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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 戦時下の交通運輸と電力統制

 伊予鉄道の再出発

 昭和一七年(一九四二)に四国配電会社(本項四国配電の誕生参照)が設立されたので、伊予鉄道電気会社は電気部門を切り離して、五〇年前の「伊豫鉄道」に帰って、再出発することになった。翌一八年八月に、伊予鉄道㈱(伊予鉄)は三共自動車㈱と合併し、バス・自動車部門に進出した。
 同一六年一二月に勃発した太平洋戦争が進展するなかで、物資はますます困窮化するに至り、敗戦の形相を呈するようになった。同一九年一一月に伊予鉄では、政府の「金属類決戦回収要項」に基づいて、複線の高浜線を単線化し、その撤去したレールを予讃線の未開通部分である八幡浜―卯之町間の線路に充当するよう指令を受けた。
 昭和二〇年七月二六日夜、豊後水道から侵入したB29六〇機は、松山市内に焼夷弾の雨を降らせた。市の中心部はほとんど焼失し、伊予鉄では本社屋を含む松山市駅をはじめ、市内の三駅、機関車庫・電車庫・客車庫を失った。鉄道線の車輛ではボギー電車一輛・客車九輛・貨車一六輛を、軌道線では電車九輛を失ったほか、電線の垂下、軌道の曲損、家屋の瓦礫による線路の埋没などの甚大な被害を受けた。

 国鉄予讃線の全通

 高松―宇和島間の国鉄予讃本線の全通は、国策上からも実現が要請されながら、レールなど資材不足で進捗しなかった。昭和一六年七月に至り卯之町(現宇和町)―宇和島間がようやく開通した。しかし途中の八幡浜―卯之町間の工事が遅れていたので、蒸気機関車・客車を吉田港に陸揚げして線路上に搭載し、卯之町―宇和島間を先に運行させた。
 やがて太平洋戦争に突入したため、未開通区間の八幡浜―卯之町間の建設工事は、資財窮迫で一層困難を極め、伊予鉄道から供出したレールを敷設するなどして、ようやく同二〇年六月に開通した。これによって、予讃本線が全通するに至った。国鉄が愛媛県に入ってから、南予の宇和島に達するまで、およそ三〇年の歳月を要したことになる。しかし、太平洋戦争におけるアメリカ軍の空襲によって、今治・宇和島・松山の駅舎が焼失したばかりでなく、車輛・施設などに甚大な被害があり、その復旧は容易ではなかった。

 バス会社の統合

 昭和一〇年(一九三五)、運輸業に対する国家の統制方針に従い、県下のバス営業は中予・東予・南予の地区に大別され、会社の合併・統合が進められ、各社の路線について調整・譲渡がなされた。そのため三共自動車は大洲以南の営業権を宇和島自動車に譲渡した。同一三年五月以後は日中戦争が進展するのに伴ない、ガソリンの使用制限が次第に強化されたので、会社はその影響を受けて運転系統を整理し、重要路線を除いて営業を休止するようになった。やがてガソリンに代わって木炭爐を装置した、いわゆる木炭自動車への切り替えが行われた。この木炭車は故障が多く、傾斜の急な坂道を登りきれない場合も少なくなかった。更に戦争が苛烈となるに従い、男子従業員は応召を受け、各社はその補充に苦しみ、完全なバス営業はできなくなった。
 この間、同一二年以降伊予鉄電が出資していた三共自動車が、同一九年一月に正式に同社に合併せられ、伊予鉄道は自動車部を設置して、その営業を継承した。宇和自動車では、同一八年に八幡浜―三瓶―卯之町線を経営していた三瓶自動車、八幡浜市営バス・四国自動車(宇和島―大宿間を営業)などを買収して路線の統轄を行った。東予地域では、新居浜に本社があり、新居浜市内及び付近の路線を運転した日新自動車、湯谷口―壬生川間を営業した周桑自動車、今治市営バスのほかに、今治・文化・常盤・昭和の四自動車などを合併して、瀬戸内運輸㈱が同地域の営業を統一した。
 そのため、昭和一八年(一九四三)までに中予地区は三共(のち伊予鉄道)に、東予地区は瀬戸内運輸に、南予地区は宇和島自動車に分担、経営されることになった。次に昭和一八年ころまでに三社及び省営バス(後の国鉄バス、現在のJR四国バス)が営業していた重要な路線を掲げておこう。

  伊予鉄道バス
   砥部線(松山―森松―原町―砥部) 丹波線(松山―森松―出ロ―丹波) 小田線(松山―砥部―千里口―万年―小田) 内子線(松山―郡中―中山―内子) 河中線(松山―石手―湯之元―河中) 磯崎線(長浜―磯崎) 川之石線(八幡浜―喜木―川之石) 立岩線(松山―堀江―北条―立岩) 鯛崎線(松山―鯛崎―吉田) 面河線(久万―御三戸―仕七川―面河) 小田落合線(小田―落合) 堀江線(松山―和気―堀江) 湯谷口線(松山―川上―湯谷口)
  瀬戸内運輸バス
   桜井線(今治―桜井) 小部線(今治―波止浜―小部) 大井線(今治―乃万―大井) 朝倉線(今治―下朝倉―上朝倉) 鈍川線(今治―長谷―鈍川) 湯谷口線(小松―湯谷口) 壬生川線(小松―湯谷口―壬生川) 新居浜線(西条―中萩―新居浜) 端出場線(新居浜病院前―新居浜駅―端出場) 川之江誓松線(川之江―三島―誓松)
  宇和島自動車
   宿毛線(宇和島―岩松―平城―城辺―宿毛) 御槙線(宇和島―岩松―清重―御槙) 大洲卯之町線(大洲―東多田―卯之町) 八幡浜三瓶線(八幡浜―布喜川―三瓶) 卯之町三瓶線(卯之町―山田―三瓶) 卯之町宇和島線(卯之町―俵津―立間―吉田―宇和島)
  省営バス
    予土本線(松山―森松―久万―落出―佐川―高知) 南予本線(大洲―坂石―魚成―日吉―出目―宇和島) 川池本線(川之江―金田―椿堂―徳島県池田) 三島線(川之江―上分―松柏―三島) 卯之町線(坂石―野村―卯之町) 小田町線(大洲―内子―参川口)


 汽船会社の統合

 同一六年(一九四一)一二月に太平洋戦争が勃発してから、政府は海運界の統制を強化して、主要な内海航路を経営する業者の統合を企てた。大阪商船を中心として、宇和島運輸・住友鉱業(新居浜―四阪島―尾道間と新居浜―大阪間を経営)・尼崎汽船(阪神―瀬戸内―九州間の貨物船を運営)の外三社が合併し、同一七年五月に関西汽船㈱が設立され、内海航路四三線を経営した。
 これより先、三月に、海運統制を強化するため、戦時海運管理令が実施された。それに基づき国家の統制機関である船舶運営会がつくられ、小型船舶以外は全部徴用された形となった。従って、船舶は運航実務者であった汽船会社によって運航されるけれども、内海航路の主要なものは、船舶運営会の監督・指導のもとにあった。またそれ以外の小型船舶も、各地域ごとに統合された。瀬戸内商船の例を見ると、同年に広島湾汽船会の創立に汽船八隻を、翌一八年に東海汽船に五隻を現物出資した。更に終戦の直前の同二〇年六月に広島湾汽船・東海汽船が合同して、瀬戸内海汽船㈱が設立された。
 戦局が次第に苛烈になるに従い、軍に徴用される船舶もその数を増したばかりでなく、連合軍の攻撃が激化するとともに、内海の小船舶さえその被害を受ける有り様であった。そのため、定期航路も便数を減じたり、休止するものが多くなった。殊に同一九年になると、その傾向はますます甚だしくなり、定期船の発着すら予測できない状況で、各港では乗船客がいつ出航するか分からない船を待ちあぐんで、むなしく引き返す姿が見られた。昭和一六年ころの県下の主要航路と寄港地は表4―22の通りである。
 なおこれらのほかに、今治港を中心とした越智郡島しょ部及び広島県因島・尾道などに至る各種の航路、宇和島港を起点とした各種の沿岸航路、あるいは戸島・日振島などを結ぶ航路があった。

 四国配電の誕生

 昭和一一年(一九三六)六月、政府は電力国家管理法案を発表した。同法案は、電力を広域的かつ効果的に発送配電して、軍需工場への送電や食糧増加のために農事電化を拡大することを目的としていた。この法案は電力界の強烈な反対と内閣の瓦解で廃案となったが、同一三年三月第一次近衛内閣により多少の修正を加えて「電力管理法」が成立した。この法律に基づき翌一四年四月日本発送電会社が設立され、本県の伊予鉄道電気会社は第一面河・第三面河発電所と今治火力発電所及び丹原変電所・送電線などを出資した。
 次いで昭和一六年八月には「配電統制令」が勅令で公布された。これは、全国を八ブロックに分割し、各ブロックごとに新たに配電㈱を設置して、それに地域内のすべての電気事業を統合するというものであった。これにより全国四〇〇余の電気事業の統合が進められたが、当初の八ブロック案は、北陸地区の要望をいれて九ブロックに変更された。
 四国地方では、高知県営電気・伊予鉄電・東邦電力(徳島)・土佐電気・四国水力(香川)の五電気事業者が関係政府機関と折衝を重ねた末、昭和一七年四月一日に四国配電㈱が創立された。本店の位置については、容易に各委員間の意見の一致を見なかったが、広島逓信局長の決定により最終的には日本発送電四国支店の所在地である新居浜市に決定した。同市は住友系の本拠地で最大の電力消費地であるとともに五電気事業社からみてほぼ等距離であることも本店指定の要因となった。しかし二年後の昭和一九年には、四国軍需監理部が松山に置かれた関係で本店を松山市に移した。一方、一般の電力消費も、昭和一五年二月の「電力調整令」に基づいて厳しい規制を受け、軍需生産第一主義や防空上の灯火管制などで抑制の一途をたどった。

表4-22 県下の主要航路と寄港地

表4-22 県下の主要航路と寄港地