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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 戦時経済統制の強化

 経済統制の強化

 世界恐慌期から満州事変期において、徐々に進められてきた我が国の経済統制は、昭和一二年(一九三七)七月の日中戦争勃発以後、質的にも量的にも大きな転換を遂げた。そして、戦争が長期戦の様相を呈する中で、それは、国民生活のすべてを戦争のために動員する体制を作り上げていった。いわば、準戦時体制から戦時体制への急激な転換が進められたといえる。
 昭和一二年九月、「軍需工業動員法の適用に関する法律」、「輸出入品等に関する臨時措置に関する法律」(輸出入品等臨時措置法)、「臨時資金調整法」が公布された。これは、軍需工場の管理、不要不急物資の輸入制限及びそれに伴う国内物資の統制、軍需産業、時局産業への資金集中などを意図したもので、日中戦争勃発後約二か月を経た段階での、本格的な戦時統制の始まりを示すものであった。
 その後、戦争が長期化するに伴って、軍部は、国家総力戦体制を実現するため、国民生活全体を戦時体制の中に包み込むことができるような、より強力な統制法の必要を考えるようになった。そして、昭和一二年一〇月に設置された企画院のもとでその構想立案が進められ、翌一三年四月、「国家総動員法」が公布された。同法は、文字通り、戦争遂行のため国家の総力を結集することをねらいとしたもので、国民経済及び国民生活のすべてを政府の統制下におくことを規定していた。しかも、同法は、具体的統制を、議会の議決を必要としない勅令によって実施に移すことになっており、翌一四年以降、同法に基づく各種勅令がせきを切ったように乱発されるようになった。こうして、統制は社会の隅々まで、国民の日常生活の細部にまで行きわたるに至った。
 中央での統制強化が進められる中で、愛媛県においても、それへの対応が急がれた。県では、昭和一三年七月一日、戦時経済統制に当たる中心組織として、「愛媛県戦時経済統制即応部」の設置を決定した。「愛媛県戦時経済統制即応部規程」(資近代4三八〇)によると、同即応部は、知事の命のもとに、(1)物資の統制に関する事項 (2)物価騰貴抑制に関する事項 (3)物資統制に伴う救済及び指導に関する事項 (4)物資統制並びに物価騰貴抑制の監察及び取締りに関する事項 (5)物資統制に伴う商工業者及び一般民心の動向に関する情報事項を処理する機関であり、(1)~(3)は経済部長、(4)・(5)は警察部長が統轄した。
 更に、戦時統制への県当局の対応策と並行して、挙県一致の戦争協力体制を樹立するための時局懇談会が組織された。同懇談会は、古川知事を会長に、県及び歩兵第22連隊幹部・県政・財界中心人物を委員とし、県主導のもとに、長期戦への県民全体としての取り組みを協議するものであった。第一回会合は、同年七月二七日に開催され、県民には時局認識を徹底させる方策、国民精神総動員運動、国民貯蓄運動、県の戦時財政の運用、戦時経済統制、銃後軍事援護施設などについての話し合いがもたれた(「伊予新報」昭和一三・七・二二、同二八付)。
 また、昭和一四年(一九三九)二月三日、「愛媛県農山漁村経済更生委員会規程」及び「産業督励部規程」が改正された(資近代4四一一~四一二)。農山漁村経済更生委員会は、昭和恐慌下の不況打開を目指して展開された農山漁村経済更生運動(自力更生運動)の推進機関として、中央・地方に設置されたもので、「愛媛県農山漁村経済更生委員会」は、昭和七年一一月に発足した。昭和一四年改正の同委員会規程では、知事の諮問に応じて調査審議し、計画や実行を指導督励すべき事項として、従来からの農山漁村経済更生に関することの外に、(1)時局に伴う重要農林水産物の生産計画、(2)農林水産業のための物資配給及び労力の需給調整、(3)その他農山漁村時局対策に関することが新しく付け加えられた。また、この改正に伴って、産業督励部(昭和一二年九月発足)は、同委員会が決定した方針に従って時局下産業経済を指導督励する機関として位置付けられた。そして、その職務は、経済更生委員会と同じく、従来からの経済更生に関する事項のほかに、販売購買の統制、重要資材の配給統制、農林漁業労力の需給調整に関する事項が加えられた。農山漁村経済更生委員会、産業督励部ともに、この改正によって、従来の農山漁村経済更生を目的とするものから、時局に対応して戦時下農政を担う機関へと、性格が大きく転換したことを読み取ることができる。
 この後も、諸物資に対する政府の統制が強化されるのに伴って、県もそれに対応して具体的な取り組みを進め、県民生活の上には、戦時統制が網の目のように張り巡らされるに至った。そのような状況の中で、昭和一九年九月、「愛媛県戦力増強本部」が設置され、総力戦に向かっての体制の強化が図られることになった。「愛媛県戦力増強本部設置規程」(資近代4六七三)によると、同本部は、知事を本部長とし、県民の戦時生活指導、食糧増産、木材・薪炭増産、軍需生産増強、勤労機動配置などの面から、戦力増強を目指す機関であった。

 綿製品に対する統制

 繊維製品に対する統制は、諸物資中で最も早くから開始され、その内容も極めて厳しいものがあり、国民生活に深刻な影響を及ぼした。これら諸統制のもとで、今治市の綿織物・タオル業界、松山市・温泉郡の伊予絣業界など、全国有数の生産地であった県下綿織物業の受けた影響は甚大なものがあった。
 県下における統制の影響は、早くも昭和一三年(一九三八)二月ころから表れてきた。伊予絣業界では、混紡糸の割り当て減少のため操業短縮必至の状況に追い込まれ、織子二万人が内職を奪われることが心配された。更に、同年三月一日、「綿糸配給統制規則」の公布によって綿糸配給割り当てが始まると、今治の綿織物・タオル工場は、綿糸の割り当てがこれまでの三七%(綿織物)、五〇%(タオル)に減らされ、操業短縮、休日増加を決定した。一方、伊予絣業界でも同様で、綿糸配給割り当てが三〇~五〇%減少をみたため、各工場は操業短縮に追い込まれ、割り当て量の少ない零細業者三八名は、綿糸配給の緩和を県庁に陳情した。その結果、これら業者には、五月に至って綿糸特別配給の措置がとられた。また新居郡西条町においては、職工三〇〇名の予州織物工場が、輸出不振、綿糸統制を理由に休業した(「海南新聞」昭和一三・五・三付)。
 既に操業短縮、休業が続出していた県下綿織物業界に、更に致命的な打撃を与えたのは、同年六月二九日に公布された「綿製品の製造制限に関する件」以下の綿製品非常管理の措置であった。これによって綿織物の製造が一切禁止され伊予絣工業組合では、やむを得ずスフ製織への転換も検討したが、結局、仕掛り綿糸の手切れ以後は一斉休業に入ることを決定した。そして、七月中旬には大部分の工場が休業し、月末までには全工場が休業するものと予想された(「海南新聞」昭和一三・七・一六、二六付)。
 こうして、伊予絣業界は存続の危機に立たされることになったが、副業者を含めて一万五、〇〇〇名もの多数が従事する代表的地場産業だけに、この問題は、県当局にとっても重大課題となった。そのため、県は商工省への働きかけを続け、八月に至って、伊予絣は特免織物としてその存続が認められることが決定した。この措置は、地方的な国産綿製品として従来の軍需品などに追加して認められたもので、久留米絣、和歌山の紺絣、岡山その他の手拭地小幅白木綿も追加品目中に含まれていた。その後正式に決定をみた伊予絣への特免綿糸配給量は、一か月二三〇梱となり、一〇月から配給されることになった。伊予絣業界では、綿業統制が始まる以前は一か月七五〇梱の綿糸を消費しており、昭和一三年三月~六月の間の平均配給数量は二五三梱であった。従って、特免として認められた数量は、統制前の約三分の一に当たり、統制開始の三月以後の数量に近いもので、約七万反の生産量を確保したことになった。
 特免綿糸の配給量は、その後漸減傾向をたどり、昭和一四年(一九三九)一月ころは二一○梱、翌一五年一・二月はともに九五梱であった。その間、一五年一月、全購連より農山漁村の労働用黒無地織物九万四、九四〇反の特別注文があり、業界に活気がもたらされたが一時的なものに終わった。また、県工業試験場の協力のもとに輸出用織物への転換を図る動きもみられたが、戦局が悪化する中で窮状打開には至らなかった。昭和一八年以後、企業整備の進行とともに、伊予絣業界でも転廃業が相次ぎ、白方機織所、浜田機織所、須賀織布工場の三業者のみが残ったが、昭和二〇年七月の松山空襲によって生産は完全に途絶し、その再開は戦後の復興を待たねばならなかった(『伊予絣』)。
 一方、今治綿業界は、綿製品非常管理以後もやや明るい見通しを持っていた。既に、大手紡績会社より綿糸供給を受けて輸出用綿製品の賃織に活路を見いだしていた業者も多く、広幅力織工場は、これまでの内地一般向け(生産の六割)生産を輸出向け及び軍需向けに転換することを決め、スフ及びスフ混紡製織に移行することになった。一三年七月中旬には、一七〇工場(職工八、五九四名)中一〇四工場休業、職工六、五〇〇人失業中という惨状を呈したが、輸出の伸張とともに、同年一〇月ころから回復をみせ始めた。翌一四年二月の今治市内綿織機台運転率は六〇%であった。しかし、太平洋戦争の開始、それに続く戦局の悪化とともに輸出は後退し、輸出向け生産に支えられてきた今治綿業も、以後は衰退の一途をたどることとなった。綿糸割り当ての減少、生産の減退が続く中で、生産の合理化、能率の向上による企業生き残りを図るため、企業合同が進められた。今治地方でも、昭和一五年ころから、タオル業界で合同の動きが表れ、個人企業者の合同による工業小組合が組織されていった。その結果、昭和一七年八月には今治地方の綿業界は二五企業となった。
 更に、昭和一八年から進められた企業整備により、今治地方の綿糸関係では三〇工場、織機三、〇八八台、タオル関係では五四工場、織機一、三五一台が姿を消した。これは、綿布に関しては工場数の五六%、織機台数の四五%、タオルに関しては、自発的廃業五工場、織機一六二台を加えて、工場数の七二%、織機台数の六七%に当たる。この結果、昭和一八年一二月現在、今治地方で操業を認められていたのは、綿布関係で二五工場、織機二、五六五台、タオル関係で二三工場、織機八二三台となった。更に、昭和二〇年八月の空襲による被害で、今治綿業も事実上生産途絶に立ち至った(『新今治市誌』)。

 石油に対する統制

 石油は、戦争に直結する軍需物資として、日中戦争勃発とともに、ますます重要性が増大していった。そのため、石油の国内自給率の向上を目指して、国内原油の増産、人造石油の製造、代用燃料の開発など多くの方策が講じられてきたが、消費の規正の面からも、早くから積極的な対策がとられた。まず、昭和一二年(一九三七)一〇月以後第一次消費規正が実施され、商工省の行政指導のもとに、各消費部門ごと約一〇%の節約が実行された。しかし、一三年度各種物資需給計画立案の結果一般民需用揮発油約二〇%、重油約一五%の節約を要することが明らかとなり、昭和一三年三月、「揮発油及重油販売取締規則」が制定され、第二次消費規正が実施に移されることになった。同規則は、揮発油及び重油の販売業者、石油精製業者に購買券(切符)による販売を義務付ける(第二条)もので、購買券の発行を調整することによって需給を調整する仕組みであり、五月一日より施行された。
 愛媛県においては、同規則に先立って、昭和一三年三月一日、円滑な石油消費規正を図るため、「愛媛県燃料規正委員会」を設けることを決定し、規正への取り組みを進めていた。
 同委員会は、自動車、工場、船舶、漁業に関する石油規正について知事の諮問に応じる機関で、具体的な調査審議内容は、消費者に対する制限供給量の決定、規正実施に伴う事業の調整及び所要の施設事項であった。委員は、知事(委員長)警察部長(副委員長)、各庁関係職員、石油供給者、同消費者より構成された(資近代4三七九)。
 更に、先述の「揮発油及重油販売取締規則」の公布を受けて、同年三月五日、「揮発油及重油販売取締規則施行細則」及び「揮発油及重油販売取締規則施行細則取扱手続」を制定し、購買券交付の申請、申請書の取り扱いなどについて具体的に規定した。その後、同施行細則は、同年一二月、一五年一一月に、同施行細則取扱手続は一五年一一月に改正された(『重要物資の配給要覧』)。
 政府による石油規正は、同年六月の昭和一三年度改訂物動計画の決定以後、更に厳しさを加え、消費部門によっては、ほとんど使用禁止に近い制限を受けた。昭和一四年六月における割り当て量を規正前の消費量と比較した規正率は、次のようになる(『商工政策史』)。

  〈揮発油〉
  トラック 四〇% タクシー 六〇% バス 五〇% 自家用 遊覧バス 九二% 船舶 三〇% 特殊車(消防警察用) 二五%
  〈重油〉
  漁船 三二%  鉱工業用 五五%

 このような厳しい消費規正が進められるのと並行して、政府は、石油の総合的計画的供給を図るための配給統制を強化し、昭和一四年(一九三九)九月、新しい一元的配給機構の中央機関として石油共販㈱を設立した。そして、この石油共販を中心として配給統制を進めることを目指して、九月二三日、「石油配給統制規則」を公布した。同規則によって、石油は、石油共販が政府の総合的配給計画に基づいて大口需要者、各府県ごとに設立された地方卸売会社に供給し、次に、地方卸売会社が、地方長官の承諾を受けた配給計画に従って小売業者に供給するという、一元的な仕組みとなった。同規則は、公布の日より施行されたが、実際にこのような仕組みが機能し始めたのは、翌一五年二月一日以降であった。
 県では、このような国の配給統制強化の方針に対応するため、昭和一五年(一九四〇)三月五日「愛媛県石油委員会」の設立を決定した。同委員会は、従来の「愛媛県燃料規正委員会」(昭和一三年三月設立)を廃止して設けられたもので、燃料規正委員会の果たした消費規正面での役割に加え、新しく、配給統制の円滑な運用をもこの任務とするものであった。すなわち、同委員会は、知事の諮問に応じて、(1)消費者に対する制限供給量の決定、(2)配給及び規正実施に伴う事業の調整と所要の施設事項、(3)石油配給量の決定に関して審議するもので、消費規正部会、配給部会が置かれていた。消費規正部会は、更に、主要な石油消費部門である自動車関係、鉄工業関係、船舶漁業関係の各分科会に分けられた。委員は、会長(知事)副会長(警察部長、経済部長)のもとに、各関係職員、石油供給者、同消費者で構成された(資近代4三九八~三九九)。
 一方、中央での配給統制組織の一元化に関連して、県内での組織も整備された。県では、各府県ごとの地方卸売会社として愛媛県石油販売㈱を設け、更に、県内を九地区に分けて、三島・新居浜・今治・松山・郡中・長浜・八幡浜・宇和島・深浦の各共同販売組合を組織させた。そして、商工省より一か月ごとに割り当てられる分量に従って、愛媛県石油販売㈱が県内への配給計画を立て、知事の承認及び石油委員会配給部の審議を経た上で各共同販売組合に割り当て、共同販売組合から購買券と引き換えに需要者に配給するという仕組みをとった。
 配給統制の強化に伴って、昭和一五年以降、消費規正も年ごとに強められ、県内諸産業及び県民生活の上にも多大の影響が及んだ。一五年の段階で、愛媛県に割り当てられる購買券発行数及び石油は、需要の七〇%を満たすに過ぎず、県は、消費量節約を目指して種々の対策を講じた。当時、揮発油(ガソリン)消費量のうち九〇%以上は自動車によるものであった。そのため、対策はいきおい自動車を対象としたものが中心となり、営業の改善、代用燃料の使用などが進められた。営業改善は、主として運送会社・バス会社の合同、バス運行路線の整備統合、運行回数の減少などであった。既に、昭和一三年五月、中予におけるバス事業の中心であった三共自動車は、運行回数三〇%減、一部路線の休止を打ち出し、松山タクシーの道後~三津間バス運行回数半減となっていた。また、かねてから統合が進められていた県内三七〇の貨物自動車業者は、昭和一七年一二月までに、東予貨物自動車会社、中予運送㈱、予州貨物自動車㈱(喜多・西宇和・東宇和)、南予運送㈱に統合を完了した(「海南新聞」昭和一六・九・一六付、「愛媛合同新聞」昭和一七・一二・二〇付)。次いで、翌一八年六月までには、県下二六のバス会社についても、東・中・南予の三地域に集約を完了した。代用燃料は、木炭自動車への改造で、昭和一五年当時、県下における改造済みの自動車は、自家用車二、ハイヤー一三、バス五一、営業貨物三二、自家貨物一二、特殊貨物二であった。県では、木炭自動車への転換を進めるため、三~七台所有者は二台、八~一九台所有者は三〇%、二〇~二九台は三二%、三〇~三九台は三五%、四〇~四九台は四〇%、五〇台以上は四五%の割合で強制的な転換指導を実施した(資近代4三九〇~三九一)。
 昭和一五年六月一二日深夜から翌早朝にかけて、県下一斉に乗用貸切り自動車の取り締まりが実施された。その結果は、松山署管内で、遊興帰りの客一〇台一一名、急病三台四名、婚礼帰り二台一一名、旅行二台八名、その他一台二名、今治署管内では、遊興帰り五台九名、婚礼帰り二台二名、商用一台一名であった(「海南新聞」昭和一五・六・一四付)。厳しい統制にもかかわらず、県民生活にまだ余裕のあったことをうかがわせる。

 物価統制の開始

 戦局の進展に伴って予想される軍事インフレーションを抑制し、物価の安定を図ることは、戦時経済体制を支えていくための最重要課題であった。そのため、物価統制は、早くも日中戦争開始の直後から始まり、諸経済統制中で最初に手がつけられた部門であった。
 日中戦争開始後約一か月の昭和一二年八月三日、政府は、大正六年制定の「暴利を目的とする売買の取締に関する件」(暴利取締令)を改正し、取り締まりの対象を八品目から二六品目に拡大した。更に、同年一〇月、同取締令は再改正され、取り締まり品目は三二に増加した。しかし、これは軍需急増を見越した売り惜しみ、買い占めなどの抑制を目指す暫定的、応急的なもので、まだ本格的な物価統制を意図したものではなかった。
 その後、戦争が長期化の様相をみせるとともに、軍事支出の増大に伴う軍事インフレーションの傾向が顕著になってきた。昭和一二年七月より、政府は、六大都市を含む全国二四都市を選定して、労働者生計費調査を実施した。それによると、二四都市の一つであった今治市の労働者生計費指数は一二年七月を一〇〇として、一三年四月には一〇九・四、同年一〇月には一一四・九を示し、一か月につき約一%の上昇であった(「海南新聞」昭和一二・四・二三付、同一四・七・一付)。このような事態に対し、政府は、一三年(一九三八)四月、物価委員会を発足させ、本格的な物価統制に乗り出した。物価委員会は中央物価委員会と地方物価委員会に分かれ、物価に関する重要事項を調査、審議するための機関であった。中央物価委員会では、同年五月、「公定価格、基準価格等の決定並に其の実施に関する方針の件」が決定された。政府はこの方針にそって、同年七月、「輸出入品等臨時措置法」に基づく「物価販売価格取締規則」を制定し、公定価格制を中核とする物価統制を開始した。すなわち、中央物価委員会の答申によって商工大臣は物品ごとの標準最高価格を設定し、運賃などの事情で価格に地方的な高低がある場合は、地方物価委員会の答申を得て地方長官が地方公定価格を決定する仕組みであった。ここに、事実上、商工大臣・地方長官は任意に価格を公定する権限を得て、物価統制は新しい段階に入った。
 愛媛県においても、このような中央での動きに対応して、物価統制への準備を進めた。県では、地方公定価格決定に備え、一三年七月六日、皮革製品、繊維製品、化学工業品、ゴム製品などについて松山市を中心とした標準物価を決定し、中央で定められた標準最高小売価格との比較表を発表した。更に、県に協力して、県下各市町に戦時経済統制対応委員会、各村に経済更生委員会が設置されることとなり、そのうち、松山市戦時経済統制対応委員会は、同年七月一四日第一回会合を開いた。同委員会では、同月二二日、日用雑貨、金物、食料品、衣料品について松山市の公定価格が決定されたが、これは、愛媛県公定価格決定の基礎資料とするものであった。
 このような準備を経て、第一回愛媛県地方物価委員会が、一三年七月二五日、会長である古川知事出席のもと、県参事会室において開催された。同委員会では、消費の節約、購買力の吸収、物資供給の確保、配給・運輸の改善などを通して物価抑制を図る方策が協議され、続いて、繊維製品(綿織物、毛織物、麻織物)、化学工業製品、ゴム製品、皮革製品について、愛媛県最初の公定価格が設定された(「愛媛新報」昭和一三・七・二六付 「海南新聞」昭和一三・七・二六付)。
 愛媛県地方物価委員会は、その後相次いで会合を開き、精力的に公定価格を設定していった。同年八月一三日の第二回会合では、第一回での綿製品の追加分、氷、南洋材について公定価格が決められた。このうち、綿製品の別珍(綿ビロード)及び氷については、県内画一ではなく、地域別、業種別に価格を決める配慮がなされているが、実情にそわない点も多く、新聞紙上では、都市部、農村部を一括した画一的物価統制への不満が表明された。
 以後、一三年九月一六日の第三回委員会において綿織物及びゴム製品追加分、同年一一月二二日の第五回委員会において綿織物追加分、毛糸、木炭、貨物自動車運賃、一四年一月三一日の第六回委員会において洋服地、手編毛糸、ホーロー鉄器、洋傘、鶏卵について、それぞれ愛媛県公定価格が設定された。

 九・一八価格停止令以後の物価統制

 公定価格制度を中核とする物価統制にもかかわらず、以後も物価騰貴は続いた。松山市内では、一三年(一九三八)一二月ころから物価上昇が甚だしく、特に、一四年四月以降、生糸、肥料、食料、工業薬品などが高騰した。六月に入ると生糸、肥料はやや上昇が緩んだが、これに代わって穀物、工業雑品の価格の上昇が著しかった。その結果、日本銀行松山支店調査による昭和二年五月を一〇〇とした松山市内卸売物価指数は、一四年七月末で一三一・二となり、前月比一・七、前年同月比一一・○の上昇であった(「海南新聞」昭和一四・八・五付)。
 中央物価委員会は、このような物価上昇に対し、より総合的恒久的な物価対策を目指し、一四年四月に「物価統制の大綱」、同年八月に「物価統制実施要綱」を作成して商工大臣に答申した。しかし、その直後の同年八月三〇日、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発し、海外物価の上昇、交戦国の輸出力の減少に伴って、国内物価は更に一層の高騰をきたした。そのため、政府はより強力な物価対策を必要とすることになり、一四年一〇月一八日、国家総動員法に基づき、いわゆる九・一八価格停止規程を含む「価格等統制令」を公布した。同統制令は、価格・運送費・保管料・損害保険料・賃貸料、加工賃などを含む諸物価を九月一八日の水準で固定させ、その上で適正な公定価格あるいは協定価格を設定することを目指したものであった。その結果、一六年四月までに設定された公定価格は、中央におけるもの約四万八千点、地方におけるもの約四三万点という数に達した。しかし、同統制令公布直後に設定された米・煙草・絹織物をはじめとして、多くの公定価格は九・一八の水準を超え、一方では闇価格、闇取引が横行し、物価の上昇は依然として止まらなかった。
 愛媛県においても、一四年九月一八日と一五年四月一六日との物価指数を比べてみると、穀類二九%、食料品二七%、建具材料二四%の騰貴をみせた。このような物価の上昇傾向は、根本的には、軍事支出の増大に伴って引き起こされたものであった。従って、物価問題は単なる価格対策のみでは解決できない要素を含み、物資の需給調整、資金、購買力の統制などの総合的対策を加えることによって初めて解決に至るものであった。そこで、政府は、一五年四月、従来の中央・地方物価委員会を解散させ、それに代わって、内閣に財政経済の総合的調査審議を行う物価対策審議会、価格形成を主任務とする価格形成委員会を新設した。価格形成委員会は、商工省に置かれた価格形成中央委員会と、道府県に置かれた価格形成地方委員会に分かれ、公定価格決定などに関する諮問に答える機関であった。
 愛媛県においても、従来の物価委員会に代わり、愛媛県価格形成委員会が設置され、その答申に基づいて、一五年(一九四〇)四月一二日に増税に伴う砂糖類の小売価格の決定が行われた。また、同月一六日には、肥料の公定価格も全面的に改訂された(「海南新聞」昭和一五・四・一七付)。
 生活必需物資のうち、生鮮食料品については、天候や需給関係などに左右される要素が大であるため、従来は統制の対象から除外されてきた。そのため、その高騰は著しく、県内のそら豆は、九・一八停止令による価格が一升約一八銭に対し、一五年七月の価格は約五五銭、小豆は九・一八価格一升二三~三五銭に対し、一五年七月は最高一円となっていた。また、一五年七月の生蔬菜類の価格は、九・一八停止令以後最高三〇〇%、鮮魚類は最高三五〇%、平均二二〇%の高騰であった(資近代4三九五)。このような生鮮食料品高騰は県民生活を直撃した。経済警察は、「暴利取締令」に基づく取り締まりを行ったが効果は少なく、業者の商業道徳遵守に期待する以外に適切な方策を見いだせない状態であった(「海南新聞」昭和一五・二・四付、同三・一三付)。
 政府は、このような状況に対し、一五年八月に蔬菜類、同年九月に生鮮魚介類の価格統制を開始した。そして、価格形成中央委員会は、同年八月九日に塩・干物魚介、一五日に果物、野菜について公定価格を決定した。
 このような方針を受けて、愛媛県でも商工課を中心に生鮮食料品の公定価格実施の準備を進め、一五年九月一一日、愛媛県価格形成委員会より蔬菜二四種、果物一六種の最高販売価格が答申された。続いて二〇日には、アイスクリーム、蜜豆など嗜好飲食料、二一日には生鮮魚介類の公定価格が決定された。生鮮魚介類については、その後、一六年二月一五日、同年九月一〇日より公定価格の改訂及び追加が実施された(「海南新聞」昭和六・二・一一付、「海南新聞」同九・二~一三付)。このように、昭和一三年以降多くの商品に公定価格が設定され、物価統制の役割を担ってきたが、一六年一一月現在、県内に設定された公定価格は一七二品、七、〇〇五点、協定価格は七〇品、六、七八八点の多きに及んだ(資近代4七〇五)。この後も、必要に応じて追加、改訂が進められ、一九年九月には蔬菜類、鮮魚類の価格改訂が実施された。
 昭和一六年(一九四一)一二月の太平洋戦争勃発は、戦争経済を支えるための物価統制を一層重要なものとした。しかし、それとともに、軍需物資の生産増強がより重要課題として登場し、そのための価格調整補給金制度が、一八年四月以降大規模に採用されることになった。このような措置は当然軍需インフレーションを助長することとなり、公定価格を大幅に上回る闇物価のもとで、県民生活にも深刻な影響を与え、「急務は生活の切下げ」、「決戦の肚を固めよう」と耐乏生活が要求された(「愛媛合同新聞」昭和一八・七・七付、同八・八付)。

 経済警察の強化

 昭和一二年(一九三七)七月の日中戦争勃発以来、経済統制が次第に強化され、国民生活への影響が深刻化するとともに、統制諸法令の円滑な運用、及び国民生活の安定、冶安維持を図るため、経済警察活動を強化することが必要となった。
 愛媛県においても、統制法令の周知徹底及び違反者の取り締まりの両面から、経済警察活動の強化が進められた。その活動は、統制が強化される昭和一三年ころから本格化し、県警察部は、同年八月一一日、各警察署に対して、「経済警察の運用に関する件」によって、具体的な取り締まり要項を通牒した(『愛媛県警察史』)。
 また、経済警察と経済諸団体との連絡を密にし、経済統制の円滑な運用を進めるため、県は、翌一四年二月八日、愛媛県経済警察協議会及び各警察置管内ごとの警察署経済警察協議会を発足させた。同協議会の任務は、時局認識及び統制諸法令の徹底、警察と経済諸団体との意志疎通経済統制に伴う転職離職問題、統制諸法令への違反防止、その他経済警察運用上の諸問題について協議することであった。愛媛県経済警察協議会の構成は、会長(知事)、副会長(警察部長、経済部長)のもとに協議員が置かれ各種産業団体、主要商工会議所、主要市の市長、関係庁員、学識経験者中より知事が任命した(資近代4三八〇・七〇六)。
更に、昭和一六年二月、同協議会の活動の一環として、各警察署に生活相談所が設けられ、生活必需物資、住宅、転失業に関する具体的相談、統制に関する手続の案内、統制諸法令に関する質疑を取り扱うことになった。経済諸統制に対する県民の困惑を反映して、生活相談所の利用者は多く、一六年七月七三五件、八月七四六件、九月七七一件に達した。その結果は、おおむね相談者の希望どおりになったもの一、五六九件、相談内容の一部分のみ希望どおりになったもの三九三件、希望にそえなかったもの二八二件、未処理八件であった。以後も利用者は増加し、昭和一七年度の相談件数は一万三五二七件、一か月平均一、一二七件余に及んだ。相談内容は、時局柄、生活必需物資及び地代・家賃統制令に関するものが一万二、四〇五件、中小商工業者の転失業に関するものが、一、一二二件を占めた(資近代4七〇六~七〇七、『愛媛県警察史』)。
 更に、統制が強化される中で、県は、同年一二月二三日、警察部の中に経済保安課を新設し、経済警察活動が、組織の面から一層強化されることになった。また、同時に、その任に当たる者として、警部一、警部補七、巡査四九、書記六の合計六三名の職員が増員された。その所管する職務は、(1)物価取り締まり (2)物資需給調整取り締まり (3)臨時資金調整取り締まり (4)産金及び金使用取り締まり (5)石油消費規正及び自動車用品配給税制(6)その他経済警察に関する事項を規定され、経済統制全般にわたる幅広い活動を目指すものであった(『愛媛県警察史』)。
 違反に対する取り締まりは、悪質事犯の検挙を重点に行われ、食料品をはじめとする闇取引事件が中心であった。違反検挙数は、昭和一五年六一八件、三、六三三名、一六年五一〇件、二、一一四名の多きにのぼり、統制が強化されるに伴って、証拠隠滅などの悪質巧妙な事件も増加していった(『愛媛県警察史』)。

 転失業対策の展開

 戦争の長期化に伴って強められてきた経済統制は、中小商工業に深刻な影響を及ぼした。資材、資金が軍需工業に集中される中で、軽工業、特に中小規模のものには転廃業、操業短縮を余儀なくされるものが続出し、それに伴う失業者も増大した。また、物資不足、配給機構の整備、物価統制の強化により、商業部門における営業活動の場も急速に狭められていった。こうして、昭和一三年半ば以降、中小企業関係の転失業問題が、統制の強化と表裏の関係をもって、重大な社会問題として登場してくるようになった。
 県内における転失業問題のうち、県民生活に最大の影響を及ぼしたのは、県内主要産業たる綿業統制によるものであった。このことについては別項で既述したが、綿業以外の分野でも、一二~一三年ころから、その影響は深刻の度を加えてきた。県内の漆器、陶磁器、和紙製造業は戦争の影響によって四〇~五〇%の売上げ減となった(「海南新聞」昭和一二・二・二八付)。桜井漆器、砥部焼の職人数は、日中戦争前に比べて、いずれも三分の一の減少であった。県内の靴屋八一名は、皮革統制によって休業状態となり、金工業(二〇戸)では、金の使用禁止によって熟練従業員が失業した。
 このような事態は、銃後の安定を図る上からも重大問題であり、政府においても対応が急がれた。そのため、昭和一三年(一九三八)九月、商工省に転業対策部が設けられ、厚生省の失業対策部との連携のもとに、(1)商工相談機関の整備拡充 (2)下請受注の配分調整 (3)技術指導 (4)工業組合共同施設費の補助 (5)見本製作費の補助 (6)輸出用少量原材料の配給斡旋 (7)金融上の措置 (8)商工更生委員制度を実施していくことが打ち出された。
 愛媛県は、この政府方針を受けて、翌一四年三月二四日、物資統制による県内商工業への影響に対処する機関として、「愛媛県中央商工相談所」を設置した。同相談所の任務は、(1)日中戦争による商工業への影響調査、研究及びその指導、(2)軍需工業、輸出工業、代用品工業への転換、(3)軍需品、輸出品、代用品の受注斡旋、(4)転業資金融通の指導斡旋、(5)その他必要と認められる事項を推進することで、いずれも、先の政府の打ち出した政策の具体化を図るものであった(資近代4四一四)。
 更に、愛媛県においても、同年一二月二二日、商工更生委員の設置が決められた(資近代4三八二)。「愛媛県商工更生委員規程」によると、同委員は、物資統制に伴う商工業者の休失業状況の調査及び休失業商工業者の転業などに関する指導斡旋を任務とし、県内各地から三〇〇名以内の定員で任命された。彼らは、市部五、郡部一二に分けられた商工地区ごとに委員会を組織し、任務の逐行に当たった。
 一方、県下産業界でも、統制への積極的な対応が図られた。越智郡の桜井漆器業は、弁当箱や下駄製造をも行い、将来は軍需品の箱製造も計画していた。また、伊予郡の砥部陶磁器工業組合では、軍需品製造への転換を決定し、そのための共同施設補助を政府に申請した。計画の内容は、機械装置費一万四、九七四円、建物六、〇四三円、計二万一、〇一七円を要し、そのうち国庫補助一万五〇八円余、組合特別賦金五、五〇八円、借入金五、〇〇〇円の予定であった。この計画は、県内における軍需工業転換の最初の事例であったといわれる(「海南新聞」昭和一三・九・二九付)。完成後、この共同施設では、海軍用の電磁器並びに代用磁器の製造が行われた(『砥部焼の歴史』)。
 この砥部焼にみられるように、軍需工業への転換を決めた業界は、昭和一三年一〇月現在、県下で一三団体にのぼり、ほぼ県下全域に広がっていた。それらのうち、政府による共同施設費の補助金交付が内定していたのは、伊予砥部陶磁器工業組合、宇和島鉄工業組合、補助金申請中のものは、周桑鉄工業組合、温泉鉄工業組合、宇和島造船工業組合、申請を準備中のものは、今治鉄工業組合、愛媛県製材組合連合会、喜多鉄工業組合、宇摩鉄工業組合、今治越智鉄工業組合、今治被服工業組合、愛媛靴工業組合、八幡浜鉄工業組合であった(「海南新聞」昭和一三・一〇・二付)。

 企業整備の進展

 昭和一五年(一九四〇)一二月、第二次近衛内閣による新体制運動の一環として「経済新体制確立要綱」が発表されて以後、物資統制の傾向は強まり、資材、資金の軍需産業への集中が一層進められるようになった。このような状況の中で、中小商工業整備問題についても、政府は新たな施策を打ち出してきた。すなわち、従来の転失業対策が、事業維持の困難な中小企業者を軍需産業、輸出産業などへ転業させることによって、その企業の維持を図っていくことに主眼を置いたのに対し、新施策は、存続困難となった中小企業の経営者、従業員双方を、労働力増強を必要とする重要産業の労務者として動員しようとするものであった。このような新方針を具体化するものとして、昭和一六年一月「中小商工業者の転廃業対策要綱」が発表された。また、小売商に対しては、一五年一一月「生活必需品配給機構整備要綱」が出され、小売商組合の整備統合が進められた。
 愛媛県の施策も、当然、このような政府の方針転換にそうものであった。県は、昭和一六年二月、相次いで「愛媛県職業指導委員設置規程」(一二日)、「愛媛県職業転換協議会規程」(一四日)を制定した(資近代4四三九~四四〇)。職業指導委員は、国民職業指導所の補助として、中小商工業者の転業状況の調査及び要職業転換者の指導斡旋を主な業務とした。職業転換協議会は、会長(知事)、副会長(経済部長、学務部長)のもとに、関係官吏、産業経済団体関係代表者、事業主、学織経験者より成る委員によって構成され、中小商工業者の転業並びに職業転換に関する調査審議及びその実行促進を任務とした。ともに、政府の方針を受けて、中小商工業者の職業転換への対応を前面に打ち出していることが注目される。
 このように、企業整備は、昭和一五年末以降一層急速な進展をみることになるが、それは、主として業界の自主的措置、あるいは国、県などによる行政指導によって実施されてきたものであった。しかし、昭和一六年一二月、太平洋戦争が始まったことにより、企業整備は、法律による強制力を伴って、より強硬な方針のもとに進められることとなった。まず、一六年一二月、「企業許可令」が出され、指定された産業部門では新規事業の開始、設備の新設、拡張などが許可制となった。そして、その運用に当たっては全面的不許可の方針がとられた。これは、企業整備を強力に進めるための前提として現状を固定化することを目指したものである。次いで、翌一七年三月、「中小商工業者の整理統合及転業転換促進に関する件」が閣議決定された。これは、事業維持の困難な中小商工業も、軍需産業などへの転業によって企業維持を図り、できるだけ転失業者を出さないという従来の方針を最終的に放棄し、中小商工業の整備統合と緊要産業部門への設備、労働力の転用を強力に推進する方針を確定したものであった。この閣議決定の方針が法制化されたのが、同年五月の「企業整備令」であった。
 愛媛県では、閣議決定による方針を受けて、同年三月二七日、「愛媛県中小商工業再編成協議会」を設置した(資近代4七七六)。これは、一六年二月設置の「愛媛県職業転換協議会」に替わって置かれたもので、企業の整理統合計画の樹立、転廃業者に対する共助施設の整備、職業転換の指導斡旋などに関する事項について協議することを任務とした。協議会の組織、企業整備に関する基本方針などについては、職業転換協議会とほぼ同じであるが、任務、部会に関する規定などが詳細かつ具体的で、企業整備推進への体制がより強化されたことを示している。
 愛媛県は、商工省の指示を受けて、昭和一六年八月ころから、県内商業者の整理統合に関する資料収集、計画立案を開始した(資近代4七五七)。しかし、商工業全般について、整理統合作業が本格化するのは、一七年以降であった(資近代4七八四)。以後、先述の職業転換協議会、中小商工業再編成協議会などによって作成された基本方針、実施計画に基づいて整理統合が進められ、その実をあげていった。一八年七月現在の状況を次に示す(資近代4七八八~七八九)。

  〈整理完了〉
   商業 洋服 自転車 石油 石炭 鋼材 特殊鋼 豆腐 酒類 農薬 繊維製品 工業 菓子 ガラス 布帛製品 石鹸 煉炭 缶詰 製紙 製飴 繊維機器 ガラ紡績
  〈整理中〉
   商業 金物 陶磁器 ガラス 貴金属 時計 燃料 農機具 自動車部品 万屋 工業 織物加工 陶磁器 農機具 繊維雑品 染色加工 自動車修理

なお、当時、県内において遊休工場となっていたのは、次の八工場で、いずれも繊維関連工場である(資近代4七九一~七九二)。

  富士瓦斯紡績三島工場 東洋紡績今治第一工場 同川之石工場 丸今綿布宇和島支店 興業舎第一工場(今治市) 
  倉敷紡績松山工場、八幡浜織布新川工場、朝日紡績宇和島工場

 これらのうち、倉敷紡績松山工場は、呉海軍工廠水雷部の指導下に民営の機械工場として転用することを計画中で他の工場についても、軍需産業、緊要産業へ転用の予定であった。
 その後、戦局の悪化に伴って企業整備は一段と強化され、昭和一八年(一九四三)六月、政府は「戦力増強企業整備基本要綱」を作成した。これは、工業部門を、戦力に寄与する程度によって第一~三種に分類し、労働力、資材、設備のすべてを重点部分に投入しようとするもので、その区分は次のようになっていた。

  第一種工業部門―総合戦力増強上必要とする労務の供出、金属類の回収、工場、設備の転用に寄与すること大なる部門で、繊維工業、金属工業、化学工業などがあげられた。その中が更に操業工場、保有工場、転用工場、廃止工場に分けられ、前二者は、国民生活確保の上から残存された。
  第二種工業部門―第一種より設備、労務の転用を受ける部門で、企業系列の整備強化、生産機能の刷新向上により生産性を最大限に高めることが要求された。軍需重工業、機械工業、液体燃料工業などがこの部門に入れられた。
  第三種工業部門―設備の転用面から貢献度の小さい部門で、日用品、雑貨製造業などが該当した。

 これらは戦争を支える軍需品生産の維持という面から、従来の企業整備の方針が更に一歩進められたものであった(『商工政策史』)。
 愛媛県では、同基本要綱の実施に伴って、同年九月一七日、従来の「愛媛県中小商工業再編成協議会」を廃止し、新たに「愛媛県戦力増強企業整備委員会」の設置を決めた(資近代4七九九)。同委員会は、(1)企業整備に関する県民の理解協力の促進 (2)企業整備計画の樹立 (3)操業工場、保有工場、転用工場、廃止工場の決定 (4)転廃業者に対する共助策の推進 (5)労働者の配置転換及びその指導斡旋の推進などについて調査審議する機関であった。この審議に基づき、県は、同年九月二〇日までに、第一種工業部門のうち県内の操業工場として、繊維、製紙、缶詰、印刷など一〇九工場を指定した(「愛媛合同新聞」昭和一八・九・二二付)。
 戦争が長期化する中で、民需品の生産を犠性にし、軍需品の生産を確保することにより、戦力の維持強化を目指したのが、企業整備であった。このような政策は、当然のこととして、日常生活用品の欠乏、転業、失業など、県民生活の上にも大きな犠性を強いるものであった。「企業整備へ総進軍!」、「さあー来い、覚悟は出来たぞ」(「愛媛合同新聞」昭和一八・三・五付)との呼びかけは行われたが、その下で、商工業整理統合により生計の途を失った者も多く、国民職業指導所における昭和一八年二月の転職希望者四六五名、その内就職者二〇八名、三月は転職希望者三五四名、就職者二六五名であった。三月の職業希望者中で商業従事者が三〇五名を占め、小売業の整理統合の影響が大であったことを示している(「愛媛合同新聞」昭和一八・三・七付、同四・一一付)。

 一県一行主義と銀行合同

 「銀行法」による無資格銀行整理の猶予期間が昭和七年(一九三二)末で終了し、翌八年以後、銀行合同は新しい段階を迎えた。すなわち、従来の、信用欠如打開のための弱小銀行間での合同から、以後は、堅実な経営状況下の銀行が、より強固な経営基盤の確立を目指して進める合同へと、その性格に大きな変化がみられるようになった。
 政府は、昭和八年八月、新しい銀行合同方針を打ち出した。それは、今後一府県または経済的に一単位とみられる地域内の金融系統を整備統制するため、必要に応じて銀行の合併、合同を勧奨していくことを内容とするものであった。そして、このような方針は、昭和一一年、馬場蔵相が戦時金融統制の一環として打ち出した、いわゆる「一県一行主義」と呼ばれる金融機関整備の考え方に連なっていくものであった(『伊豫銀行史』)。
 昭和七年末現在、県内の普通銀行は一二行を数えた。既に、香川、高知、徳島では事実上の一県一行が実現しており、愛媛県についても、大蔵省筋から、非公式な形ではあるが、合同促進の要があることが指摘されていた。
 南予地方においては、昭和八年三月一日、西宇和郡川之石町の第二十九銀行が宇和島銀行を吸収合併し、次いで、翌九年八月二〇日、第二十九銀行、大洲銀行、八幡浜商業銀行が合併し、豫州銀行が創立された(第三章第三節の五金融機関の発達参照)。資本金二三一万六、○○○円、預金二、一〇〇万円。三二支店を有する県内第二位銀行の誕生であった。初代頭取には、第二十九銀行の頭取であった佐々木長治が就任した。支店は南予地方一円に広がり、南予以外では松山、郡中、中山、県外の別府、土々呂、仁方に置かれた。
 豫州銀行の成立に対抗して、同じく南予地方にあって競争関係にあった宇和卯之町銀行は、同年九月一日、東宇和郡石城村(現宇和町)の穂積銀行を吸収合併し、経営基盤の強化を図った。前記豫州銀行は、その後、昭和一二年三月一日、かねてから経営状態の不良が続いていた内子銀行を買収し、翌一三年二月一日、宇和卯之町銀行を吸収合併した。ここに南予地方の金融界は、同銀行のもとに統一されることとなった(『伊豫銀行史』)。
 中予地方においては、昭和一二年一二月一〇日、県下最大の銀行で、県都松山に本店を持つ五十二銀行と、同じく松山の仲田銀行が合併し、松山五十二銀行が創立された。両行の合同はかねてからの懸案であったが、大蔵省からの強い勧奨を受けて、その気運が急速に強まり、急転合併にまで至ったものであった。新銀行は、資本金五四七万五、〇〇〇円、預金四、四〇〇万円を有し、依然として県内最大の銀行であった。新役員には、代表常務取締役として、五十二銀行系から原正義、仲田銀行系から仲田包寛が就任したが、当初頭取は置かれなかった。この変則的な形は、もと日本銀行理事であった平山徳雄が一五年正月の株主総会で初代の頭取に選任されるまで、二か年余りにわたって続いた。そして、この平山の頭取就任は、将来、県内銀行の合同を松山五十二銀行を中心に進めていこうとする大蔵省の布石でもあった。松山五十二銀行は、翌一三年一二月二四日、三津浜銀行を買収、更に、一六年二月八日に(旧)伊豫銀行(松山市)、同年五月一〇日に久万銀行を相次いで買収し、中予地方を中心としてその地歩を固めた。なお、経営不振から昭和五年一二月以来休業していた今出銀行(温泉郡垣生村)は、七年九月に営業を再開したが、同年一二月、大蔵省より営業停止を命じられ、翌八年五月二日、破産が確定し、明治三二年以来の歴史を閉じた(『伊予銀行小史』)。
 ここに、愛媛県内には、明治二五年創立以来、今治綿業地帯を背景とする東予の今治商業銀行、中予の松山五十二銀行、南予の豫州銀行が、それぞれの地域金融の中核として鼎立することとなった。
 この外、昭和一四年(一九三九)末現在で、県外銀行六行が愛媛県内での営業活動を行っていた。そのうち、県内銀行と事実上競争関係にあたったのは芸備銀行及び四国銀行であった。広島に本店を置く中国地方最大の芸備銀行は、昭和三年一二月、県内の愛媛(松山市)、西条、伊予三島の三行を吸収合併し、東・中予地方に多数の支店、出張所を有していた。安田財閥系の四国銀行(高知市)は、松山・八幡浜・宇和島に支店を持ち、中・南予に勢力を伸ばしていた。以上二行以外では、住友銀行が、別子銅山及び住友系各社との関係から新居浜に支店を有し、中国銀行(岡山市)、高松百十四銀行は、県東端にそれぞれ一出張所を置いていた。また、土予銀行は、御荘銀行と幡多銀行(高知県中村町)との合併によって創立された銀行で、高知県中村町(現中村市)に本店を置き、県内に二支店一出張所を有していた(『伊予銀行小史』)。
 普通銀行とは別に、不動産金融を行う特殊銀行として、明治三一年七月創立の愛媛県農工銀行があった。この農工銀行は、「農工銀行法」によって各府県に設けられ、大正一〇年、「日本勧業銀行と農工銀行の合併に関する件」が公布されて以後、日本勧業銀行との合併が進められてきた。特に、昭和一一年、普通銀行に関する一県一行主義が表明されて以後、その合併は一段と進展し、一二年三月二五日、愛媛県農工銀行も、宮城県、濃飛、三重県、大阪、兵庫県、広島県各農工銀行とともに日本勧業銀行に吸収合併され、その松山支店として営業を続けることとなった(『伊予銀行小史』)。

 伊豫合同銀行の成立

 県下の金融界は、東予の今治商業銀行、中予の松山五十二銀行、南予の豫州銀行の三行に整備され、それぞれが地域金融の中核としての役割を担った。それとともに、各行の営業圏が拡大し、これら三行が営業面で競合する場面も増加してきた。一方、戦争の長期化は、金融面にも新たな統制への動きを要求するようになってきた。すなわち、地方銀行も、地域金融に資するのみでなく、より大きな国家的目標にそって、国債を保有し、軍需産業へ資金を円滑に供給する体制を整えることが求められた。このような背景のもとに、昭和一六年七月、「財政金融基本方策要綱」が発表され、資金の総合的配分計画の実施と金融機構の再編成が進められた。
 このような時代の要請と全国的なすう勢のもとで、今治商業銀行、松山五十二銀行、豫州銀行の合併の動きは、一五年秋から始まった。その後、大蔵省、日本銀行松山支店、県などの斡旋努力もあり、関係者の話し合いが続いた結果、一六年(一九四一)五月一二日、日本銀行松山支店で合併覚書への調印が行われた。調印には三行を代表して、松山五十二銀行頭取平山徳雄、豫州銀行頭取佐々木長治、今治商業銀行頭取矢野透三が出席した。合併条件の要旨は次の通りであった(「海南新聞」昭和一六・五・一五付、「伊予新報」昭和一六・五・一五付)

  ○一六年下半期末までに新銀行を設立する。
  ○対等合併を目標とするが、最終的には大蔵省の査定により決定する。
  ○新銀行の役員は、三銀行の意向を徴して大蔵省が選定する。
  ○新銀行の本店は松山市におく。
  ○新銀行の商号は三銀行の協議によって決定する。
  ○三銀行の店舗及び行員は、全部新銀行に引継ぐ。

 以後本格的な合併準備が急がれ、同年六月三〇日、三行は正式に合併契約書に調印した。新商号は「伊豫合同銀行」と決まり、八月三〇日、松山五十二銀行本店において創立総会が開催され、九月一日より県内唯一の普通銀行として新銀行が発足した。資本金は合併三行資本金の総計とされ、公称九七二万五、〇〇〇円、払込七八二万四、八七五円であった。新銀行の初代頭取には旧松山五十二銀行頭取平山徳雄、常務取締役に末光千代太郎(豫州銀行系)、仲田包寛(松山五十二銀行系)、丹下辰世(今治商業銀行系)が就任し、以上の四名は代表取締役の権限を持った。本店は旧松山五十二銀行本店跡に置かれ、支店七六、出張所四二、代理店四を有したが、その中には旧豫州銀行から引き継いだ大分・広島県内の支店、出張所、代理店が若干含まれていた(『伊豫銀行史』)。
 伊豫合同銀行の創設は、愛媛県における事実上の一県一行主義の完成であった。しかし、昭和一八年三月、「普通銀行等の貯蓄銀行業務又は信託業務の兼営に関する法津」が公布され、普通銀行が貯蓄銀行業務を兼営することができるようになったため、伊豫合同銀行を伊豫相互貯蓄銀行との間に合併の気運が生じた。そして、大蔵省、日本銀行、県の勧奨もあって、一九年一二月一五日、伊豫合同銀行は伊豫相互貯蓄銀行を吸収合併し、最終的に愛媛県における一県一行主義が完成した。
 また、県内における無尽会社の統合も進み、昭和一八年三月、常盤、東予、今治、南予、松山の五社が合併し、愛媛無尽㈱が設立された。

表4-16 今治地方の綿業生産設備の減少

表4-16 今治地方の綿業生産設備の減少


図4-8 今治市労働者生計費指数(資料 「海南新聞」「愛媛合同新聞」

図4-8 今治市労働者生計費指数(資料 「海南新聞」「愛媛合同新聞」


表4-17 9.18価格停止令以後の県内物価指数

表4-17 9.18価格停止令以後の県内物価指数


表4-18 生鮮食料品の高騰

表4-18 生鮮食料品の高騰


表4-19 3行の預金高推移

表4-19 3行の預金高推移


表4-20 3行の貸出高推移

表4-20 3行の貸出高推移


表4-21 3行の有価証券高推移

表4-21 3行の有価証券高推移