述のごとく中央で大日本産業報国会が結成されると、それを受けて、昭和一六年一月二七日、愛媛県産業報国会と改められた。同年一一月末現在での県内産業報国会数は四七七、会員は七万二、八五九名であった。このように、産業報国会が県内の主要な工場、鉱山、事業場を網羅して活動を進める中で、一六年七月の富士瓦斯紡績壬生川工場にみられるような、産報活動の中核となる産業報国青年隊の結成も進められた。その状況は、昭和一七年六月末現在、男子産報青年隊二七隊、七、九六二名、女子産報青年隊二八隊、六、八六八名であった(『愛媛県警察史』)。

 労務報国会の結成

 産業報国会の結成に続き、政府は、昭和一七年九月、日雇い労働者を対象とした労務報国会を各府県ごとに設立することを命じた。これは戦時下における生産確保のため、賃金の抑制と労働力の円滑、効率的な運用を目指したものであった。県内では、同年一一月五日、全国初の組織として、住友各社下請関係業者と労働者によって新居浜地方労務報国会が結成された。
 翌一八年一月二五日、愛媛県労務報国会及び同松山西支部が結成され、以後県労政課、各警察署の指導のもとに、県内での労務報国会結成が本格的に推進されることとなった。その結果、同年一月三〇日温泉郡荏原村森林組合労務報国会、二月一一日県労務報国会八幡浜支部、二月二二日同周桑支部、三月一三日同西条支部、七月一二日上浮穴郡田渡村労務報国会など、県内各地に相次いで労務報国会の結成がみられた。

 労務統制の強化

 戦争の拡大、長期化に伴う徴兵の強化、軍需産業部門での労働力需要の急増により、労働力の不足が深刻化し、政府は、昭和一三年の「国家総動員法」に基づく委任立法により、労働力の統制と動員を強化していった。特に、昭和一四年に出された「国民職業能力申告令」及び「国民徴用令」は、軍需産業部門での労働力確保に大きな役割を果たした。すなわち、これらの法律により、一六~五〇歳の男子(後に一二~六〇歳男子、一二~四○歳未婚女子に拡大)に職業能力申告を義務付け、それに基づいて、国民を重要産業部門に徴用して強制就労させる体制がとられることとなった。
 愛媛県では、同年八月五日、大陸に送る建築技術者として最初の徴用者が県会議事堂に集められた。昭和一八年七月現在の愛媛県内における登録者は技能者六万一、九五三名、未経験労務者七万五、八〇九名、当時までの徴用命令数七一件、配属場所四四か所、徴用人員一万八四八名であった(資近代4六二九)。
 徴用には、政府の強制によって重要産業へ動員される新規徴用と、事業ぐるみ業務に釘付けされる現員徴用があった。このうち、労務動員の中心は新規徴用で、多くの人々が、「白紙召集」と呼ばれた徴用令状によって、家族と引き離された労働生活を余儀なくされた。その数は、昭和一九年三月現在、全国で新規徴用、現員徴用合わせて約二八八万人にのぼり、それは当時の一般労働力の二〇%を占めていた。

 勤労奉仕

 戦争の拡大、激化とともに、労働力の不足はますます深刻化してきた。そのため、国民皆働の方針のもとに、若年労働力や女子労働力を含んだ労働力を根こそぎに動員しようとする総力戦体制が推進された。既に昭和一六年(一九四一)ころから、自然発生的に勤労報国隊が結成されていたが、政府は、同年一一月、「国民勤労報国協力令」を公布し、男子一四~四〇歳(後に四九歳)、未婚女子一四~二五歳に対して、勤労報国隊による勤労奉仕を義務付けた。
 愛媛県では、昭和一六年ころから、各種組織による勤労奉仕活動が活発化し、一七年における県下の勤労報国隊結成人員は四、〇〇〇名(延べ一二万二一名)、そのうち県外出勤一、七四七名(延べ七万八〇名)、女子延べ二万二、〇六〇名であった(「愛媛合同新聞」昭和一八・二・二四付)。
 県では、一八年九月三日、「愛媛県勤労報国隊整備要綱」を制定し、その充実を図る措置がとられた(資近代4六四三~六四八)。同要綱は、各種団体、職場、地域を基盤とする勤労報国隊の整備、充実を図り、統一的、総合的な動員を実施することによって、勤労奉仕の効率向上を目指したもので、大政翼賛会県支部に置かれた勤労報国隊指導本部、市・郡単位に置かれていた同支部の指導のもとに、知事の決定する勤労報国隊需給計画に従って報国隊の活動が進められた。隊員の年齢は、男子一四歳以上五〇歳未満、女子一四歳以上二五歳未満の未婚者と定められていたが、一九年四月二二日、男子年齢が五五歳まで引き上げられた。
 一方、総力戦の強化は、家庭にあった女子をも労働力として職場に駆り出すことになった。政府は昭和一八年九月、「労働調整令」(昭和一六年一二月公布)を改正し、事務補助者、電話交換手、出改札係など一七業種に四〇歳未満の男子が就業することを禁止し、不足する男子労働力を補うものとして、女子労働力の動員体制をすすめた。またこれと同時に女子の勤労動員も強化され、二五歳未満の女子は勤労挺身隊に編成されることになった。
 このような中で、同年一月、大日本婦人会愛媛支部は、会員約三二万名を動員して、遊休階級家庭の労働可能な女子を調査し、職業指導所との連絡のもとに、女子の動員体制の強化を図った。また翌一九年八月には「女子挺身勤労令」が公布され、地域ごとに女子挺身隊が結成されて、軍需工場などに動員された。西条勤労動員署は、二〇年一月管下の有閑男女を一斉調査し、そのうち女子については女子挺身隊を結成させた。
 以上のような体制のもとに進められた県内の勤労動員は、食糧増産、造林、木炭増産、軍人遺家族援助、鉱工業増産など多岐にわたるが、その主要なものは、農村への動員、新居浜の住友各社への動員、別子銅山及び北九州地方の炭坑への動員であった。表4―23~26はその概略を示したものである。
 なお一般県民以外に、昭和一六年以降、学徒勤労動員が広範に展開されたが、このことについては本章第三節に詳述している(学童の勤労奉仕、集団勤労作業と学徒動員の項参照)。
 こうして、女子や若年者を含む労働力の総動員体制がとられた。更に、二〇年(一九四五)三月、政府は、従来の「国民徴用令」、「国民勤労報国協力令」、「女子挺身勤労令」など労務動員関係の五法令を廃止統合して、新たに「国民勤労動員令」を出した。同令によって、本土決戦体制にむけた強制労働体制は強化され、国民皆働、総員勤労配置を目指す根こそぎ動員体制が完成した。
 なお、昭和二〇年二月一三日から同月一八日までの「愛媛新聞」には、県知事雪澤千代治の委嘱を受けて、挙県航空機増産突撃運動下にある県内の工場や鉱山を査察した新聞記者団の「工場査察記」が掲載されている。そこには、県下多くの工場で女性が「産業戦士」として深夜作業に挑み、在郷軍人が「生産特攻隊員」として身命をなげうって生産に励む有り様が記されている。しかし、「予定量なし遂げし夜の残り夜を 防空壕に藁かぶりねる」(松山市の工場で勤労奉仕中の女子挺身隊員作の歌)の歌を示し、強権的な労働政策の下で、疲れきった工員たちに、やすらぎを与える努力をすべきだとの論調で記事を書いた記者もいた。

表4-23 別子銅山に入坑の勤労報国隊

表4-23 別子銅山に入坑の勤労報国隊


表4-24 炭鉱に入坑の勤労報国隊

表4-24 炭鉱に入坑の勤労報国隊


表4-25 工場への勤労動員

表4-25 工場への勤労動員


表4-26 食糧増産への勤労動員

表4-26 食糧増産への勤労動員