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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 八幡浜・新居浜・西条の市制施行と松山市域の拡大

 八幡浜市の誕生

 本県四番目に市制をしいた八幡浜市は昭和一〇年(一九三五)二月一一日に誕生した。面積九四・八一平方キロメートル・人口四万三、八二〇人で、これまでの三市のような城下町からの延長ではなく、西の九州に開いた港町で、漁業・海運業の根拠地として、埋め立て工事を続けながら発展してきた新しい土地であった。『愛媛面影』には「八はた浜なる小高き岡上に立せり、此神社あるによりて浜の名におほせたるなるべし」とあり、養老元年(七一七)の鎮座と伝える八幡宮を地名の起源としている。
 八幡浜町と隣接町村の合併問題は、大正八、九年に神山村との間に具体的な交渉がもたれ、次いで同一一年二月には干丈・矢野崎両村をも合併の対象として折衝が始められたが実現しなかった。昭和三年合併問題が再燃して、まず矢野崎村との合併が同五年一月一日に施行された。神山町(昭和三年七月町制施行)との合併については、八幡浜町財政に不安を持つ神山町民の反対が強く容易に進行しなかったが、同七年七月の国鉄八幡浜駅の位置内定で合併気運がようやく盛り上がった。翌八年七月一日八幡浜町公会堂で合併協議会がもたれ、以後、神山町のほかに千丈村、舌田村など各町村ごとの座談会や地区大会を重ねた。昭和九年一一月一〇日に各町村議会は合併と市制施行の決議を行い、八幡浜町長浦中友治郎以下四町村連名で内務大臣に上申した。翌一〇年一月内務大臣の諮問、四町村会の答申を経て、二月九日の内務省告示、一〇日の県報告示で二月一一日から八幡浜市制は施行された(資近代4一七四~一八二)。
 八幡浜市は、市制施行に当たり、(1)市政を整備し市民の教化を図り、理想郷土の建設に努める。(2)港湾を整備し運輸交通の便を図り、物資集散地としての発展を期する。(3)中小商工業の堅実な発展を図り、企業精神の昻揚振起に努める。(4)商業知能の正常な育成発展を図り内外に雄飛する方途を講じる。(5)全市総合的計画の下に商工農の共栄を目的とする有機的運営に意を注ぐ、といった「市定」を定めた。初代市長には酒井宗太郎が就任したが三か月にして病に倒れ、西村弥三郎が後任に選ばれた。

 新居浜の発展と市制施行

 新居浜という地名は新居郡の北辺の浜という意味で、古来、この地は国領川の三角洲に位置する漁村にすぎなかった。元禄三年(一六九〇)別子銅山が発見され、やがて粗銅が新居浜浦に搬出されるようになると、物資供給と相まってこの地は銅山の発展とともに栄えていった。明治維新のころ、新居浜の戸数は六〇五戸(うち漁家二四〇)、人口一、九八五人であった。明治一六年住友は新居浜村の惣開に洋式製錬所を開設した。惣開の地は嘉永年間(一八四八~五四)に住友家の支配人清水惣右衛門が銅山発展のため開発した湿田地帯で、「惣開」の地名はここから起こった。その後、別子経営関連の諸機関が漸次移るに及んで、ここが新居浜の中心となった。明治六年ごろから住友家が製銅運搬のため汽船白水丸・回転丸を定期に運航し、兼ねて一般旅客をも扱ったので、この地は大阪に向けての交通上の要衝となり、銀行・病院・郵便局なども集中した。明治二六年住友鉄道もここを起点として南方端出場まで開通した。
 同四一年に新居浜は町制を施行して郡内第二の町となった。大正二年には惣開の砂洲が埋め立てられて住友の経営する肥料工場が創設された。この間、煙害問題のため惣開にあった製錬所が四阪島に移転し、惣開からここへ原鉱はもちろん、同島の労働者やその家族に対する物資や水まで供給した。そのころの各町村の戸数と人口は、新居浜町一、三五一戸・七、二九五人、金子村一、〇一八戸・六、二九八人、高津村三四九戸・一、九八七人、泉川村八三四戸・五、三七九人、角野村一、〇五五戸・五、一八〇人などで(『愛媛県誌稿』)新居浜周辺の村々は別子の発展とともに発展した。
 大正八年(一九一九)に住友共同電力株式会社の前身、土佐吉野川水力電気会社が創立されて、住友関係工場に電力の供給が強化せられた。この年、電気製銅工場が完成して操業を開始した。また東町の埋立地には倉敷紡績工場が進出してきた。同一〇年国鉄が土居から西条まで延びて、六月二一日新居浜駅が営業を開始したので、陸上交通の門戸が開け、乗客はもちろん貨物輸送にも便を増した。
 昭和二年七月に住友の別子鉱業所が別子鉱山株式会社に改組された。同会社の方針としてこの地方を本格的に工都化する計画をたてたため、以後、銅山が衰えても新居浜の地は他の産業施設で経済を支える見通しが立ったほか、同四年には会社の手で第一期築港工事に着手し、同八年から一二年に一、〇〇〇万円を投じて第二期築港工事が完成した。
 この間、住友傘下のアルミ・化学・機械などの工場が続々と操業を開始したので、これら工場に働く従業員およそ一万五千人のために町はますます活況を呈した。このほか、独立資本による下請工場、繊維・食料などの工場もこれに伴って増加した。
 新居浜町の人口は昭和一〇年(一九三五)一〇月の国勢調査で一万六、〇四九人、隣村金子村は一万三、六〇四人であった。このころから町をあげて早く市制を施行し、新居浜百年の計画を樹立することが急務だという意見が高まってきた。ただ、実現の鍵を握る金子村だけが時期尚早を理由として、積極的に合併運動に同意しようとはしなかった。それは、新居浜町の区域は東西五・七キロメートル余、南北一・六キロメートル余で、磯浦、西谷付近の丘陵地を除くと、海岸に面した帯状の平地で、人口増加に伴い、町内ほとんどの地域に家屋が立ち並ぶようになっており、新居浜町の東に接続する新須賀も、膨張した惣開、新田の住友社宅街も、また新居浜町の南境から国鉄新居浜駅のある泉川村まではことごとく金子村分であったので、新居浜発展に伴って自然と大きくなる位置にある金子村としては、ただ成り行きに任せるのが賢明と考えていたためであった。しかし日ごとに発展する新居浜の現状は、住友系五大会社の充実拡張、官立の高等工業学校設置の運動を展開するなどの段階となっていた。昭和一二年、県においても合併の積極的斡旋に乗り出し、市制実施の推進に努力することになった。
 同年二月一八日、新居浜町・金子村・高津村に対し、県から隔意ない意見の開陳を求めるとともに、大局に従って合併に賛成し、市制実施を実現することが今日の急務である旨を説明して慫慂するところがあった。以後県と関係町村理事者及び合併委員などの会合がしばしば持たれ、同年六月二二日、金子村の一宮神社において三町村の合併委員連合会を開催するまでに進展した。同日、県から出席した総務部長白井演の提示した合併条件の裁定書を満場異議なく承認し、難関を思わせた合併問題も当事者たちの努力と理解で解決した。
 その後、内務大臣からの諮問と三町村会の答申、昭和一二年一〇月三〇日付の県告示を経、一一月三日をもって新居浜市が県下第五番目の市として名乗りをあげた(資近代4二六五~二七四)。
 同日新居浜高等女学校体育館に白石臨時市長代理並びに新市吏員全員が集合し、新居浜市役所の開庁式が挙行され、次いで市制実施報告祭が執行された。新市の主脳陣は臨時に市長代理白石誉二郎(前新居浜町長)、助役代理本藤巴勢一(前金子村長)、収入役代理小野豊(前高津村助役)が就任した。白石市長代理は、声明書を発表して、「我等町村合併の目標を共同の施設に依る共通の福祉に置き、之を確認して部落的対立観念を除去し、渾然一和の精神を樹立することを根本義としたが、市の指導精神も亦茲に置かねばならぬ。和を以て貴しとなすは千古の金言である」「此際我等の考慮すべきは、何か故に躍進せしめたかの問題である。申す迄もなく工業地帯化が主たる原因である。而して工業地帯化を誘致したる当面の素因は、築港が産業の生命線となり、地下水が栄養素となって工業の勃興を見たものであるけれども、畢竟住友と地方との間に結ばれたる二百五十年親善の歴史が、近代化学の進展により発して文化の盛況を呈するに至ったのである。換言すれば人心の和が時節の到来と合致した結果に外ならぬ。我等市民は既往に鑑み将来に処せねばならぬ」と述べ、和の精神をもって住友と共に市の発展を期する覚悟を披瀝した。
 市制発足当時の面積一八・三九平方キロメートル、戸数七、一二八戸、人口は三万三、五五六人であった。一二月八日第一回市会議員選挙が行われ、同月一九日の市会で臨時代理となっていた白石市長ら三役を正式に選任した。
 住友企業の工都としての新居浜市の発展は目覚ましいものがあった。これを背景に、昭和一四年五月には四国唯一の高等工業学校の誘致に成功し、同一七年八月には角野にあった警察署もここへ移転した。かねての合併協約に基づいて同一九年五月に新居浜市庁舎が完成し、同年新居浜海運局が開局、一時は西条にある県の行政機関までが移転するほどの気配を見せた。

 西条市の誕生

 西条市は昭和一六年(一九四一)四月二九日、県下六番目の市として誕生した。面積二二五・六八平方キロメートル・人口五万四、〇八四人であった。西条という地名は古代条里制に関係があるようであり、江戸時代には徳川御三家紀州藩の支藩三万石の城下町として栄えた。明治維新後、この地に大区会所次いで新居郡役所が置かれ、郡内はもちろん東予地方の主邑として政治・経済・文化の中心としての地位を維持し発展した。
 明治二二年一二月、旧城下町と明屋敷村が合併して翌年から西条町が発足した。大正三年関西捺染工場が加茂川の伏流水を利用して、接続した神拝村で生産を開始するなど工場の進出が始まり、同一〇年国鉄西条駅が開業するなど工業・交通が開発されるに従い、西条町と隣接村の合併の気運が起こった。その結果、大正一四年二月、綿工業地帯である西隣の神拝・南側の松山から高松に通ずる国道筋の交通の要衝大町、東方渦井川川口にある玉津の三村を合併して、人口二万人に近い西条町を創成した。
 昭和一一年七月倉敷絹織西条工場が一二万坪の海面埋立地に進出して操業を開始した。同一三年には伊予鉄電会社が西条港西海岸の海面四万坪を埋め立て一〇万キロワットの火力発電所を建設する計画を立てた。同一四年三月初旬加茂川河水統制計画が立案中であることが公表された。こうした工場誘致と治水事業は西条地域での飛躍的な発展を約束するものであっただけに、西条市制実施運動が急速に盛り上がり、同一四年一二月「西条市制実施促進同盟会」が結成され、翌一五年の紀元二六〇〇年を記念して市制を実現することにした。同一五年六月西条町当局は町会に合併案件を提出、西条と飯岡・神戸・橘・大保木の五町村を合併範囲として対象各村と交渉することにした。協議の途中で加茂村・氷見町が加わり、結局平坦部の西条・氷見の二町と飯岡・神戸・橘の三村が合併して市制を施行することになり、同一六年三月各町村が合併、市制施行上申書を提出した。四月内務大臣の諮問に応じて各町村会が異議ない旨を議決した。この結果、四月二六日の内務省告示、二八日の県報告示で、四月二九日から西条市が誕生した(資近代4三六二~三六七)。

 松山市域の拡大

 松山市は人口八万二千人を擁する県下最大の都市でありながら、四囲の環境は他町村に囲まれ海岸線を有せず、あたかも門戸のない家屋のような現状であって、臨海工業地帯の形成に支障をきたしていた。隣接の三津浜町には三津浜・高浜の良港があり、伊予鉄電の電車が通じて松山市との交通は頻繁で同一市内の観がある状況であった。また東部近郊桑原村及び北部及び西部海岸線に迫る潮見・久枝・堀江・和気・味生五村は土地おおむね平坦で工業地帯に属して大工場誘致に最適の地域であったが、これら町村相互の間及び松山市との交通は道路が発達し鉄道電車・乗合自動車の便もあり産業上の需要供給の関係極めて緊密であった。
 これら市町村の合併についてはかねてから動きがあったが、県知事古川静夫が着任以来本腰を入れて大松山市を生むべしとして関係市町村の首脳者を県に招いて勧奨した。これが効を奏して合併の協議が急速に進められ、内務省への稟申、諮問答申を経て、昭和一五年(一九四〇)七月二五日、三津浜町以下七町村の松山市への編入合併が県報告示され、八月一日より施行した(資近代4三四四~三四九)。これにより、人口八万余の四国四県の最下位県都から一躍人口一一万七、七八三人を擁する四国第二位の都市に躍進、面積も旧市の四倍に拡大、田畑四、五六三町歩を持つ田園都市であるとともに三津浜・高浜・堀江の三港を持つ臨海都市となった。
 松山市と隣接町村の大型合併は、まさに皇紀二六〇〇年を飾るイベントであったが、道後湯之町との合併は成らなかった。市当局は、「街衢連続シテ境界判明セス利害得失其ノ軌ヲ一ニシ同一市内ノ感」ある道後湯之町と、二十数年来の懸案を解決しようと合併交渉を続けたが、豊かな財源である道後温泉の帰属がからんで容易に進捗しなかった。市はまた、新興工業都市に脱皮する意図もあって吉田浜飛行場・軍需工場が設けられた生石・垣生二村との合併を進めた。時局下、県当局の強い勧告もあって昭和一九年(一九四四)四月一日道後湯之町と二村の編入が実現、松山市の人口は一三万七、五三〇人に増加した(資近代4六六六~六七一)。しかし道後湯之町の編入は町民の意思を無視して強行されたとして、戦後まもなく分離運動が起こった。
 この時期、喜多郡大洲町に大洲村・久米村編入(昭和九年一月)、北宇和郡吉田町に立間尻村編入(同一三年二月)、同郡岩松町に高近村編入(同一三年九月)、伊予郡郡中町に郡中村編入(同一五年一月)、周桑郡壬生川町に多賀村編入(同一五年一〇月)上浮穴郡久万町に明神村編入(同一八年九月)、宇摩郡三島町に松柏・中曽根・中之庄の三村編入(同一九年四月)など隣接村の編入合併による町域の拡大が見られた。また喜多郡河辺・宇和川・大谷の三村合併による肱川村の誕生(同一八年四月)など財政力の弱い村の合併も進められた。これらの町村合併は県の指導によるところが大きかったので、戦後、強圧的合併であるとして三島町松柏・肱川村河辺などで分離運動が展開されて分村を実現することになる。

図4-2 市制施行時の八幡浜市域

図4-2 市制施行時の八幡浜市域


図4-3 市制施行時の新居浜市域

図4-3 市制施行時の新居浜市域


図4-4 市制施行時の西条市域

図4-4 市制施行時の西条市域


図4-5 昭和15年時の松山市とその近郊

図4-5 昭和15年時の松山市とその近郊