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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 保健衛生の向上

 防疫体制の強化

 江戸時代から明治時代にかけて多くの人命を奪った急性伝染病の流行は、防疫体制の整備に伴い減少した。幕末の安政年間と明治一〇、一二年に猛威を振るったコレラは、その後も明治一九、二三、二八年に大流行したが、病原体が明らかにされ予防措置、特に港の検疫徹底で未然に阻止できるようになった。明治三二年我が国に初めて侵入したペストは、同三九、四二、四三年本県の南予地方に患者、死者を出し県民を震がいさせたが、その後絶えた。痘瘡は種痘の普及で、明治時代後期に四回程度流行するにとどまった。
 大正時代に入っても流行を繰り返したのは赤痢と腸チフスであった。赤痢は明治一六~二二年、同二五~三〇年に大流行した。とりわけ、明治二六年は患者数一万五、三七七人、死者三、六八七人、翌二七年は患者数九、六八七人・死者二、二六五人を出した。県衛生課は防疫にやっきとなり、郡市町村に隔離病舎の整備と消毒・清潔法の厳行を促し、警察署に隠蔽患者の発見と強制隔離を命じた。
 こうした予防対策の強化と志賀潔による赤痢菌の発見などで明治三〇年代には赤痢は急速に衰えをみせたが、明治四二~四四年の三年間一、○○○人以上の患者が連続して発生した。県衛生課は、この原因は衛生思想の普及発達に欠けるところにあるとして、新聞紙上で公衆衛生の重要性を論じ、各地で衛生講話会を開いて啓蒙に努めた。また定期・臨時清潔法の励行を呼びかけるとともに、大正三年一月には「消毒施行手続」を発布して、患家の台所・居間・便所などの屋内消毒・下水溝・汚水溜・塵芥などの屋外消毒方法について関係方面に指示した。大正一五年九月には明治二九年の「清潔法施行規程」を改正して、定期清潔法は毎年一回四月から一〇月の間に市町村長が施行する、臨時清潔法の実施は知事が命ずるなど、清潔法を半強制的に実行することにした。消毒法・清潔法の励行は、時に徹底した無差別消毒の強行などで住民の非難を浴びることもあったが、隣保共同しての大掃除がこの時期の風物詩となり、交流の場を提供した。病毒浸入の後に消毒・隔離などの非常措置に追われた明治期に比べ、伝染病流行の前に病毒を阻止しようとする予防法の実施が可能になったことは、防疫面で数段の進歩であった。この結果、一、〇〇〇人以上の患者を出すことはなくなったが、上下水道など公共衛生施設がなおざりにされていた当時にあっては、汚水が井戸に流れ込んで局地的な赤痢の蔓延が続いた。
 腸チフスは、明治時代には神経熱などと称して一種の熱病で片付けられる傾向が強く、ともすればコレラや赤痢の陰にかくれていた。県は大正元年以後開業医に疑似腸チフス患者の届け出を励行させ、同患者多発地域には警察医・検疫官を派遣して糞便の採集、細菌検査を行うなど患者の発見に努めたので、統計上での腸チフス患者は増大した。大正四年には一、○八八人の罹患者があり、この年には赤痢・パラチフス・ヂフテリアも同時に流行したから、県は八月に緊急訓令を発して臨時清潔法の施行を促し、翌五年二月には病菌の発育が弱い寒冷の時季に掃蕩しなければならないとして消毒的清潔法の実施を指示した。しかしこの年も腸チフスが大流行して前年をしのぐ勢いであったから、八月、伝染経路を解説して、各人摂生に注意し健康を保持すること、患者を隠蔽することが一家一時に病者を出し病毒を広く散蔓させて多数の患者を続発させる事例が多いので、公衆衛生を重んじ隣保相戒めて共同の力で予防撲滅に努められたいと告諭した(資近代3六七六)。この年の腸チフス患者は一、一七三人(うち死者一七九人)であった。二年連続の大流行で衝撃を受けた県は、大正六年一一月一六日に「伝染病予防法及同施行規則取扱細則」を一部改正して、腸チフス患者の自宅療養許可条件を厳しくした。また病菌が糞便を通じて伝播するところから、同七年三月一六日には「菌保有者取扱規程」を定めて採便検査を強制し、既設の県衛生課細菌検査室の外に今治・宇和島警察署内にも検査室を設けてこれに備えた。この県当局の防疫体制の強化徹底に対し、医師出身の松本経愛・林実正県議らは、規則の強行と隔離病舎の設備の悪さがむしろ患者の隠蔽を多くしていると県会で指摘、衛生思想の普及向上と上下水道の整備を要望した。当時の隔離病舎の大半は、山の中腹か河川の堤防・原野の中など人家と隔絶した位置に設けられ、医務室もなく粗末な病室で患者と看護家族が同居するといった不完全なものであった。その後も、隔離病舎の不備と隠蔽の悪循環は長く続いた。ほぼ完全な設備をもった伝染病院・隔離病舎が建設されるのはごく最近になってからである。
 腸チフスの流行はその後も毎年続き、赤痢患者数を追い越して五〇〇人を下る年は少なかった。大正元年ごろから感作ワクチンの注射が普及しはじめ、本県も同八年度の流行時に五万人分のワクチンを買い込み、流行地二〇か町村八、五五六人に注射を行った。県医師会からも腸チフス予防にはワクチン注射を普及させることが最も効果的であると具申され、県当局はワクチン予防接種の効用宣伝を始めた。しかしワクチン接種は種痘のように法律で規制されたものでなく、高熱を発する副作用を伴うことや注射代が有料であることも重なって普及状況ははかばかしくなかった。
 大正七年には″スペインかぜ″と呼ばれる流行性感冒(インフルエンザ)が世界的に大流行した。日本でも多くの国民が罹患し、死者も少なくなかった。一一月、県は「流行性感冒予防ニ関スル告諭」を出し、「其流行状態甚タ劇甚ニシテ保健上憂慮ニ堪ヘサルモノアリ」として、インフルエンザ病原菌、飛沫伝染の経路、症状を解説、うがいの励行と日光消毒などの予防法をあげて各自の摂生注意を呼びかけた(資近代3六八五~六八六)。本県の流行性感冒による死者数は届け出制でないため明確でないが、この年の死亡統計を報じた「海南新聞」は、「流行性感冒猖獗の為にあたら貴き命を棒に振ってしまったものが頗る夥多」と解説している。休校する学校は全県下に及び、県会も議員欠席のため会期の大半を休会した。大正一三年(一九二四)には今日日本脳炎に統一呼称されている嗜眠性脳炎が流行して、予防治療法も分からないままに異様な病状と致死率が高いところから″眠り病″と恐れられた。この年本県では二一二人の患者を出し、うち七〇人が死亡した。嗜眠性脳炎は昭和七、八年にも流行して一〇数人の死者を出した。

 結核予防の開始

 結核は古来不治の病として人々に恐れられた。伝染病であることは早くから分かっていたが、ドイツのコッホが結核菌を発見したのは一八八二(明治一五)年であった。この年、我が国では初めて結核実態調査を行い、その後も結核死亡統計の集計が継続された。本県の結核病者の死亡者数は明治二〇年代が、一、一〇〇人前後であり、同三〇年代は一、六〇〇~一、九〇〇人に増加した。
 結核予防が本格化するのは大正時代に入ってからであった。大正二年二月日本結核予防協会が設立されたが、本県でも翌三年に愛媛県結核予防協会結成の動きが起こり、同四年一二月三日北里柴三郎・志賀潔を迎えて発会式を挙行した。この結核予防協会は県から補助金を与えられ、結核予防に関する知識の普及と消毒所・結核相談所・結核診療所・結核療養所の設立推進などを事業内容としたが、予期したほど会員が集まらず発足当初数か年の活動は低調であった。愛媛県結核予防協会は、昭和六年一〇月日本結核予防協会に加入するが、この頃には結核予防啓蒙宣伝の中心機関として活発な活動を展開していた。
 大正八年三月二七日「結核予防法」が制定され、汚染家屋物件の消毒と健康診断の実施、予防施設・療養所の設置、失業結核患者の生活費支給などを定めた。本県は翌九年一〇月一六日に「結核予防法施行細則」を発布して、健康診断を行うべき接客業種や痰壺の設置場所を示し、貧困患者の生活補助支給額を定めた(資社会経済下七〇四~七〇六)。この法律に基づき、政府は長崎・広島の両市に対して療養所設置の命令を出し、その後も毎年二、三の都市に療養所が設置された。本県の松山市は結核患者が多かったので療養所の設置指令が予想されたが、県・市ともに誘致に積極的でなかった。日本赤十字社愛媛支部が大正八年二番町に病院を移転新築するに際し付設した結核隔離病棟、大正一四年昇田栄と門田稠紀の両医師が私財をもって梅津寺に設立した私立療養所が数少ない結核療養施設であった。消毒所は、大正一〇年以来昭和三年までに松山市など各市町の警察署・派出所一七か所に設けられた。
 大正年間から昭和初期の本県での肺結核死亡者は、一、二五〇~一、四〇〇人の人の間を前後し、大正七年にはインフルエンザの流行が体力の弱っている患者の死亡率を高め、死者一、六一六人(男六七五・女九四一)に達した。有効な抗結核薬が見いだせず肺切除術も発達していないこの時期には結核患者の治癒はおぼつかず、専ら結核にかからないよう予防に努めるよりほかはなかった。
 大正一四年(一九二五)から三月二七日、つまり結核予防法が発布された日を″結核予防デー″として一大啓蒙運動が全国一斉に挙行された。この日、松山市では市内各所で仮装自動車パレードを行い宣伝ビラ五万枚を散布、婦人会は予防標語のリボンをつけた鈴蘭の造花を松山駅前・一番町停留場の目抜き通りで通行人に販売し、数か所で衛生講話会が開かれた。県内各地でも同様の行事が展開された。「海南新聞」・「愛媛新報」ともに「けふは結核予防デー結核は家を亡ぼし国を倒す、お互に結核をこの社会から無くしませう」の見出しを付け、県衛生課長野本正二郎の「結核予防の話」を掲載するなど、予防デーの意義を大きく報道して宣伝に寄与した。
 この予防デーは大正一五年から四月二七日に変更され、宣伝ビラの配布・自動車宣伝・講演会などの啓蒙運動行事が繰り広げられた。昭和四年の春は、「協力一致、此の亡国病を駆逐しよう」を標語として運動が展開された。新聞は、「今日ぞ予防デー 結核の大征伐 全国で宣伝クラベ」「県下をあげて結核菌を総攻撃 鳴物入りの大々な宣伝、今日の予防デー」などの見出しを掲げて、これに協力した。これらの啓蒙宣伝で県民に結核予防思想が普及していったが、肺結核による死亡者は昭和七年以後二、〇〇〇人を超え、有効な予防・治療施設として結核療養所の設置が県医師会などから要望された。
 四国四県には、古来業病として嫌悪されたらい患者が遍路として巡礼徘徊する姿が見られた。これらのらい浮浪者は明治四二年に設置された香川県の大島療養所に収容されたが、一般のらい患者は世間の目を逃れてわびしい自宅療養を続けた。家族は病者を極力隠蔽したので自宅療養患者の実数を把握することは容易ではなかったが、昭和五年県衛生課は極秘調査を行って、男一九二人・女五〇人計二四二人の患者を見いだした。昭和六年四月二日に制定された「癩予防法」で、自宅療養者は生活費を補給され、らい療養所に収容することも可能になった。
 蔓延著しいトラホームについては、その予防撲滅に関する一般法規として大正八年(一九一九)三月二七日「トラホーム予防法」が判定された。昭和二年(一九二七)四月五日には「花柳病予防法」が公布されて、従来の取り締まり対象の範囲を拡大して性病予防の徹底を期した。昭和六年四月二日には「寄生虫病予防法」が定められ、予防対策の法制化を図った。こうして各種慢性疾患予防の基礎は、この時期におおむね樹立された。

 医療保護と健康保険制度の成立

 大正・昭和時代初期、医療機関は飛躍的に発展した。経営不振に陥っていた県立松山病院は、大正二年から日本赤十字社が引き継いで愛媛支部病院として新発足、同八年二番町に洋館建ての新病舎を新築して移転、県民の信頼を集めて盛況であった。公立病院としては、明治四三年に創立された町立宇和島病院に続いて、大正八年町立川之石病院、同一〇年町立吉田病院、昭和三年に町立八幡浜病院が開院した。私立病院は、別子住友病院はじめ今治市の温厲堂病院・白石病院・藤原病院・今治病院、松山市の奥島病院・守屋病院などが開院しており、昭和恐慌を脱した昭和九年ころから顕著な増加が見られた。また昭和五年創設の今治脳病院と同七年新設の松山脳病院もこの時期に誕生した。医師は大学・専門学校出身の開業医が大正元年の二一五人から昭和元年に四四〇人、同一一年に五〇一人に増えて医界の中心となったが、医師の総数は大正元年の六八一人に対し昭和元年六七一人、同七年六四〇人とむしろ減少した。
 学校出身の新しい医者の台頭と医学・医術の進歩に伴う医療内容の向上は医療需要を高めたが、同時に医療単価を引き上げることになり、低賃金・低収入に苦しむ階層は治療を受けられなかった。これに、医師の高額所得への羨望や医師は仁術的要素を持つべきだとする社会通念が入り交って、その営利主義が厳しく批判された。「海南新聞」昭和四年一二月一一日付社説は、「医術は仁術であり、医者は仁者であるとは洋の東西を通じて古くからの常識である。ところが今日の如く黄金萬能の時代に至っては、医師といへども診療代償の多きのみ走り、富者を迎へるに厚く、貧者を迎へるに薄情、この傾向は滔々として市井の医界に満ち渡っているように観察される」と論難している。しかし営利事業である開業医の温情と犠牲を求めるには限界があり、この時期には貧困者・低所得者の医療費を社会で負担し、支出の低減を図ろうとする動きが顕著になってきた。明治四四年五月に創設された恩賜財団済生会の医療救護、昭和二年から始められた日赤愛媛支部病院の県内無料巡回診療、同七年から実施の「救護法」による公的扶助としての医療保護、大正一一年開始の宇和島市営診療所の実費診療、同一二年開設の松山市営診療所の無料診療及び昭和三年同診療所の実費診療の併設、大正一一年四月に成立した「健康保険法」による医療保険などがそれである。
 済生会は、明治天皇からの救療資金一五〇万円と民間有志の寄付金二、〇〇〇万円を基金に、貧困者に対する施療を目的として生まれた。同会は東京で救療事業を直接経営したが、各都道府県に予算分配する関係からその事務を行政庁に委嘱した。済生会診療は明治四五年(一九一二)より開始された。本県は、「済生会愛媛県診療規程・同施行細則」を制定した。施療券を交付されて無料で医療を受ける資格は赤貧で扶養義務者や隣保で救療することのできない者であり、該当者の調査報告を市町村長・警察官に命じた。施療券は治療券・往診券・手術券・入院券の四種に分かれ、診療券入院券二〇枚、往診券五枚、手術券一枚を限度として配布するとされたが、厳しい資格条件のため「診療規程に該当して施療を受くべきものの実査数は案外少数にして県下を通じ三〇〇名を越えない」(「海南新聞」大正二・一・八付)といわれた。
 済生会規程及びその施行細則は大正五年に改正され、診療を希望する者はその住所の市町村長または警察署長・巡査に申し出てその審査を経た上で施療券を下付されることになったが、その資格条件などの変更はなかった。この時定められた済生会薬価は、散水薬一日分金六銭、頓服薬一包三銭、皮下注射一回五銭であり、医師会の慣行薬価が二五銭といわれた大正末年に至ってもそのまま据え置かれた。昭和初年、県医師会の建議で薬価二〇銭以内、皮下注射一五銭に引き上げられたがなお安く、医者の中には施療券を使用する患者に侮辱的な態度を示したり、施療に応じない者も見られた。このため施療券を交付されても使用しない患者もあって施療状態は低調であったが、大正末年から昭和初めの経済恐慌で貧民の施療患者が増加した。例えば松山市は大正五年(一九一六)時四〇人であったのが、同一五年一一五人、昭和二年一九八人に達した。このため済生会予算では、貧困者の救療費に不足を来して事業遂行が困難になり、この年松山市では四一人しか施療券を受けられなかった。
 これを補う形で実施されたのが「救護法」による公費施療であった。同法は昭和四年四月二日に公布されたが、国の財政上の理由から直ちに実施するに至らず同七年一月一日から施行された。この法で救護すべき対象者は、六五歳以上の老衰者、一三歳以下の幼者、妊産婦、不具廃疾など身体の障害で労務を行えない者のうち、貧困のため生活不能の人々に限定していたので、近代的な社会問題としての貧困に対処するには不十分であった。しかしともかく公的扶助による医療保護制度が生まれたのであり、本県は同七年一月一日に「救護法施行細則」を定めて、済生会施療と同額の診療費・薬価を示した。昭和八年における本県の公費救療患者は三、〇〇三人、済生会資金患者数は二、二六二人であった。
 済生会は、従来行ってきた救療事業の対象の多くが救護法に吸収されたので、新たな事業として軽費診療事業を開始した。本県でも昭和一三年までに新居郡大島村(現新居浜市)・宇摩郡上山村(現新宮村)・伊予郡佐礼谷村(現中山町)・喜多郡喜多灘村(現長浜町)・同郡御祓村(現五十崎町)・南宇和郡緑僧都村(現城辺町)などの八か村に出張診療所を設置して、地域の開業医師に出張診療を委託した。また同一四年今治市に、同一八年松山市に済生会診療所を開いた。日本赤十字社愛媛支部病院は、昭和二年に無医地域の貧困者を対象とする巡回診療を始めた。この年一九か村、同三年四四か村、同四年七五か村、同五年四三か村を巡回して貧困者の無料診療を行い一大福音として感謝されながら同一七年まで続けられた。
 医師会でも、郡市単位に貧困者のための救療活動を行った。松山市医師会は大正七年の物価暴騰時に貧病者に無料施療券を交付した。昭和初年には貧困家庭の妊産婦のため無料産院を開き、同五年以降被救護者に対し無料往診を開始している。
 薄給の階層を対象とした医療施設として、この時期全国各地に開設されたのが実費診療所であった。本県では、大正一一年に宇和島市営診療所、同一二年に松山市営診療所が設立された。松山市営診療所は、「市内現住者ニシテ医療ヲ受クル資力ナキ者ニ対シ施療ヲ為ス」ことを目的にして、千舟町の市医大森医師宅を仮診療所に医師一名・看護婦一名のささやかな陣営で六月開業した。計画段階では実費診療を予定したが、市医師会の了解を得られなかったので、歩を進めて無料とした。診療科目は内科のみで診療時間も午後に限定したが、予想以上の患者数に対処して翌一三年から市医天岸一順に兼務を嘱託した。この年の開設日数は二九八日、患者延人員四、六八七人、一目平均一五・七人の患者数であった。同一四年八月、出淵町の市有家屋を改築して移転独立、終日診療を開始したところ、一日平均の患者数は七〇人に達した。診療所開設の目的普及に伴い中産階級以下のために実費診療実施せよとの市民の要望が高まったので、昭和三年六月無料診療のほかに実費診療を行うことにし、診療所も古町と外側の二か所を増設した。この際、無料診療の資格は公費の救助を受けている者、戸数割免除者、方面委員が実費診療費を支払うに窮すると認定した者と定め、実費診療者との区別を明確にした。この年三か所の診療所で診療を受けた初診患者数は三、五一九人(うち無料の者四六九人)、一か所一日取り扱い患者数平均一五人であった。しかし実費診療所は、医師会との協定で健康相談に類する診療しかできなかったので、昭和六年には患者数二、八六八人(うち無料の者六〇九人)に減少した。このため、出淵町の診療所のみを残して他の二か所は閉鎖した。
 医師がいないため地域の人々こぞって医療を受けられない無医村の存在は、医療保護の面から大きな社会問題であった。昭和三年時で本県には二七〇余の町村中無医村六二を算し、医師数の減少もあって同七年には九〇に増加した。県は同年一〇月七日に「医師設置補助規程」を定めて無医村に医師招聘か出張診療を勧奨した(資近代4二三一)。無医村は医師設置組合を作って医師の勧誘に努めたが、医師の定住は望めず、出張診療に来てくれれば成功とされた。無医村対策としての診療所建設は、昭和九~一一年の間に三菱財団の寄付で進められ、北宇和郡日振島村(現宇和島市)・喜多郡柳沢村(現大洲市)・宇摩郡川滝村(現川之江市)など一六か所に設置された。昭和一二年からは国費の補助を含む県費で県営診療所建設一〇か年計画が開始され、この年新居郡大保木村(現西条市)・温泉郡湯山村(現松山市)・上浮穴郡参川村(現小田町)の三か所に設置された。しかし診療所が出来ても専属医の配置は容易に実現せず、昭和一三年末で医師が赴任した診療所はわずか八か所に過ぎなかった。
 第一次世界大戦によって我が国の産業は飛躍的に発展を遂げ労働者が増加したが、劣悪な労働条件下で健康を害しながらも生活窮乏のため医療を受けられない者が多かった。これら低所得労働者を対象に大正一一年四月二二日「健康保険法」が制定されて同一五年七月に施行、昭和二年一月一日から保険給付を開始した。同法では、保険者は政府の直接管理を原則とし健康保険組合による自治運営を付随的に認め、被保険者については一定額以上の俸給の職員を除き「工場法」・「鉱業法」の適用を受ける工場または事業場に使用される者を強制被保険者とするとともに動力業・鉄道業などに使用される者には任意包括加入の途を開いた。この政府管掌及び健康保険組合下の本県被保険者数は初年度の昭和元年で二万六、二七二人であり、伊予鉄道電気会社など九事業場で保険組合が結成された。政府管掌保険の業務は全国五〇か所に設置された健康保険署が取り扱ったが、昭和四年に府県に移管された。
 健康保険実施に際して、政府と大日本医師会の間に団体自由選択主義による診療契約が結ばれた。愛媛県医師会は契約の線に沿って準備を進め、大正一五年一一月「県医師会健康保険規程」などを定め、保険医二七六名を指定した。また健康保険署との間に医療一点単価の交渉を行い、二〇銭で妥協した。当時医師会規程の自由診療料金は二五銭であり、済生会・救護法による施療同様健康保険もまた医師に犠牲を強いた。このため医師は被保険者には制限診療をするとか乱診・乱療で稼ぐなどと非難喧伝された。