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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

2 鉄道

 伊予鉄電と松山電軌の抗争と合併

 大正年代における鉄道の分野では、伊予鉄道電気㈱(伊予鉄電)と松山電気軌道㈱(松山電軌)の激烈な競争から述べなければならない。伊予鉄電は高浜・郡中・横河原・森松・一番町・古町の各線を運営し、松山平野の運輸業を独占していた。また電気事業を経営し、大きい利益をあげていたが、会社の主要幹部が立憲同志会のちの憲政会系であった。そこで、政友会の幹部は三津町民がかねてから伊予鉄電の高浜延長、並びに高浜開港を喜ばなかったのを利用し、同町の有力者と連携して、松山電気軌道株式会社を創設した。同社は伊予鉄電の打倒を目的とし、三津江ノロと道後温泉を結び、全線に電車を運転した。三津港に注ぐ宮前川を渡ると、県道を利用して三本柳・山西に出て、県道から離れて衣山で再び路面電車となり、六軒屋から坂道を上がって、伊予鉄電の高浜・古町線を跨ぎ、萱町で再び路面を走り、札ノ辻・西堀端・南堀端を通り、一番町停車場に入った。これから田畑を抜けて、六角堂で路面に出て、やがて伊予鉄の一番町線の上を跨ぎ、公園前から路面を走った。このように三津―萱町間は、伊予鉄の三津―古町間にほとんど並行し、一番町から道後温泉までの線路も伊予鉄のそれとほとんど変わらなかったといってもよいであろう。
 伊予鉄電は松山電軌が軽快な電車を運転するのに対抗する必要から、一番町・古町線を電化し電車を新造した。これまで両線には開通以来「坊っちゃん列車」が煙をはいて走っていた。鉄電ではそのため、二フィート六インチの線路を三フィート六インチに拡幅し、プラットホームなどの施設を改良した。鉄電では松山電軌の開通より早く、電車を運転した。
 その後の両者の競争は、激烈を極め、往復乗車券の割引、更に運賃の割引をはじめ、鉄電の梅津寺海水浴場に対抗して、松電は三津浜海水浴場・知新園を開発して宣伝した。また一番町と道後の両駅では、駅舎が並んでいたため、電車の発車前に駅員は鈴を振って客集めをする珍風景が話題となった。また市街地では電灯合戦が展開し、隣同志で鉄電と松電の違った電灯がともる有り様であった。伊予鉄は三津―道後間以外に、郡中・横河原・森松などの路線があったのに対し、松電は他の収入を持たなかったので、次第に赤字が累積した。
 両社の運転開始以前から識者の間では、松山・三津浜・道後をめぐっての両者の抗争を無謀とするものが多かった。そのため両社の幹部の間では、合併して合理化する案が討議されたが、松電の株主総会では、感情上の問題から合併を承認しなかった。松電では経営不振から社長が度々交替した。ついに松電は経営維持が困難となり、大正一〇年五月に伊予鉄電に吸収合併され、抗争に終止符が打たれた。その後、伊予鉄電では併行線の整理を行い、松電の道後―一番町間を廃止し、一番町―江ノ口間の線路を三フィート六インチに改築して、鉄電の道後―一番町の線路に連結したので、同一二年五月から全線が直通運転された。

 高浜線の複線電化

 伊予鉄電の高浜・郡中・横河原・森松の各線には、創業以来の水槽付四輪蒸気機関車と小型客車が走っていた。昭和二年四月に、国鉄予讃線も松山まで開通するので、伊予鉄電では時勢に順応するために、観光客及び乗客の最も多い高浜線を複線で電化することになった。鉄電では、同年一月にその認可を受け、社内に電化委員会を組織して具体案の討議をすすめた。従来の二フィート六インチの軌間を三フィート六インチに拡幅するとともに、複線敷設の用地の買収に努めた。しかし松山市―古町間では、住宅地が多かったので困難を極めるなかで、複線化に伴うプラットホームの拡張・増設工事が実施された。それから四年三か月後、昭和六年五月から電車による単線運転、七月から施設の完備により複線運転を開始した。殊に当時では地方に見ることのできない複線であったから、合理的な運転が可能となり、その完成は運輸史上画期的な事項であった。
 この高浜線の電化と同時に問題となったのは、横河原・森松の両線の軌間の拡築工事であった。当時高浜・横河原・森松線の貨車は、積載する貨物の性質上からも相互に乗り入れする必要があった。これに反し、郡中線にはそれほどの需要がないとし、この線のみはそのままとした。この横・森線の軌間を三フィート六インチにする工事は、およそ三か月を要し、前者は一〇月六日に、後者は一二日に完成し、新しい線路の上を列車が走った。

 伊予鉄城南線の整備

 昭和二年(一九二七)四月に開通した国鉄松山駅と伊予鉄電の連絡は、古町駅から南西方へ進み、松山駅構内に乗り入れた線路を走る電車のみであった。そのために、城南軌道線から松山駅に赴く乗客は、古町駅まで迂回し、ここで乗り換えなければならず、距離と時間と運賃のうえで、極めて非合理であり、かつ不便であった。そこで萱町停留場を終点とした城南線の線路を古町駅構内まで乗り入れるとともに、松山駅へ向かう線路に直結した。昭和四年四月にこの工事が竣工したので、城南線の乗客は直通の電車で松山駅に到着することができた。
 しかしながら、国鉄松山駅と鉄電との連絡は古町回りという不便があった。鉄電ではこの悩みを解決するために、城南線の西堀端から分岐し、大手町を直進して駅前に至る最短の路線の敷設が考究されていた。この大手町線には、交通上の隘路があった。それは鉄道高浜線と平面交差しなければならず、鉄道線と軌道線の交差には問題があった。昭和九年(一九三四)六月に軌道敷設の特許が下り、同一一年五月から大手町線の運転が開始された。この時、古町―松山駅間の路線を松山駅構内から引き離して、大手町線に連結したので、西堀端―松山駅前―古町―本町―西堀端間が環状線となった。同時に城南線の単線区間のうち、西堀端―裁判所前を複線としたので、能率的な電車の運行が可能になった。

 郡中線路の拡幅

 前述のとおり、郡中線のみは軌間二フィート六インチのままで運転されていたが、貨車の輸送の場合、高浜・横河原・森松の三線を軌間の異なる郡中線に乗り入れることができなかった。伊予鉄電では郡中線の軌間を拡幅して、全鉄道の軌間を統一し、いずれの車輛も四線に自由に運転できるようにする必要に迫られた。昭和一二年七月に、この拡幅工事は完了し、同線の近代化に成功した。更に終点の郡中駅から南に〇・六キロメートルを延長して、国鉄南郡中駅前に郡中港駅をつくり、両者の連絡を密にし、やがて連帯運輸も行われるようになった。

 愛媛鉄道・宇和島鉄道

 大洲地域を中心とした鉄道建設事業の具体化は、西予電気軌道会社が設立され、遠大な企画のもとに、明治四三年六月に郡中―大洲―八幡浜間を請願したのに始まる。翌四四年九月に、愛媛鉄道と改称し、資金の収集に努めたが、この間に処した有志の苦心は容易なものではなかった。大正五年ようやく工事に着手したが、第一次世界大戦と物価の高騰によって、計画を縮小して軽便鉄道とし、比較的工事の容易である平坦な大洲盆地に限定しなければならなかった。
 同七年二月に、まず長浜―大洲間が開業し、九年五月に大洲―内子間が開通し、直通列車が運転された。しかし梅雨期前後には肱川が氾濫して洪水となり、その影響による鉄道の被害が大きく、その経営は苦労の連続であった。予讃線が西進するに及んで、国鉄は愛媛鉄道の長浜・大洲・内子間を移管して、予讃本線・内子線とすることとなり、昭和八年一〇月に買収することに決定した。その後、軽便鉄道の軌間を三フィート六インチに拡幅する工事をはじめ、一部路線の変更もあり、内子線は五郎駅で分岐した。本線は同一一年九月に伊予平野駅まで直通運転された。
 宇和島地域での鉄道敷設の企画は古く、明治二九年(一八九六)であったが、成功しなかった。その後、今西幹一郎ら同地域の有志によって再建された宇和島鉄道は、軽便鉄道として宇和島より三間平野を東進して北宇和郡旭村間の敷設に全力を注いだ。同社幹部の苦心によって、大正三年(一九一四)一〇月に宇和島―近永間が開通し、延長工事も困難を重ねたが、同一二年一二月に近永―吉野生間を列車が走った。昭和八年(一九三三)八月に、国鉄の経営に移り、鉄道軌間の拡幅工事を始め改良工事が施された。現在は北宇和島駅から高知県を結ぶJR予土線の一部となっている。

 国有鉄道の延長

 明治持代には、松山市を取り巻いて伊予鉄道があるに過ぎず、県内に国有鉄道は存在しなかった。大正五年四月に、国鉄が香川県の観音寺駅から西南に向かい、県境を越え川之江駅までようやく開通した。それから線路は西進して、伊予三島駅まで開通したのが翌六年九月であった。次いで伊予土居駅が同八年九月、伊予西条駅が同一〇年六月、壬生川駅が同一二年五月、今治駅が翌一三年二月、菊間駅が翌一四年六月、伊予北条駅が同一五年三月、松山駅が昭和二年四月であった。これまで県庁所在地でありながら、国鉄の駅がなかったのは松山市のみであった。国鉄線が松山まで延長されたため、それまで正式には讃予線と称した路線名は昭和五年に予讃線と改称された。
 次に松山以南における状況を見ると、同五年二月に南郡中(のち伊予市)駅、同七年一二月に伊予上灘駅、同一〇年六月に下灘駅、翌一一年九月に大洲駅を越えて次の伊予平野駅、同一四年二月に八幡浜駅に延長開通した。戦時色濃厚ななかで、国策上からも予讃本線(高松―宇和島間)の全通が緊急に必要であったが、海外情勢の緊迫化、資財の統制の重圧のなかで、容易に進捗しなかった。
 県下で国鉄の延長の必要性が叫ばれていたにもかかわらず、進捗しなかった理由を考えてみよう。まず第一に、鉄道の敷設に当たって、沿道の市町村の間で経由路線の争奪戦が繰り返され、これに政党の利害がからみ、また政変によって政党内閣が更迭されると、既定の計画がくつがえされ、路線が一変することもあった。そのため、鉄道敷設が遅延し、その間に無駄な時間と冗費が多かったことである。一例をあげると、伊予北条から南進して松山市に達する場合、堀江から平坦部を南下して、松山市の西端に至る最短距離が予定線として決められていた。ところが、内閣の更迭と地元政界の変動に伴い、直線コースをとらないで、和気駅から西南進し舟ヶ谷を抜けて三津浜町の東端に出て、田圃のなかに三津浜駅をつくり、更に掘り割りを通って東南進して松山市の郊外に達する路線に変更された。
 第二に考えられることは、沿岸地域では海運が発達していて、神戸・大阪港をはじめ対岸の福山・尾道・広島港への定期船が増加し、極めて便利であったことによる。特に物資の輸送には、船舶による方が運賃が低廉であったから、一般の人たちは国鉄について比較的関心が薄かった。海運会社は施設の完備した優秀船を新造したので、地元の旅行客の多くは船便を利用した。これらの諸条件が予讃線の延長と発展とを遅れさす要素であったことは、否定できないであろう。