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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 時局匡救対策と農山漁村の更生

 救農議会の開催

 五・一五事件で倒れた犬養政友会内閣の後継に昭和七年(一九三二)五月二六日、前朝鮮総督斎藤實を首班とする「挙国一致内閣」が成立した。血盟団、五・一五事件に象徴された国内不安は、そのころ「非常時」と表現され、その内容には農村疲弊、景気沈滞など深刻な社会問題のほか、満州事変後の緊迫した対外関係も不可分の要素と考えられていた。この「非常時」を解決する政権担当能力がない政党に代わって登場した斎藤内閣は、「挙国一致」を標榜し、衆院三に対し官僚五、政友系四に対し民政系二、加えて財界一名の構成を持つ政界諸勢力の均衡で構成し、政党の凋落振りを示していた。
 政府は多年の政党政治の弊を粛正するとして、まず地方長官の大異動を発令、免官・休職一八、休職からの復活七、新採一一、転任一二、留任二〇に及ぶ人事の刷新を図った。七月一九日の地方長官会議において内相山本達雄は、綱紀の振粛と地方庶政の更新を図ることは国民一般の要望であり、従来の実績には運用に憂慮すべき事例が多いと指摘し、地方行政に当たり廉潔公明・不偏不党・公正適切を要すと訓示した。また、「文官分限令中改正」を行い、官吏の休職は今後、新設の文官分限委員会に諮問するとし、官吏の身分保障を確立、人事への政党介入の道を抑えた。
 内閣成立からわずか一週間後に第六二臨時帝国議会が召集された。この議会では、五・一五事件が発生した社会状況を反映して農村救済対策樹立が課題とされ、六月一三日、臨時議会を開いて「時局匡救」案件の提出を求める決議案が政友・民政両党から提出され、満場一致で可決された。
 政府の農村匡救対策は以後、この決議にそって進められるが、一方、国家財政にも限度があることから、農村が「自力更生」によってその窮乏を克服する「精神作興」運動を興起するよう強く訴えていた。議会開会に先立ち、首相自らラジオ放送で、「重大なる時局に際して国民に告ぐ」と題し、「自力更生」を直接国民に訴えるとともに、七月開催の地方長官会議でも、首相、内相共に訓示で強調した。こうして開かれた第六三臨時議会は「時局匡救議会」あるいは「救農議会」と呼ばれ、救農土木事業、農山漁村経済更生計画、農村金融、市町村立尋常小学校費補助、米穀などの重要農産物の統制などに関し、昭和七年度における時局匡救の諸経費一億七、六四〇万円余が拠出された。時局匡救事業当初計画の概要は、昭和七・八・九の三年度にわたり、中央事業費約六億円、政府の低利資金融通による地方事業費約二億円で総額八億円に及び、それに政府補償不動産金融資金五億円、政府補償産業組合金融疎通資金一億円並びに農村及び中小商工業関係預金部資金元利支払資金約二億円などの融資八億円を加えると、全額一六億円に達するものであった。三か年の実施の結果、事業費関係は国の一般会計負担額が当初計画より一億円減少して五億円、地方負担は肩代わり分一億円を加えて三億円となった。この財源をみると、一般会計分は全額日本銀行引き受けの歳入補塡国債の発行により、また地方負担分は預金部資金の低利融資並びに預金部引き受けの地方債によって賄われた。これがいわゆる「高橋財政」による資金調達であった。

 救農土木事業

 救農政策の第一の柱は、応急対策としての「救農土木事業」であった。それは窮乏した農山漁民に直接就労の機会を与え、あまねく賃金収入の道を開く目的であった。救農議会を通過した時局匡救関係予算のうち、内務・農林両省にまたがる土木事業費は八、六〇〇万円余で、これにつながる地方費負担分が約五、六〇〇万円あり、国費・地方費を合わせた救農土木事業費は一億四千万円余となる。この数字は昭和七年(一九三二)に激増した満州事変費が二億二千万円であったこと、同年の一般会計歳入が一一億八千万円、地方財政の歳入総計が二二億八千万円であることを考えると、政府としてはかなりの奮発であった。
 事業内容をみると、農村振興土木事業(内務省所管)では河川・港湾・道路の改良工事が主であり、農村土木事業(農林省所管)では開墾・用排水幹線改良・小開墾(一地区五町歩未満)、小用排水改良・暗渠排水・小設備(農用道路、堤塘、井堰、樋管、樋門の新設改修)などのほか、牧野改良、桑園改良から林道、木馬道、貯木場、船溜、船揚場、築磯などの林業・漁業施設を含んでいた。国庫助成の方法は、農村振興土木事業では府県道改修が三分の一、治水(砂防)が二分の一、河川・港湾・町村道改良が四分の三で、残余の地方団体自己負担分については預金部資金を融通し、その利子は三か年国庫で補給した。農村土木事業についても、そのうちの公共団体が営む事業(林道開設、船溜船揚場設備)は四分の三補助で残余は前に同じであったが、耕地整理組合・産業組合・森林組合・漁業組合など農林省関係の各種組合や個人が行う事業に対しては四分の一から二分の一の補助で、残余も一部に低利融資はあったものの利子補給はなかった。つまり、組合や個人の行う事業については、それぞれに利益の多くが帰属するからその事業費について当該者が負担するのはやむを得ないという方針であった。ところで、この事業については、事業の配分その他大体のことは地方長官の裁量に一任され、その責任で各地方に最も適切な匡救の方法を講ずることとされた。また、時局匡救事業費に充当される起債の許可手続きに関しても、一定のものについては地方長官に一任し、早期に財源の確定を図り、事業の着手を急がせるために同七年九月に「地方債許可暫行特例」が制定された。

 農山漁村経済更生運動

 救農政策の第二の柱は農山漁村経済更生計画であった。救農土木が応急臨時策であるに対し、この経済更生計画は根本恒久策であり、財政当局からいえば土木では国庫の身銭を切るが、あとは「自力」でという組み合わせであった。救農土木はわずか三か年で打ち切りとなるのに反して、経済更生運動はその後ますます力を注がれ、農政の新たな基調をなしていくのである。六三議会に計上された初年度関係費は、わずか農林省所管の農村経済更生施設費三二一万円のみであった。その内容は本省の俸給・事務費と地方助成費からなり、地方助成費の内訳は、道府県の経済更生職員設置費及び経済更生委員会費、町村の経済更生計画樹立費、地方団体の活動費などであった。このうち町村の経済更生計画樹立費は、一村当たり一〇〇円の助成金が各指定町村に一年限り交付されるもので、このわずかな額が末端町村に与えられる助成のすべてであることが、文字どおり経済更生運動の「自力更生」的性格を遺憾なく示している。
 六三議会終了後の九月二七日、農林省に経済更生計画に関する元締めとして経済更生部が特設された。更に一〇月六日、農林省令で「農山漁村経済更生計画助成規則」を制定、即日施行され、同日、農相後藤文夫から訓令で「農山漁村経済更生計画ニ関スル件」が各地方長官あてに発せられた。
 一一月一六日、農林大臣の諮問に応えて重要事項を審議する農村経済更生中央委員会が設置され、翌一二月、町村の経済更生計画の教科書となる「経済更生計画樹立方針」を決定して、府県に通牒された。このほか、内務・文部省もそれぞれの要綱をもって「自力更生」運動の指導に積極性を示し、経済更生運動はさながら一大「精神作興」運動となって出発したのであった。こうして経済更生運動は昭和七年末から末端町村へ広がり、更に翌八年には農村負債整理施策、九年には修錬農場施策、一一年には経済更生特別助成施策などを追加し、全国的に活発な展開をみせたのである。
 ところで経済更生計画の樹立及び実行の大綱を示したものが次の図4―1である。国の根本方針を受けた道府県では経済更生委員会を設置し、中央の方針に基づき農林漁業全般にわたる組織的統制計画に関する調査立案、更生計画を樹立すべき農山漁村の選定、計画樹立の指導、審査及び計画実行の指導督励を行う。次に、更生計画町村として指定された町村では、町村経済更生委員会を設けてまず必要な基本調査をした上で計画を樹立する。その計画を道府県に送付し、道府県経済更生委員会の審議を受け、地方長官の決定を経て当該町村の更生計画が確立することになる。
 計画の実行は、町村経済更生委員会の統制下に、各個の農山漁家が計画の方針に基づきその実現に努め、また農林漁業の改良などの実行については、主として農会・漁業組合・森林組合等がこれに当たり、販売、購売、金融利用等は産業組合が主としてこれを担当し、町村その他の団体は実情に即して各分野において計画の実行に参与するというものであった。

 一戸知事

 斎藤内閣の人事刷新により、昭和七年(一九三二)六月二八日、一戸二郎が本県知事に任命された。一戸は、明治二七年一月二〇日、西大助の次男として東京市中野区新井薬師町で生まれ、同三〇年に一戸氏を再興した。大正六年七月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業して農商務属に任じ、同年一〇月文官高等試験に合格した。農商務事務官・同書記官を経て、大正一一年鉱山監督事務が内務省に移管されるとともに内務省社会局事務官に転じ、同書記官・健康保険部調査課長となった。その後大正一三年に台湾総督府に転じ、事務官兼総督秘書官、官房秘書課長を経て、昭和三年に岐阜県学務部長となり、同四年七月再び社会局に戻って労働部労政課長に就任、本県知事に抜擢されるまでその任にあった(資近代4一四四~一四五)。なおこの間、大正九年から同一一年まで欧米各国へ視察、昭和六年には第一五回国際労働会議に我が国政府の代表顧問として渡欧するなど、労働問題に関する専門家であった。
 一戸は本県在任二年六か月、昭和に入って最も長い期間在任した知事であった。この間、時局匡救事業や旱害・風水害復旧などに取り組み多忙であった。このほか、笹井知事の時代に分水覚書の交換まで到達しながら徳島県内の強い反対で再交渉となった銅山川分水問題では、徳島県に再三赴いて関係者への要望に努め、内務省にも陳情を繰り返すなど東奔西走し、その真剣な活動には山中義貞ら宇摩郡の疎水事業推進関係者に大きな感銘を与えたが、結局徳島県側を動かすに至らず、交渉は実を結ばなかった。なお、従来党争著しかった県会は、「非常時」下にあって、党争的論議は影を潜め、国策順応型へ変身を遂げていた。

 救農土木事業の配分

 一戸知事は着任早々、まず実行予算の編成に取り組むこととなった。昭和七年度予算は年度開始四か月にいたって、農山漁村の不況、都市商工業者の疲弊が著しく、六年度の赤字繰り越しと税収入及び税外収入の激減が見込まれ執行不能に陥った。このため県当局は、極力歳出を抑圧することとし、旅費五分減、事務費・修繕費一割減、その他財源を特定したもの、例えば県債・地元寄付金・立替金などを除いて全部一割減の方針で臨み、結局総額で一四万余円を削減し、八月一日から執行した。
 次に、時局匡救予算額が閣議決定を得ると、内務省は八月一八日から全国道府県の内務部長、土木部の課長会議を本庁に召集し、土木事業計画とその実施方法の打ち合わせを行った。県では内務部長田中修の帰庁報告を受けて、直ちに県下各市町村に依命通牒を発し、九月九日締め切りで希望事業の申し出を求めるとともに、首脳部会議を数次にわたって開催し、事業実施要項を決定した。更に、九月一五日、政府が時局匡救事業の起工とともに企図した自力更生の精神運動に策応して県告諭を発して県民にその理解を求めた(資近代4一四五)。
 県民注視の下、臨時県会は九月一五日に開会、総額二一五万四千余円に及ぶ大型の追加、更正予算が提出され、一七日、一九日の両日審議で原案どおり可決、確定議となった。おもな内訳をみると、県直営の土木費四二万円余、農業土木費一万八千余円と市町村に対する土木費助成八二万三千円、農業土木費助成六八万四千余円などであった。ところで一般の関心が高い事業分配については、一戸知事が、厳正公平で広く分配するとの基本方針と原始産業戸数その他疲弊の状況を加味して交付する助成金を基準に、町村の希望する事業を分配するとの腹案を示すにとどまり、町村ごとの具体的配分額は提示されていなかった。
 審議では、政友派が希望・付帯意見をつけて直ちに議決を求めたのに対して、民政派は土木事業には従来からとかく党利党弊の問題がからむとして、金額表示のみの予算案について事業施工箇所や予算外義務負担の施工箇所の付記・参考を提出するよう要求したほか、助成金の分配基準を明らかにするよう要望して慎重審議を求めた。このため、理事者も各市町村からの希望事業件数・金額の大要や一部の施工箇所を提示していた。このほか、民政派は中小商工業救済対策について施策がないことを指摘して建議案を提出し、また、政友派は当予算案には県独自の匡救事業がほとんどないことから来年度予算編成における当局の留意を促した。
 県下三市二七三町村から申請のあった救農土木事業希望は、件数にして九〇九件、金額一、八一二万五千余円の巨費で、まさに「県下至ル所大旱ノ雨ヲ望ムガ如ク期待シテ居ル」状況であった。内訳をみると、市町村道改良が二四七件、七七五万円余で件数・金額ともに群を抜き、次いで件数では小用排水改良の一一三件、林道開設一〇五件と続き、金額では府県道改良が二〇〇万円台、船溜・小用排水改良・林道開設がそれぞれ一〇〇万円台となっていた。これに対し昭和七年度の国庫助成金は、県・市町村を通じ普通土木費助成九九万九、〇〇〇円、農業土木費助成六九万一、〇〇〇円の合計一六九万円、事業費総額として二八六万円の交付予定であった。希望に対して七分の一弱の助成分配で、「花婿過剰―山の様な希望をどう処置する」(「海南新聞」昭和七・九・二一付)と懸念される状況であった。
 各市町村への助成金割当作業は昼夜兼行で進められ、一〇月三日各市町村へ割当事業費及び事業種別が通知された。総件数六八九件、金額一八一万五千余円であった。市町村ごとの配当をみると、最高額は温泉郡北吉井村(現重信町)九万一、八三七円、二位は周桑郡中川村(現丹原町)五万四、〇〇四円、三位が同郡千足山村(現丹原町)三万一、六四二円、四位が温泉郡小野村(現松山市)二万六、〇〇〇円、以下一万円台が松山市ほか二〇町村、最低額は越智郡龍岡村(現玉川町)の二、〇一五円で、二千円台がほかに周桑郡三芳村(現東予市)など八か村となっていた。この割当てについて田中内務部長は、「用排水改良・荒廃地復旧・砂防・河川・港湾等は特別の性質を有し、一か所に集中せざればその効用又は機能を発揮することが出来ぬものがあり、又本省よりその執行を指定された所もあり、随ってその箇所の所在町村は配当金が多額になるのは蓋し止むを得ない……、要するに事業の性質とか本省の要望とか県の独自の立場とか市町村長の希望とかを尊重して出来る限り公平に努力を払って配当したつもりであります」と苦心談を述べていた(「海南新聞」昭和七・一〇・四付)。
 県当局はこの割当通知とともに同日、「時局匡救事業助成規程」と「救農土木事業実施上ノ訓令」を発し、工事施行に関し万遺憾なきを指令した(資近代4二〇九~二一一)。こうして救農土木事業が県下で開始されることとなった。市町村では割り当てを受けて市町村会を開き、助成金を予算に繰り入れ、事業によってそれぞれ市町村会の負担を決し、決議を待って起債認可の申請をなし、県では認可と同時に工事着手の指令を発することになったので、実際には早くとも一〇月中旬以降の着工となった。一方、県土木課では時局匡救土木事業施行のため、技術者四七名・事務員二五名の計七二名を臨時採用し、五日までに本課に四名の事務員を配置、他は一二土木出張所と砂防工営所にそれぞれ配属した。そして、県営事業のうち府県道二二線については設計測量ができていたので一〇月一〇日から着工した。

 経済更生運動の推進

 時局匡救対策の第二の柱である農山漁村経済更生計画に関しては、県当局は臨時県会で農山漁村経済更生施設費八、三四六円、農山漁村経済更生費助成一万四、三一三円を予算化し、更に農林省の省令・訓令を受けて一一月一五日に、「愛媛県農山漁村経済更生事業補助規則」を定め訓令と併せて各町村に令達した(資近代4一九四~一九五)。同規則によれば、町村・町村農会・産業団体が委員会を設置して経済更生計画を立てるときや町村農会・郡農会などが経済更生活動を推進するときに補助金を交付するものであった。
 更に県は、この町村段階の更生計画を樹立すべき農山漁村の選定をはじめ、県全般にわたる農林漁業の組織的統制計画や更生計画樹立の指導及び審査、計画実行の指導奨励、その他経済更生に関し必要な事項を調査審議するため、一一月一八日、「愛媛県農山漁村経済更生委員会規程」を定めた(資近代4一九五~一九六)。同委員会は知事の諮問機関で、会長は知事、副会長は内務部長、委員及び臨時委員は県官吏及び農山漁村について特に学識経験を有する者二五名以内で、知事が命じまたは嘱託するものであった。そして同日、委員として瀬谷薫書記官ほか一二名の県官吏を命じ、愛媛県農会長門田晋、愛媛県水産会長西村兵太郎など一二名の学識経験者に嘱託した。
 昭和七年一二月、政府は「農山漁村経済更生計画樹立方針」を決定、その通牒を受けた本県ではいよいよ経済更生運動の実施が具体化していくのである。昭和七年度から同一三年度において、経済更生計画を樹立し本省の助成計画により助成を受けた町村、いわゆる「指定町村」は、全国で七、九六九、愛媛県下で一六七町村に達した。表4―1はこの間の県下の指定町村を示したものである。農林省経済更生部では、計画の樹立及び実行状況の把握、運動の推進を図るため、道府県主務課長等協議会、四国四県経済更生計画協議会などブロック協議会を開催する一方、地方庁から実施経過概要等の報告を頻繁に求め、優良町村については事例集を刊行して、広く啓発活動を展開した。県関係の一部を紹介すると、「経済更生計画実行状況調査(一)」では上浮穴郡中津村・西宇和郡町見村・北宇和郡旭村、「経済更生計画実行状況調査(ニノ三)」では温泉郡伊台村・越智郡宮浦村・東宇和郡魚成村、「同(三)」では上浮穴郡中津村・喜多郡長浜町などが紹介された。また優良事例としては、「山村経済更生事例」で伊予郡中山町が栗の栽培並びに販売関係の改良改善と木炭の生産組織の優良さで、喜多郡柳沢村が木炭出荷組合と産業組合の優良さでそれぞれ取り上げられた。更に「負債整理組合の事例(第一輯)」では、温泉郡伊台村の無限責任上伊台負債整理組合と無限責任下伊台負債整理組合の負債整理事業及び頼母子講整理が紹介された。また、「農山漁村共同作業場優良事例ニ関スル調査」では永田共同農事組合作業場(東宇和郡石城村大字西山田)が、「銃後農山漁村事情視察報告記」では南宇和郡内海村の事例が優良と報告されていた。本県で最初の経済更生指定村となった伊台村の場合を見ると、開墾や農道改修、共同作業場の建設、診療所や実習地七反を持つ農民道場の設置、冠婚葬祭費の節減を申し合わせて酒を一本に限る「更生徳利」の配布など愛郷・愛農精神による村づくりに努めている。同村の負債額は一九万七千円余で一戸平均一、〇三〇円であったが、政府の低利資金五万二、五〇〇円を借用して負債整理を進めている。
 経済更生運動の時期区分については、第一期(昭和七~一〇年)「組織整備の段階」、第二期(昭和一一~一三年)「特別助成による本格的展開の段階」、第三期(昭和一四~一六年)「戦時体制への再編・変質段階」と区分されている。第一期においては、全国津々浦々で組織が整備されてくるが、町村への助成金はわずか一町村当たり一〇〇円のみであり、まさに自力更生の精神運動であった。ただ、わずかに昭和九年度に修錬農場(いわゆる農民道場)の設置が認められ、「中堅農民」の養成が始まっている。愛媛県でも昭和九年七月三日、「愛媛県立農事修錬場規程」を制定し(資近代4一九九~二〇〇)、周桑郡庄内村に施設を設けた。収容人員は修錬期間一年の者三〇名、ほかに一週間の短期修錬生を受け入れ、その方針は「勤労ノ体験ニヨリ質実剛健ノ気風ト勤労好愛ノ性格ヲ涵養シ、皇国農民ノ自覚ヲ図ルニアルヲ以テ実習ヲ主体」とするものであった。皇国精神発揚のための諸行事、毎日最低九時間・最長一一時間の徹底的勤労、共同生活・共同作業、合理的農業経営の体得が修錬の方法とされた。また経済更生運動の第二期に当たる上浮穴郡柳谷村の計画項目を見ると、(1)民間作興 (2)生活改善 (3)土地利用の合理化 (4)生産計画 (5)販売統制 (6)金融改善 (7)共同購入 (8)道路網完成 (9)村有林施策 (10)教育となっており、各項目とも現況を確認し、達成方法と年限を明らかにするとしている。

 時局匡救事業の進捗と終結

 昭和七年度半ばに開始された救農大土木事業の遂行については、あまり工事請負経験のない市町村が局に当たったため一部進捗が懸念される向きもあったが、事業はおおむね順調に進行し、成績は意外と良好であった(「海南新聞」昭和八・四・二〇付)。第二年次の昭和八年度時局匡救事業は前年度を上回る規模に拡大することとなった。すなわち、昭和七年通常県会では当初予算四二万二、九一五円、同八年三月臨時県会では二五三万一、〇一六円の追加予算が計上され、総額二九五万三、九三一円で前年度に比して七九万余の増額となった。この点について予算説明で一戸知事は、土木事業にあっては前年度と異なり指定港湾事業や指定県営河川改修事業が含まれたこと、用排水並びに水産関係事業のような継続事業が多くあり、一般に普遍的に配当し得る事業として市町村道路事業において約二割を増した程度であると説明していた。県会質疑では、土木助成金割当ての不公平、町村希望事業の優先選択、自力更生委員会の設置方針、中小商工業者への金融に関してただされた。これに対し県当局は、助成金割当の基準は「原始産業戸数を主基準とし人口や疲弊状況を加味した指数」により算定したもので不公平はない、事業によって指定配分するのは本省の建前で町村の自由採量は困難であること、経済更生委員会は各郡で二か所、全体で二四ないし二五か所を選定する方針であること、中小商工業者への金融は県が七○万円を起債し、一四万円補償することとして貸出し方法は検討中であり、簡易迅速な救済を図りたい旨の答弁を行っていた。
 議決決定をみた時局匡救事業について県では、事業方針の検討を急ぎ、四月一三日付で各市町村に対し事業の種類、同工事費などの希望条項の申出通牒を発した。また、五月一七日には県公会堂で県下市町村長会議が開催され、席上詳細な説明が行われた。各市町村からの申請に基づき県では割当て配当の準備を進め、五月二六日付で内示した。それによれば、市町村配当額及び県営事業費を合わせて総額二八五万三、五〇〇円で前年度比一〇〇万円余の増加であった。市町村負担額をこれに加えると昭和八年度事業費は実に四○九万余円の巨費に達している。
 全体的にみて、第二年次は匡救事業への対応に変化がみえる。前年度は非常時脱却の切り札登場とあって、満天下の耳目を集めるとともに人々は多大の期待をもって歓迎し、新聞各紙は連日詳報をもってその熱気を伝え、また増幅した。こうした一種熱狂状況の中で、県会開催、事業配分、工事施行が進行した。しかし第二年次には、全体に対応が極めて冷静で客観的な受けとめ方をしていた。その理由は種々考えられるが、多大な期待と実際上における失望があったにせよ、まず人々が事業の全容について理解を深めたことにあろう。また二年次に事業量が増大したことも安堵感を与え、更に一般経済界に好転のきざしが現れ、匡救事業が潤いをもたらしたことなど先行きに希望が見えてきたことによる。このことは新聞論調にも反映し、記事量は前年に比し激減したが、落ち着いた内容となっていた。
 三か年計画の最終年に当たる昭和九年度の時局匡救事業については、軍事費の膨張もあって巨額の赤字累積を憂慮する財政当局が、赤字抑制を予算編成の目標とし経費節約を図ったため、当初計画より縮減され、九年度限りで打ち切られることとなった。この大蔵省の方針に対し、政党・内務農林両省をはじめ広範な復活要望が展開されたが財政当局を崩すことはできなかった。愛媛県では、昭和八年通常県会で二四万〇、八七六円、三月参事会で一万二、七七一円、昭和九年臨時県会で一三三万九、八一六円と合わせて一六五万三、四六三円を計上した。これは前年比(臨時県会段階)で実に一三〇万余円、割合にして四六・一%の大激減であった。更に特徴的なことは、相当多額の特定事業(指定港湾、県営河川、県営砂防事業、用排水改良事業、水産関係)が含まれ、かつ当該事業に対する助成金は前年度に比し減少していないため、一般的・普遍的に配当する事業費の減少が著しいことにあった。予算説明で一戸知事は、「(予算配当)結果は当初の予想を裏切り、極めて僅少の額であることに一驚を喫すると共に一般の熱烈なる要望を充し難い悩みを深くし」と述べて困惑を示した。県会は村瀬武男(民政)の、「少額の政府補助金に啞然たらざるを得ない。しかしこれは県当局の罪ではなく政府からの配当なるが故に今更論ずる必要もない」との発言に代表される落胆振りを示した。このため質疑は専ら、この少ない配分の分配法や匡救事業打ち切り後の対策に終始し、甚だ精彩を欠いたものになった。六月一四日、県当局は配当事業を各市町村に通知、事業費は県営が七三万五、七一四円、町村経営が九一万七、三七六円の総額一六五万三、〇九〇円であった。この事業配当を受けて「海南新聞」六月一六日付は「匡救事業と今後、再び継続要望」と題する社説を掲げ、九年度事業配当は公平に近いと評価したうえで「もし九年度絶対打切の運命にあるにせよ、県下には未完成の河川、港湾、道路が横たわっている。この後始末をいかなる方法によって行わんとするか、これこそ町村が今後に残された大いなる悩みでなくてはならぬ」と問題を指摘していた。

 救農土木事業の効果と意義

 時局匡救事業の中心となったのは救農土木事業であった。それは、土木事業が工事の実施に伴って巨額の労賃を散布するのみでなく、その興業の結果が地方の産業を活性化し、交通の便をよくし、災害防止等の効果があるので、疲弊した農林経済の救済には最適であるとして経費の大半がこれに充てられたといわれる。大蔵省の算定では、事業総額の五割八分が労賃の割合とされていた。
 事業の効果について『大蔵省百年史』は、「この匡救予算は縮小されたばかりでなく、その多くの部分を労賃として農村に落すという当初の計画は十分実現せず、農村にとっては期待されたほどの積極的効果があったかについては疑問があるとされている。けれども三年間に八億円の財政資金が農村に撒布されたのは未曽有のことであり、これにより農村の過剰労働力を吸収し、景気回復の原動力としての効は大きかったといえよう」と解説、評価している。また『内務省史』では、「地方団体の負担を増し、農家の収入となるべき労銀の割合が比較的少なかった等の点はあったが、農村の現金不足を緩和する効用があり、また農家購売力の向上と工事による材料需要の喚起とによって景気回復に誘い水的な機能を果たしたことは否めなかった」と評価し、いずれも労賃に関しては期待はずれを指摘し、景気回復の効果を認めている。
 時局匡救事業の意義について考えると第一に、その目的である窮乏農民に「就労の機会」を与え、直接労賃を散布する社会政策的意義にあった。これは先の評価にあるように当初計画からみると効果を減じたようだが、恐慌によって収入が激減していた農民にとっては大きな救済措置となった。もっとも労賃獲得の機会が非農業者、下層農民に主として与えられ、いわゆる農村不況を最も強く受けとったといわれる自小作などの中農層に与えられないとの非難の声が高かった。
 第二には、直接的に資材需要(セメント・鉄材・木材など)の喚起、間接的に農村購買力の増大と景気回復に効果があったことである。第三として、産業基盤の整備があげられる。そのうち、開墾・用排水改良・小設備などは農地の新設・改良による農業生産力の向上を図るものであり、林道開設は林業振興に、漁港・船溜・船揚場・築磯などは漁業振興に資するものであり、道路・港湾の整備は広く社会資本の充実を図るものであった。
 このうち、道路建設・改良は我が国道路行政の画期をなすものといわれる。それは本格的な自動車・車両用道路網建設の始まりであり、第二次道路改良計画への発展であった。また、町村道改良工事に対し四分の三の国庫補助金を交付したのも画期的であった。
 なお、これを地方財政上の見地からみると、高橋財政により時局匡救事業の財源としてまず国庫補助金を支出し、地方団体の自己負担分について起債を認めた。しかも大蔵省預金部資金の市町村に対する直接貸付が承認されることになり、「財政投融資主導型」の地方財政が確立することとなった。またこの地方債の累増は、地方団体に重い負担となってかぶさり、地方財政の危機を促進することになっていくのである。
 愛媛県の場合、昭和七年度から同一〇年度の四か年にわたった時局匡救事業関係の決算額をみると表4―2のようである。総額では六七二万円余の巨費となっているが、これはあくまで県費として計上されたもので事業の全貌とはいい難い。ちなみに、「愛媛新報」昭和一〇年(一九三五)五月一四日付の記事「撒かれた千万円」によると、昭和七年度から同九年度の三か年における本県の時局匡救事業施行状況は、事業費総額九二六万七千円、うち県営事業一九四万三千円、市町村事業七三二万四千円で、国庫補助金は総計五二九万円、うち県営事業助成八八万九千円、市町村事業助成四四〇万七千円と報じた。更に続けて、右のうち労力費は五五六万円余で一日平均労賃七〇銭として延べ七二五万七千余人に散布されたと算定し、本事業のため地方債は増加を来たしているが、匡救事業の恩恵は相当浸潤したものといわれていると評していた。

 昭和九年の干害と対策

 昭和九年(一九三四)は五月以降から県下では降雨量が極端に少なく、七月一三日、同二四日に多少の降雨があったが稲の植付け不能は一、〇〇〇町歩、遅延するものが一万町歩以上となった。その後八月末まで夏型の暑い天気が続き、八月に数日降雨日があったものの平坦部では雨量少なく大干害となった。旱ばつによる被害面積は水稲のみで三万五、一六八町歩に及んだ。県当局が九月一日時で取りまとめ、農林省に報告した県下農作物の被害状況は、水稲一、一八八万余円(減収四五万七、二二二石、一石につき六円の割)、畑作雑菽類五三万円余、果樹一五〇万円余、蔬菜一六六万円余、蚕糸一一〇万円余、合計一、六七〇万三、六五七円というものであった。その後若干の降雨はあったものの被害は増大し、事態は深刻の度を加えていった。
 この間、関係者は応急対策を講じてきたが、八月七日、市町村幹部会を開催して善後策を協議した結果、被害額が一、〇〇〇万円を超えるところから県及び政府に対し応急策を求めることに決した。そこで県町村会長西村兵太郎外一三名の陳情団が上京し、八月一三日から一五日にかけて政府関係筋に陳情を行ったが、当局側は愛媛県という局部の問題であり、また内閣組閣後日も浅いところから、現段階では対策は考えていないとの回答しか得られなかった。
 政府折衝の道が開かれないまま被害が増大してきたため、県下各郡の町村長会、町村農会は県当局に対し対策陳情や臨時県会開催を求める決議を次々に行った。これを背景に八月二七日、温泉郡自治会長松田喜三郎は、岡本馬太郎、近藤金四郎ら政友派県議と宇和川濱蔵、西村兵太郎、相田梅太良ら民政派県議一〇名と会合し、臨時県会開催を要求した。これに対し県議側も直ちに具体案を作成して救済運動に着手するため県会開会要求を決定した。議員の請求を受けた県当局は、九月三日付急施事件「旱害対策ニ付関係行政庁ヘ意見書ヲ呈出スルノ件」に関し、臨時県会開会告示を示達した。九月八日の県会では、干害対策に関し県に対する一般意見書及び国に対する意見書のほか、蚕種製造業者救済・蚕糸業に関する意見書、銅山川分水に対する意見書の五つを満場一致で採択した。このうち、政府あての意見書については、議長・副議長が携行して翌九日上京の途につき、一一日、一二日と政府関係機関に提出、陳情した。また、他の県議一同も引き続いて上京し、県選出代議士と合同して政府・関係先に陳情することとなった。その陣容は、仲田傅之□(長に公)貴族院議員をはじめ本県選出代議士全員、県議は岡本馬太郎以下三三名、その他県農会長門田晋ほか郡市農会長など、合計七十余名の大部隊となった。一行は東京九段下の軍人会館に事務所を設け、九月二〇日から文部・農林両省を皮切りに陳情を開始した。
 一方、干害に悩む九州・四国の一〇県知事は、九月二〇日内務省に集合して協議を行い、先の熊本市における一〇県内務部長会議の決議に基づき、各県共通の要望事項を政府当局に要請することに決した。そして各県合同で翌二一日から関係各省首脳を訪問陳情することとなった。

 室戸台風の襲来と増大する災害対策

 干害救済策樹立のため政府が資料の提出を求めていたが、九月一五日現在での県内被害額は、中途集計の段階で既に水稲二、一〇〇万円、林業・養蚕関係を加算すると三、〇〇〇万円を突破していた。こうしていよいよ干害救済陳情運動が本格的に開始された矢先、皮肉にも九月二一日、四国・関西地方は超大型の強烈な台風、室戸台風の猛威にさらされ激甚なる被害を被った。台風の中心は室戸岬の西方より四国に上陸、淡路島、大阪を直撃、同日夕刻金華山沖に出た。中心の西方に当たった本県でも、松山では最大風速二二・八メートル、降雨量一八二ミリが観測され、東予地方では三〇〇~五〇〇ミリの降雨と最大風速三〇メートル以上の暴風雨となった。このため、死者・行方不明三〇名、家屋全壊八五戸、流失七一戸、浸水六、三一四戸、農作物二割減収九〇一町歩等の大被害を受けた。待望の雨を喜ぶ間もなく、干害に加えて風水害の災禍を二重に受けたため、災害対策は厳しさを加えることとなった。田中県内務部長は、本県が陳情した災害救済国庫助成の対象額は旱害二、〇〇〇万円、風水害七〇〇万円、合計二、七〇〇万円の計画であると述べている(「海南新聞」昭和九・一〇・二三付)。
 ところで昭和九年という年は異常気象で、全国的に災害の非常に多い年であった。来襲した台風は九月二一日の室戸台風をはじめ大小十数回に及び、その被害はほとんど全国にわたった。なかでも、北陸の大水害と関西の大風水害とは全国民を戦慄させた。また東北地方の冷害、四国・九州地方の旱害、繭価の暴落が加わり、国民は疲弊した。このため政府は第六六臨時議会を召集し、深刻な地方窮乏の緩和を図るため災害対策事業を行うこととした。このうち内務省関係では、「農林その他応急土木費」として主として道路改良事業を起工し、二か年継続で国費二、五九九万円余を支出した。この配分については各地方から熾烈な陳情が展開された。当局では各府県の窮乏状況を参酌して三段階に分け、第一窮乏地方(大体全体にわたり窮乏の著しい府県)一四県、第二窮乏地方(特殊の地方を除いて窮乏著しい府県)一八県、その他特殊な地方だけが窮乏の一四府県として、事業量を分配した。愛媛県はこのうち第二窮乏地方に位置付けられた。なお、農林省関係としては「旱風水害救済事業」が別途施設された。
 災害対策予算の配当を受けた愛媛県では、昭和九年通常県会に関係追加予算案を提出した。災害土木費関係で昭和九、一〇年継続の九四万円余、災害対策事業費関係がやはり二年継続で二三七万余円、更に昭和一〇年度に災害対策土木費二五万四、六〇〇円、総計三五七万一、五〇六円の巨費であった。歳入面では、国庫助成が二二九万余円、県債九三万余円その他となっていた。このうち、災害対策土木費二五万余円については、国庫助成額に落胆し、県独自の予算提案がないことを不服として予算審議を中断した県会に対し、理事者が急遽その対応として提出したものであった。この措置をもって県会側は、先の臨時県会で要求した意見、五〇〇万円以上の土木工事起工には満たなかったが、理事者の誠意を認めて予算案を可決した。
 年末年始を返上して配当作業に取り組んだ県は、翌一〇年(一九三五)一月一四日に配当決定を各市町村に通知した。配当額は一五三万一、〇〇〇円、内訳は県営事業四六万六、〇〇〇円、市町村助成一〇六万五、〇〇〇円(風水害復旧施設費助成二六万九、〇〇〇円、旱風水害応急施設費助成七九万六、〇〇〇円)であった。配当基準は前年の九月一五日現在の被害報告をもとに第二回の収穫予想を加味したものであった。このほか桑園助成・種苗購入・副業共同作業場建設・農会活動助成など四三万五、〇〇〇円については別途配当とされた。また低利資金配当として旱害応急決済資金七一一万円余、肥料決済または購入資金六二万円余などが配当されることとなった。
 以上のように、時局匡救事業が昭和七~九年度、災害対策が昭和九~一〇年度と多額の財政資金が農村を中心に交付され、各般の救済対策の柱となっていったのである。

 財務出張所の設置と県庁機構の改革

 昭和九年三月三〇日、県の財務に関する事務を処理するために県内郡市に財務出張所が新設され、四月一日から発足した。設置は、松山(管轄区域は松山市・温泉郡)、今治(今治市・越智郡)、丹原(周桑郡)、西条(新居郡)、三島(宇摩郡)、久万(上浮穴郡)、郡中(伊予郡)、大洲(喜多郡)、八幡浜(西宇和郡)、卯之町(東宇和郡)、宇和島(宇和島市・北宇和郡)、御荘(南宇和郡)の一二出張所であった。この設置については、一戸知事が昭和八年通常県会において税の滞納防止と納税義務観念の善導のため係員を駐在させるとし、県税徴収機関拡充整備費三万一、〇〇〇円を提出した。その背景として、昭和七年度滞納額が県税総額の五%、約二〇万円を突破しており、不況の影響とはいえ県財政に大きな支障をきたしていたことによる。県としては苦肉の徴税機能整備であったが、この年の県会以後たびたびその効用の是非が論議されることとなった。
 昭和一〇年一月一五日「地方官官制」の大改正があり、大正一五年以来の知事官房と内務部・学務部・警察部の三部制は知事官房と総務部・学務部・経済部・警察部の四部制に改められた。これに基づき、愛媛県では一月一九日に「愛媛県処務細則」を改正して次のような機構改革を行った(資近代4一六七~一七四)。

  知事官房―秘書課・文書課
  総務部――人事課・統計課・庶務課・地方課・会計課
  学務部――教育課・社寺兵事課・社会課
  経済部――土木課・農商課・林務課・蚕糸課・耕地課・水産課・産業組合課
  警察部――高等警察課・特別高等課・警務課・保安課・刑事課・衛生課・工場課・健康保険課

 なお、その後高等警察課は同一〇年六月一〇日に警察部長書記室と改称され、農商課は同七月二日に農務課と商工課に分課した。


 大場知事と銅山川分水問題の解決

 昭和一〇年(一九三五)一月一五日、岡田啓介内閣によって断行された地方長官大異動により、前関東州庁長官の大場鑑次郎が本県知事に就任した。大場は、明治二一年二月一二日に金子慶治の三男として山形市香澄町に生まれ、同三九年大場徳太郎の養子となった。明治四四年七月東京帝国大学法科大学政治科卒業、同一一月文官高等試験に合格して愛媛県試補を命ぜられ、大正二年愛媛県警視・保安課長に昇格、同三年六月北海道庁理事官に転ずるまで二年六か月の間、本県に在任した。以後、高知県理事官、関東州庁事務官・警察局高等警察課長兼保安課長、東京府内務部長、福岡県内務部長、台湾総督府文教局長を歴任して、昭和八年九月の関東州庁警務局長を経て同九年一二月関東州庁長官となった。大場知事は本県在任二年六か月、昭和一二年七月七日付で依頼免官となり官界を去った(資近代4一六六~一六七)。
 大場知事が最初に編成した昭和一一年度予算案は、昭和七年以来膨張を続けてきた県財政の収縮を図り、健全財政の確立を基本方針とした。県会はこれに対し、健全財政よりも農村救済が優先する課題だとする批判が支配的で、内相あての土木事業に関する陳情書のほか継続土木計画樹立の意見書など新施設を求める建議が相次いだ。翌一二年度予算案においては、財源に余裕が生じたことを背景に「健全財政ヲ損セザル範囲」で新規事業を提案した。その中心となったのが、五か年継続道路橋梁改良事業であった。これは既往五か年計画が昭和一一年度に終了するところから、新たに総工費三一五万円をもって新立新居浜線ほか府県道一七線の新設及び国道第二四号線ほか府県道六線の改良を行うものであった。
 県会では全般的に、県の積極財政策特に土木・勧業費の増額を評価する空気が強かったが、一部で財源を起債に求める点に憂慮する声も聞かれた。「海南新聞」の予算論評では、県財政は現在一、二〇〇万円の県債を擁している、予算案では自然増収・歳出当然減で四三万余円の財源捻出にかかわらず、なお八四万余円の起債発行はどうしたことか、県財政の健全性を損じない範囲とは受け取り難いと論じ、健全財政に立脚し公債政策を排するのが至当であり、県債に求める八四万余すなわち予算総額の一割を削減せよと主張していた。
 この昭和一一年通常県会には、「意見書の洪水」と評せられる多数の建議が提出された。内容分類では、勧業関係一〇、土木関係八、教育関係五、その他二であった。こうした大場県政の中で最大の治績は、本県長年の懸案であった銅山川分水問題の解決であった。大場知事は、前任一戸知事が離任直前に徳島県側に示していた疏水事業計画中の発電事業を除外する譲歩案を踏襲、昭和一〇年七月以降ねばり強く内務省を仲介とする対徳島県折衝を続けた。そしてついに翌一一年一月三〇日内務省案に基づく銅山川分水協定が成立、大場知事と戸塚徳島県知事とが一二項目の協定書に調印、ここにようやく銅山川疏水工事が開始されることになった。

図4-1 農山漁村経済更生計画の樹立

図4-1 農山漁村経済更生計画の樹立


表4-1 愛媛県の農山漁村経済更生計画樹立町村

表4-1 愛媛県の農山漁村経済更生計画樹立町村


表4-2 愛媛県における時局匡救事業関係決算表

表4-2 愛媛県における時局匡救事業関係決算表