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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 軍備の拡充と権益保護

 師団の増設と所管の変更

 日露戦争後、ロシアはウラジオ要塞を強化し、シベリア鉄道の複線化に着手するなど、極東の兵備増強を進めていた。陸軍も兵器装具を改善し、明治四〇年(一九〇七)には歩兵の在営期間を二年間に短縮する一方、後備役期間を二倍の一〇年に延長して、既教育兵と動員力の増加を図った。また日露戦争で増設した四個師団の外に新しく二個師団を新設し、これで陸軍の師団数は一九となった。この軍備の拡充に伴い、同年一〇月、歩兵第22連隊は再び第5師団(司令部広島)の管轄下に置かれることになった。また徴兵管区については、宇摩・新居・周桑の東予三郡と上浮穴郡とが第11師団隷下歩兵第43連隊(当時は普通寺に駐屯)の管区と定められた。このときの編制概要は次の通りであった。(図表 「編成概要」 参照)
 明治四一年には条例により連隊内に将校団が設けられ、団結心を強固にするとともに、軍事上の知識を増進する目的の研鑽が行われた。

 満州駐剳

 遼東半島租借権及び南満洲鉄道領有の権益を確保し、付近の居留民を保護する目的で明治四〇年三月から守備隊が満州(洲)に配置せられていた。
 同四四年、第5師団に対し、第11師団と交代して満州駐剳の任務につく命令が下された。第22連隊は四月九・一一日高浜港乗船、同月一三・一五日旅順港に上陸し、歩兵第62連隊と交代、その任務を引き継いだ。
 孫文による辛亥革命により、翌四五年、租借地内においても官革両軍の交戦が予想されるに至った。これを防止する任務を与えられた第22連隊は、その主力が金廠屯に、一部が万家岑・蓋平に進み警戒に任じた。三月一日、その任務が無事終了したので旅順に帰還した。同日、柳樹屯に在った歩兵第11連隊が天津方面に出動したので、六日第3大隊長の指揮する第11・第12中隊を同地に派遣した。この部隊も六月二四日には連隊に復帰した。
 この間、駐剳部隊は現地の政治に容喙することを厳しく戒められていた。連隊は満州の地形を活用して演習を重ね、戦跡を訪ねて戦史の研修に努めた。幸い守備地域内での衝突はなく、大正二年四月、その任務を終了した。連隊は歩兵第30連隊と交代し、同月二六・二七日の両日旅順港を出帆、三〇日及び五月一日高浜へ上陸帰還した。
 大正五年から七年にかけて順次兵営の改築が行われ、内外装が一新された。

 天津守備

 大正六年(一九一七)九月二五目、天津派遣隊の交代として、第4中隊(長・大尉澄田建三)一四八名が天津に派遣せられ、同地に駐屯して治安警備に任じた。この中隊は一年間の任務を終え、翌七年九月三〇日、原隊に帰還した。

図表 編成概要

図表 編成概要