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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

五 社会事業の整備

 大正期の社会行政と社会課の設置

 明治期における我が国の社会事業は、明治七年の「恤救規則」や明治四年の「行旅病人取扱規則」、「棄児養育米給与方」などに基づいて実施され、その行政事務は内務省地方局の所管であった。明治三三年初めて地方局府県課に救済事業の嘱託を置き感化救済や恤救の事務を取り扱うようになった。大正六年(一九一七)八月になって内務省地方局に救護課が創設され、賑恤救済、軍事救護、貧院・盲唖院・育児院・感化院などの慈恵施設に関する社会事業行政が、一つの独立した機関によって取り扱われるようになった。大正七年の米騒動や大正九年の戦後恐慌以降は社会情勢の急激な変容に対応すべく、大正九年八月二三日内務省官制を改正し、内務省に社会局を設け、賑恤及び救済、軍事救護、失業の救済及び防止、児童保護、その他の社会事業に関する事務を分掌させた。「社会」という字を用いることに一種の憚りを感じた当時にあって、社会局の創設は異例のことであり、従来の「慈恵」の語に代わって「社会事業」という用語が国の法令上に明記されたのも、大正九年が最初であった(『日本の救貧制度』)。
 愛媛県の社会事業行政は、明治期には内務部第一課や監獄署庶務課が備荒儲蓄、賑恤救済、慈恵に関する行政を分掌し、大正期に入っても知事官房秘書係・内務部庶務課・学務課が遺族扶助料、賑恤救済、感化事業を取り扱っている。ただ、これらの課や係が社会事業行政のみを担当していたのではなく、社会事業分野は職掌の一部に過ぎないのが実情であった(明治期以前は愛媛県の社会事業については『愛媛県史』社会経済5参照)。
 大正七年七月、富山県で発生した米騒動は翌八月には愛媛県にも伝播し、伊予郡郡中町(現伊予市)・松山市・宇和島町で暴動が発生、この外県下一二町村でも米価暴騰に窮迫した細民の騒動が起こった。これらの真接的な原因は、低所得者層の生活苦をよそに米価をつり上げ暴利を貪る者に対する反感、これに対して適切な施策を実施しない為政者への不信が底流にあったといわれている。我が国では米騒動や戦後恐慌に対応して社会事業行政制度が整えられていったが、愛媛県でも、米騒動が発生した大正七年、中央の施策にそって内務部庶務課に民力涵養係を新設した。「大正一〇年県政事務引継書」によると、この係は大正八年六月以降「愛媛県戦後民力涵養五大要綱実行要目」に則して、「健全ナル国家観念ヲ養成スル」、「公共心ヲ涵養シ犠牲ノ精神ヲ旺盛ナラシム」、「勤倹力行ノ美風ヲ作興シ生産ノ資金ヲ増殖シテ生活ノ安定ヲ期セシムルコト」など民風振起や民生安定策を職掌とし、社会教化の枠内ではあるが隣保相扶を中心とする社会行政を担当した(資社経下四六四~四七七)。この民力涵養係の設置は当時としては社会行政一元化の芽ばえとして意義深いものである。
 大正一〇年四月には愛媛県の社会行政確立のために内務部に社会課が設置された。「大正一三年県政事務引継書」には「欧州大戦以来思想界ノ激変ニ伴ヒ、社会問題ハ全国的ニ頻々トシテ台頭シ底止スル所ヲ知ラサル」状態にあり、本県でもこの対策として社会事業施設充実を急ぐため、この課を設置したことを記している(資社経下四七七)。社会課の分掌は社会事業と社会教育行政を中心とし、大正一三年には、従来からの行旅病人及び行旅死亡人、軍人救護、感化事業、勤倹貯蓄などに関する事項の外に、次のような施策をとっている。

  一、公設市場事業の奨励と補助(松山市設市場三か所三〇店・宇和島市設市場一か所二八店)
  一、職業紹介所事業の奨励と補助(松山市・今治市・宇和島市・三津浜町・八幡浜町・大洲村職業紹介所など)
  一、愛媛県社会事業協会の事業振興と補助
  一、民間社会事業団体の助成(愛媛盲唖学校・愛媛慈恵会・松山夜学校・愛媛保護会・宇和島済美婦人会など)
  一、住宅組合への低利資金融通(吉田町住宅組合・宇和町住宅組合・大井村住宅組合など一六組合)
  一、恩賜財団済生会による医療救済事業振興
  一、民力涵養運動の推進と各市町村民力涵養実行会等の指導
  一、各郡青年団及び処女会連合会事業の助成
  一、愛媛県善隣会など融和促進機関の事業助成
  一、社会教育主事等による社会教育講演及び生活改善講演会の開催

 大正一二年九月の関東大震災に際して、震災発生の三日後の九月四日、本県は県庁内に震災臨時救援部を設置した。県震災臨時救援部では県内各郡市町村・日本赤十字社愛媛支部など諸団体に呼びかけ九月三〇日までに四六万余円の義援金と多くの救援物資を集め、被災地へ輸送した。陸揚げ地の東京・横浜・千葉などには県の臨時救援部職員や日赤愛媛支部救護班三〇数名が派遣され、救援物資の引き渡しや救護活動のほかに関東在住愛媛県人の消息調査などを行った。なお救援物資には食糧、医薬品、日用品以外に、愛媛県教育協会を介して収集された一〇万七、三六三冊の教科書や二万九六〇点の学用品があった(「社会事業ニ関スル綴」東予市誌編さん室蔵)。
 大正期、愛媛県における社会事業費は県歳出総額に対して〇・一三%~〇・六六%であり(表3―75)、この率は他県でもほぼ同じ傾向を示していた。昭和二〇年までの社会事業をその歳入歳出額から考察する場合、県の通常予算以外に、特別会計に注目しなければならない(表3―76)。大正一二年度を例にとれば、罹災救助基金・慈恵救済基金・賑恤基金などから社会事業に関する歳出は総額三七万円弱となり、この年の社会事業費歳出五万円余のおよそ七倍となっている。この外、皇室の慶事や風水被災時には臨時に御下賜金が下され、また民間社会事業団体へも御下賜金が毎年二月一一日の紀元節に下付されていた。

 愛媛県社会事業協会の発足

 明治三二年四月横山源之助が『日本之下層社会』を刊行したが、日露戦争を経て我が国の資本主義が進行し、都市では細民の増加が社会問題化していた。内務省は明治二三年に続いて同三一年にも、「恤救規則」の改正を企図して「窮民法案」を準備したが、いずれも立法化されなかった。また全国各地の民間人・篤志家によって、児童保護救済・保育・救療・感化などの救貧施設が設立される中で、救貧事業に係わっている内務省官僚・大学教授・民間人が中心となって、社会事業の全国的な連絡機関の必要性が叫ばれ、明治四一年渋沢栄一を会長とする中央慈善協会が発足した(大正一〇年より中央社会事業協会と改称)。渋沢は七〇歳を過ぎて社会事業に尽力したが、明治四四年三月制定の「工場法」(施行は大正五年九月)は渋沢ら労働問題を現実的な社会問題として認識した人々の力に負うところが多かった。
 大正七年(一九一八)の米騒動は愛媛県内各界指導者の慈恵救済に対する考え方にも大きな影響を与えた。松山同情館の大本新次郎は、「今の世の中は慈善事業であると云ふ看板を掛けて慈善事業をやるやうな時代は過ぎ去って居る」として、松山同情館を「大本機織所」に改名した。また森恒太郎は大正八年二月「社会問題研究会」を創立して、愛媛県内務部長和田純、松山市長井政光、田内栄三郎、岡田温らをメンバーにして米価問題・住宅問題を通して社会事業のあり方を研究していた(『資料愛媛労働運動史』第三巻)。
 このような情勢の下に、県下の社会事業の発達を期し、県内の社会事業団体の連絡を図るため、大正一一年三月九日会員組織をもって愛媛県社会事業協会が創立した。愛媛県には既に松山同情館、愛媛慈恵会、松山夜学校、愛媛盲啞学校、県立自彊学園の各代表者が各団体の連係を図るために愛媛救済事業同盟会(結成年月日不詳)を組織しており、愛媛県社会事業協会はこの救済事業同盟会の事業を継承した。
 愛媛県社会事業協会の設立に際し、松山夜学校の西村清雄、愛媛慈恵会の本城徹心、日本赤十字社愛媛支部の渡部綱道、愛媛保護会加藤利正、自彊学園奥山春蔵、愛媛盲啞学校久保儀平、愛国婦人会愛媛支部三宅芳松らが発起人となった。「愛媛県社会事業協会設立趣旨」には、最近の社会事業は窮貧救済はいうまでもなく、医療的保護・生活改善・社会教化・児童保護・労働問題・農村問題などその範囲が拡大し、事業の性格は「漸く予防的建設的に進み、社会全員が責任を以って経営し、科学的知識の上に立脚する様な傾向」を示してきたと述べ、官民一致して、人心の善導・社会の不祥事の未然防止・社会の疾病の救済に当たるべきことを記している(「愛媛社会事業」大正一三年版第一号)。
 「愛媛県社会事業協会規則」の草案は大正一〇年四月に創設された愛媛県内務部社会課で作成され、協会の総裁には愛媛県知事を推戴し、会長には県内務部長、幹事長には県の社会課長が当たるという原案を発会式で採択させた。このため「愛媛新報」大正一一年三月一二日付社説は、「官民合同して社会事業を実施すべき今日の社会において、本協会に至るまでの道程が甚だしく官僚式であって天降的なのは、我等の不満を禁ずる能はざる所である」と評した。西村清雄ら設立発起人も、彼らが抱いていた社会事業協会像と県が計画した協会像との相違に不満であったためか、協会は創設されたが愛媛県内務部長の会長就任は保留となり、大正一二年一一月二四目の総会で内務部長中野邦一が会長に就任するという異例の出発であった。なお大正一三年一〇月一〇日西宇和郡社会事業協会が神山村矢野町(現八幡浜市)に設置され、新居郡西条町明屋敷にも同年一一月一八日新居郡社会事業協会が創設された。これらは郡内の各町村資金を出し合って設立させたもので、財団法人の認可を受け社会事業や社会教育活動の奨励と助成を行った。
 愛媛県社会事業協会は県社会課内に事務所を置き、県下の社会事業指導と助成を目的に、大正一二年度は医療・職業・就学などに関する人事相談、社会奉仕日の設定と造花配布による募金活動、印刷物配布による社会事業啓発活動などを行った。翌一三年度には松山市・八幡浜町・宇和島市・今治市・西条町で国民生活改善展覧会を主催し、幼児保育職員養成講習会を開催、会誌『愛媛社会事業』を発行した。『愛媛社会事業』は大正一四年八月までに第四号の刊行をみたが、昭和五年四月からは月刊となり方面委員活動の県内情報をも伝える記事を多く収録している。

 方面委員制度の発足

 今日の民生委員制度の起源である済世顧問制度や方面委員制度は、大正六年から七年にかけて岡山県や大阪府で創設された。市町村の有力者や篤志家を顧問に委嘱して貧困者の調査、相談、就職斡旋などに当たる岡山県の済世顧問制度は、救貧活動よりも防貧活動に重点を置いて大正六年五月に開始された。しかし翌大正七年の米騒動の中で済世顧問の活動が窮民の要求に十分には応じきれず、この制度は方面委員制度ほど全国に普及しなかった。大正七年一〇月大阪府は、済世顧問制度を参考にして無報酬を原則に中産階級の篤志家を委員に委嘱し、一小学校区を基準に担当区域(方面と呼ぶ)を設定し、社会調査に基づく防貧活動を行う方面委員制度を始めた。この制度は昭和三年には全国に広がり、同一一年法制化された。
 愛媛県では、大正一二年(一九二三)一一月九日「愛媛県方面委員設置規程」を定め、県民生活の実情を調査し生活改善と安定の方法を講じること、要救護者には調査の上救済方法を講じること、各種社会事業団体と連絡を保ち協力していくことなどが方面委員の職務とされた(資社経下四一三)。翌大正一三年三月一〇日松山市(一一名)、今治市(一〇名)、宇和島市(八名)に県下最初の方面委員が委嘱された。その後、川之江町、大洲町、八幡浜町、川之石町、宇和町、道後湯之町、北宇和郡愛治村(現広見町)などに広がり、昭和五年度には県下で三市一七町村一五八名が委嘱されるに及んだ(「昭和五年県政事務引継書」)。
 発足当初は愛媛県社会課の社会事業主事や先進地大阪府より招いた方面委員が、県内市町村を巡回して方面委員制度講習会を開いて県民を啓蒙した。また県下方面委員大会を各市町持ちまわりで毎年開催し、方面委員相互の連絡・各種社会事業団体との提携のあり方、生活困窮者に対して単なる物質的救助に流れず、自活力を回復させ自助独立心を涵養する方法、細民の思想善導・教化指導方法、社会制度上の欠陥に起因する窮民発生と社会共同責任の問題などを互いに討議研究した。
 松山市では、「恤救規則」に基づき最小限度の生活費として一日一人精米三合以内、日用雑費九銭以内の市費救助を受ける人数は増加傾向にあったが、大正一四年(一九二五)中に、方面委員が困窮者七一人について家計調査を実施して生活状態調査カードを作成し、貧困救助三四人、療養五人、人事相談五人、職業紹介二人などの救護活動を行った。昭和二年(一九二七)四月には方面委員数を二四名に増員し、同時に顧問法律家・顧問医師各一名を置いて方面委員事業を拡充した。助成団体として市長を会長とする松山市互福会も組織され、既存規程では救助し難い生活困窮者に応急救護の道を開いた。八幡浜町でも昭和二年方面委員制度が発足したが、この年の七月方面委員と町内の篤志家をもって八幡浜互福会が組織された。八幡浜互福会は生活困窮者の救済資金を得るため、同情週間を設定して同情袋による寄付金を募り、昭和五年度には貧困家庭の副業としてヒチトー蚕網製造講習会を開いて授産事業を実施、製品の販売を斡旋した。

 婦人会の社会事業

 戦死者遺族、傷病軍人の慰問救済を目的とした愛国婦人会は、明治三四年、奥村五百子の提唱と軍部の援助によって創設された。日露戦争を契機に入会者が増えたが、会員の多くは華族を中心とする上流婦人であったため大衆的な婦人団体としては発展しなかった。明治三四年一二月菅井誠美愛媛県知事夫人菅井ヨウ子が支部長となり愛国婦人会愛媛支部を結成、以後歴代の県知事夫人が会長を務めた。同支部は明治三八年一〇月発会式を挙行したが、この年の会員数は約一万三、〇〇〇人を数えていた。明治期における愛国婦人会の主な活動は、軍人遺族、廃兵のうちの生活困窮者に救護金を給与することであった。明治四二年度には軍人遺族及び廃兵数三、三八四戸のうち七五六戸が救護金(一人当たり九一銭九厘余)を給与された。翌年九月には帝国軍人会後援会から配当された救護基金の利息で、生業資金(一戸三〇円まで)の給与を始めた。
 大正五年四月、愛国婦人会愛媛支部は会員数が二万二、四〇七人に増え、活動資金も基本金一万四、八〇〇円余、救護資金二万八、一〇〇円余、県内各支部経費資金二、五八五円余、その外事業資金も二、九七七円に増加していた。救済活動は、軍人遺族・廃兵・殉職警察官遺族に対する定期救護(一戸当たり三円~一六円)、遺族・廃兵中不時の災難に遭遇した者に対する臨時救護(一戸当たり一〇円以内)、生業資金給与、私立愛媛盲啞学校補助金交付(明治四二年以降一〇年間毎年三〇〇円)などを主な内容にしていた(「大正五年県政事務引継書」)・大正四年四月一日松山市に創設された愛国婦人会愛媛支部附属授産場は、軍人遺族及び廃兵並びにその家族や一般の生活困窮者三〇余を収容し、状袋や紙箱を製作していた。授産場の事業は、その後一般の生活困窮者の利用が増え、家庭副業奨励の立場から、藤表編みやミシン裁縫の技術伝習を開始し、副業紹介の斡旋機関となっていった。このため、大正一一年一月四日婦人職業紹介所を新設して、一般婦人の内職・就職の紹介及び相談事業を始めた。
 妊産婦の保護救済については、大正一〇年一二月二三日愛国婦人会愛媛支部の「妊産婦保護施設ニ関シ通牒」により、社会救済の一環として妊産婦を保護し新生児の健康を増進させる事業を始めた。その活動は、恩賜財団済生会と共同で進められ、妊産婦で生活に窮している者が必要な診療を受けることができず、死産や異常出産するのを救済した。「妊婦産婦褥婦保護規程」も通牒と同時に出したが、実際にはこの制度を利用する者が少なく、わずかに衛生パンフレットの配布や松山市・今治市・宇和島市に一名~三名の産婆・看護婦の資格を有する者を委嘱して診療の斡旋奨励に努めたにすぎなかった(「大正一四年県政事務引継書」)。
 愛媛県が方面委員制度を開始した大正一二年一一月よりも少し早い同年八月二四日、愛国婦人会愛媛支部は「皇太子殿下御結婚奉祝記念施設ニ関シ通牒」を発し、記念事業の一つとして県内各支部の救護救済事業の実績をあげるため、婦人会独自の名誉職方面委員を設置することを奨励した。「名誉職方面委員設置趣旨」、「方面委員設置準則」も同時に出され、従来の社会救済活動の不備を補うために、「民衆卜委員区幹事部ノ間ニ介シ、献身的社会奉仕」に努める名誉職方面委員を置き、常に一般民衆に接して生活状態を査察し、救済の任に当たることを決めている。方面委員は篤志婦人中の名望家より各市町村支部に数名設置することにしていた(「大正一四年県政事務引継書」)。愛国婦人会愛媛支部が企図した方面委員制度は愛媛県による方面委員制度の先駆的なものとして注目されるが、その実際の活動を示す記録はない。
 この外、県内には今治キリスト教婦人会(明治一三年結成、同二〇年今治婦人会と改称)や松山婦人会(明治二〇年結成)などクリスチャンによる婦人団体と松山婦人慈善会・宇和島済美婦人会など仏教系の婦人団体があった。前者は宣教師の伝道や教会の地域活動の中から託児所開設・救世軍活動・隣保活動を進め、日本基督教婦人矯風会の系統につながるものであった。後者も託児事業や乳幼児の健康相談などの活動をしていた。また大正期には伊予郡砥部村・同原町村や越智郡菊間村などに婦人団体が生まれ、敬老活動や地域の慈善活動を行った。

 敬老会と養老事業

 我が国では古代以降四〇歳より一〇年ごとに長寿を祝う算賀があるが、近世に入り儒教倫理が社会に定着していくと、還暦・古稀・米寿の祝賀も行われるようになった。今日の老人福祉事業の前身である養老事業は、聖徳太子が四天王寺に設けた悲田院に老幼の貧窮孤独者を収容救済したことに始まるとされるが、昭和七年一月「救護法」が施行されるまでは老人保護事業は独立したものではなく、窮民恤救の一対象となっていた。むしろ敬老会などの長寿者を敬い祝福する行事が各地で盛んに行われていた。
 松山藩の「養老の典」は藩主松平定通の時代に始まり、領内の七〇歳以上(八〇歳以上の場合もある)の長寿者に酒膳を振る舞って領民を慰撫してきた。菊間町教育委員会には「養老御執行御酒御料理被下候節萬記録」や「養老御執行八十歳以上之者御酒御料理被下置候節萬記録」などの記録が残っている。明治新政府も明治元年に養老の典挙行に関する布令を出し、伊予八藩は領内の長寿者を調査して八八歳以上の老人に養老米を与えている。
 明治一六年八月二日、藩政時代の養老の典を懐かしむ栗田與三・藤岡勘三郎・堀内胖次郎・逸見佐平らは、松山市街西堀端町の勧善社で松山市街の八〇歳以上の者八〇余名を招待して長寿を祝い、松山市街尚歯会を発足させた。この会には旧松山藩主久松定昭の養子定謨も帰松して臨席し、発会の祝辞を述べている。松山市街尚歯会は近代愛媛の高齢者組織の最初のもので、旧城下町内外の篤志家を会員として、一口五〇銭の会費をもって運営された。明治二三年以降松山市尚歯会と改称されたが、この会は「諸老ノ健康ヲ抃賀シ併セテ欽慕ノ情ヲ寓スル」目的で、毎年四月中に開かれ、長寿者番付ともいえる「松山尚歯会老人名簿」を発行した(「松山市街尚歯会主意書」「松山尚歯会老人名簿」)。
 大正期に入って敬老会は県内各市町村で結成された。新居郡氷見町(現西条市)では町長や駐在巡査を含む有志の発企によって、大正一四年一一月に敬老会結成を計画している。計画では、一か年一円を拠出する会員を募り、同町の処女会と共同して毎年一回、町内三八人の八〇歳以上の老人を招待して長寿を祝うこととしていた。この会は皇孫殿下御誕生記念事業として会員を募集し、発会式は皇孫殿下の命名式当日にあわせて挙行されることになっていた。敬老会は地域婦人会の主催で行われることも多かった。今治市連合婦人会が大正一五年一〇月八日、同市公会堂で開いた敬老会には今治市内二四二名の八〇歳以上の老人が参加した。敬老会開催に先立って高齢者の名簿を作成し二五四名が招待を受けた。このうち、最高齢者は九七歳の女性であると「海南新聞」は伝えたが、二日後の「海南新聞」には「今治市の高齢者、九十九歳が現れた」の見出しで、文政一一年生まれの男性を紹介する記事を掲載している。この外、婦人会活動とは別に大正一五年九月一三日結成の長浜奨善会も、敬老尊祖の風潮を高めるために敬老事業を行っている。
 七〇歳以上の無資産無収入で保護者のいない老人に一日一〇銭ずつの養老金支給を骨子とする「養老法案」は、明治四五年三月帝国議会に立憲国民党から提案された。しかし、貧民に権利意識が生じはしないか、我が国の家族制度を破壊しはしないかとの反対意見が強く、政府は今後も隣保相扶の方針を継続し、国民がなるべく公費の厄介になるようなことがないようにしてほしいとの見解を示し、法案は否決された。既に明治七年に「恤救規則」が制定されていたが、これは老人のみを対象にしたものではなく、親戚隣保の相扶を基本としていたから実効性は少なく、大正一二年を例にとれば、愛媛県内被救助人数は一八八名(国費二一名、市町村費一六七名)に過ぎない。このうち老人の占める割合を示す記録はないが、昭和四年(一九二九)六月県社会課作成の県勢展覧会出品資料からは、老人の保護救済が急務であったことが推測される。その後昭和七年一月施行の「救護法」に、養老院が救護施設のひとつとして位置づけられ、老人のみを保護救済することになった。
 養老院が初めて生まれたのは日清戦争後で、明治二八年聖ヒルダ養老院が東京市に創設された。愛媛県内では西宇和郡矢野崎村(現八幡浜市)で「窮民救助資金蓄積条例」(明治三四年)による資金援助をもって、住民が老病者の救済に当たっている。こうした慈善事業が基盤となって、昭和二年八月二四日、西宇和郡仏教団の石見唯暁を代表者とする愛媛養老院(老病者収容所)が西宇和郡八幡浜町大平に設立した(昭和九年「愛媛社会事業要覧」)。
 なお松山市の愛媛慈恵会も貧孤児の収容・教育の外に老病者を収容して救済する事業を行っており、大正一五年には老病者五名を収容していた。

 児童保護と託児施設の設置

 児童福祉の分野では大正期の後半になって、従来の救育・救済・感化といった処遇理念から保護・愛護へと、児童に対する考え方が変化した。昭和二年一二月社会事業調査会は「児童保護事業に関する体系」を決議した。これは妊産婦保護、乳幼児保護、病弱児保護、貧困児童保護、少年職業指導並びに労働保護、児童虐待防止、不良児童保護、異常児童保護の八分野からなっていた。なかでも乳幼児死亡率の高さに眼が向けられ、妊産婦や乳幼児保護事業は活発化した。
 本県でも愛媛県社会事業協会や日本赤十字社愛媛支部が、県の社会課や中央の社会事業機関と連絡をとりながら、大正一〇年代から昭和初期に各種の児童保護事業を展開した。日赤愛媛支部は大正一一年六月、松山市・今治市・宇和島市で妊産婦の助産保護・虚弱児童の育成相談を開始した。また新居郡泉川村(現新居浜市)・同郡氷見町・越智郡波止浜町・喜多郡長浜町などでは、町村が児童健康相談所を開設している。これらは月一回~八回の相談日を決めて、妊産婦や就学前の乳幼児保育及び保健衛生上の相談を受ける機関であった。県社会課や愛媛県社会事業協会は、大正一一年から始まった「児童愛護デー」を期して、松山・今治・宇和島・八幡浜・波止浜などで乳幼児審査会を始めている。
 大正一四年(一九二五)四月三日、西宇和郡川之石町の川栄座で、同町主婦会が主体となり町役場・小学校・処女会などが後援する児童愛護デーの催しがもたれた。川之石町託児所愛児園児や尋常小学校一年生が、母親や姉と一緒に弁当を持って集合し、西宇和郡社会事業協会社会主事補村田吉右衛門の講演の後、童話・遊戯・活動写真を楽しんでいる(「愛媛社会事業」大正一四年版第四号)。
 こうした本県での児童保護の発展は、大正一一年、松山児童愛護連盟を組織してその必要性を訴えた温泉郡御幸村山越(現松山市)の長建寺住職隈江信泰や、私費をもって優秀児童歓待会を開いた松山市立花の松岡富太郎、更に大正一二年五月の第二回児童愛護デーに際し、「愛媛新報」に「児童愛護と子供の権利」という論説を連載した愛媛社会事業協会幹事松野勝太郎らの啓蒙活動によるところが大きい。
 児童福祉法の制定(昭和二二年)によって保育所の名称が使われるまで、乳幼児を預かる施設は託児所とよばれてきた。我が国で最も古い託児所は明治二三年、新潟市で赤沢鍾美・仲子夫妻によって始められた家塾新潟靜修学校付設の託児所といわれる。愛媛県では明治三三年三月、宇和島町龍光院の住職今井真澄の呼びかけに協力した松根敏ら、宇和島町や近隣町村の篤志婦人による貧困家庭の乳幼児の託児事業が最初である。この組織は明治三七年一月正式に宇和島済美婦人会となって託児事業を充実し、大正一一年七月には龍光院境内の堂舎を利用して保育園を開設した。表3―77のごとく大正期後半から昭和初期にかけて新設された託児所は、既に保育園の名称をもつものもあり、乳幼児の健康相談・施薬事業もみられ、児童保護の新気運が県内でも具体化されていることが分かる。これらの契機となったものは紡績女工などの雇用対策や乳幼児死亡率の低減が叫ばれていた当時の社会背景があげられる。また手内職や日雇い作業によって生活費を稼がねばならない女性が、我が子の養育に充分時間をさくことができない社会情勢下で、社会救済に当たった託児所は多い。
 なお北宇和郡吉田町村井幼稚園長石原淳一は愛媛県保育会設立を主唱し、大正一四年一二月一二日、吉田町村井幼稚園において、愛媛県保育会創立総会ともいえる第一回愛媛県幼稚園大会を開催している。

 季節託児所の普及

 動力耕耘機や農業用トラクターが一般に普及しはじめた昭和三〇年代後半まで、我が国の農家は一年中ほとんど暇がないほど多忙を極め、殊に麦刈り、田植え、養蚕、稲刈りの時期には、「晨に星をいただき夕に月影を踏みて帰る」生活であった。生後数か月の乳児を背負って農作業をする婦人の姿、田の畦に簑を敷いて笠をかぶらせて我が子を寝かせる姿もみられた。こうした農繁期など一定の時期に、町村・町村農会・婦人会・小学校・寺院・個人の篤志家などが乳幼児を保護する季節(農繁)託児所は、明治二三年鳥取県美穂村で開設されたのが我が国の最初である。
 大正期に入って農家の稲作は発展したが、米価は不安定であり三年の周期で激しく騰落し、農民も自己の生活防衛に立ち上がることが多かった。米騒動を契機に政府も都市細民への社会事業のみならず、農村社会事業にも乗り出していた。昭和初期には農山漁村経済更生運動が始まり、昭和七年(一九三二)には農林省に経済更生部を設置して農山漁村の産業振興と民心安定を図った。季節託児所はこうした社会背景の中で各県に普及し、昭和一三年度には全国で一万六、五三八施設を数えた。
 愛媛県では大正一三年(一九二四)秋の農繁期に、周桑郡・越智郡・伊予郡・喜多郡・北宇和郡で農繁臨時託児所を開設した。この年愛媛県社会事業協会は幼児保育職員養成講習会を県下三か所で開催し、常設託児所のみならず季節託児所の保母養成をも行い、成績のよい託児所一二か所に対し奨励のために一〇円から三五円の補助金を交付している。また大正一五年九月には松山市・西条市・今治市・大洲村・宇和町・宇和島市で、この事業の発展を期して農繁期臨時託児所施設協議会を開いている。
 周桑郡役所が郡内町村長宛てに通達した大正一四年五月一六日付「臨時託児所施設ニ関スル件」では、前年秋の農繁期に開設した田野村・徳田村・多賀村の臨時託児所は、児童保護の上でも農家の作業能率増進の上でも効果があった、しかし他郡では「有閑階級ノ婦女、之ラノ事業ヲ援助シ、協調諧和ノ実現ニ貢献シタル事尠カラズ」として、更に多くの町村で託児所を開くように求めている(「社会事業ニ関スル綴」東予市誌編さん室蔵)。
 昭和二年度の県下農繁託児所は表3―78のように八八施設であり、経営の主体は婦人会・寺院・小学校が多く、寺院・公会堂・青年会堂・小学校などが託児所に当てられた。小学校はオルガンやブランコを備え、広い運動場や校舎を有しているため託児所として子供を収容するには都合がよく、また学校生活を前にしている子供に予備教育を授けることができるため、県社会事業協会は学校施設を提供してくれることを望んだ。しかし学校の本務に託児所事業が加わると多忙を極めるとの理由で、社会事業協会の思うようには運ばず、社会教育に理解があり、かつ社会事業に熱心な校長や教員のいる学校で農繁託児所が開設されるにとどまった。従って寺院や公会堂を施設に当て、婦人会が世話をするのが一般的傾向であった。越智郡富田村(現今治市)の松木託児所では適当な場所を確保できなかったため、小さな辻堂を利用した。室は六畳と八畳の二間で室内には揺りかごの代わりに芋箍で作ったハンモックを張り、一歳から五歳までの幼児四〇人を預かり、六坪ばかりの庭にはブランコが作られて遊び場としていた。
 農繁託児所は農村向けの臨時施設であったから、多くの経費をかけて立派な設備を有するものではなかった。できるだけ経費をかけず、しかも多くの幼児を保育することに主眼が置かれていた。常設託児所では保母の資格を厳しく規定されたが、農繁託児所では子育ての経験と教養があり子供好きの人なら誰でも保母として奉仕できた。だから専門の保母を雇い入れた農繁託児所は県下に一か所もなかった。託児所の子供は各自が弁当を持参することが多かったが、越智郡清水村(現今治市)の農繁託児所など毎日米一合~一合五勺を子供に持参させ、有志婦人によって簡単な炊き出しをするところもあった。農繁託児所の経費は設備費・間食費・消耗品費が中心であったから、子供一人につき一日三銭ないし五銭の保育料を徴収してよいとされていたが、町村・部落・農会などからの補助金、篤志家の寄付金などによって経営される場合が多かった(「農繁期に於ける託児所の経営に就て」愛媛県社会事業協会発行)。
 昭和八年(一九三三)度には愛媛県内で春期・夏期一六四か所、秋期九五か所に農繁託児所が開設され、受託児は一万四、五〇〇余人に達している。

表3-75 大正期における社会事業費(決算額)の推移

表3-75 大正期における社会事業費(決算額)の推移


表3-76 特別会計より支出の社会事業関係費(決算額)

表3-76 特別会計より支出の社会事業関係費(決算額)


表3-77 大正期~昭和初期創立の県下のおもな常設託児所

表3-77 大正期~昭和初期創立の県下のおもな常設託児所


表3-78 愛媛県における農繁託児所の経営と場所(昭和2年度)

表3-78 愛媛県における農繁託児所の経営と場所(昭和2年度)