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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

五 金融機関の発達と商業の近代化

 大正期の銀行

 明治二〇年代に基礎を確立した銀行業は、同三四年(一九〇一)には県下各地に五三行もあり、支店や出張所は農村部にも普及して、頼母子や個人の高利貸しと並ぶ庶民の金融機関となった。しかし金融恐慌や不況の連続からたちまち整理統合期に入り、明治四一年に四八行、大正二年(一九一三)には四四行となった。日露戦争後の不況から立ち直らぬまま大戦に突入し、先行き不安から更に不景気となったが、大正四年の下半期からは物価高、企業熱から金融市場も活発となり、預金・貸し出しともに著しく伸びた。銀行数は減少したが合同と増資によって資本力は増した。明治四二年から大正五年の間に三津浜・伊予長浜・新谷・喜多・内子・八幡浜・五十二などの各銀行は資本金を倍額以上とした。大正元年と一〇年を比較すると一行当たり資本金は三二万円から九六万円、預金高は三六万円から二二四・四万円、貸し付け高は三七万円から二二三・五万円と伸びている。大正七年二月には東宇和郡野村に伊予野村銀行(資本金五〇万円)が設立された。
 しかし大戦終了後の大正九年三月、まず株式や商品市況が暴落し、四月の増田ビルブローカー銀行の破綻から一一年には関西の各地に銀行の休業や取り付けが起こり、大正一二年の震災によって全国的に広がり、金融恐慌への幕開けとなった。県下でも大正一一、二年ごろ大洲銀行、第二十九銀行、今治商業銀行菊間支店に取り付け騒ぎが起こり、大正一三年には朝野銀行、昭和元年には共栄貯蓄銀行西条支店が休業し、銀行への不信・不安感を募らせた。
 増田ビルブローカー銀行の破綻は、同行の株を持つ第二十九銀行宇和島支店に飛び火し、第二十九銀行の取締役が経営する矢野鉱業㈱が不振となり、同社に三〇万円余を融資していた大洲銀行が窮地に立った。大洲銀行は中予・南予の繭・製糸・蠟を背景に一一支店を持つ大銀行であったが、市価の暴落によってそれまで増資競争を続けて来た大洲商業銀行と大正一二年八月に合併して、資本金五五〇万円となり、続いて喜多銀行以下を合併してこの危機を脱した。昭和五年の同行は、松山市や伊予郡更に広島県へも進出し、支店数は二四にも上った。
 この時期南予を中心に県下の銀行の整理合同が進み、五十二銀行が八幡浜銀行を合併して南予に進出し、伊予勝山・伊予周桑・朝屋などの諸行を買収して支店網を拡張した。第二十九銀行では二九歳の佐々木長治を頭取に迎えて刷新を図った。また大正一〇年四月、「貯蓄銀行法」公布によって松山貯蓄銀行と愛媛貯蓄銀行が合併し、普通銀行のうち貯蓄業務を兼営する一一行を加えて伊予貯蓄銀行が発足した。政府も合同促進のため大正九年八月「銀行条例」を改正して合併手続きを簡単にし、一二年二月には新銀行の設立を不許可とし、また一三年八月には資本金五〇万円以下の支店を認めないとして銀行経営の基盤強化を図った。
 一方、庶民や零細企業の銀行に代わる金融機関としては無尽や質屋などがあった。無尽の起源は古いが営業としては明治中期から増え、農村経済の行き詰まりからかえって乱立状態となったため、大正四年の「無尽業法」によって規制し免許営業制とした。これにより無尽会社が設立されるが、東予地方では東予無尽㈱や今治無尽㈱などが大きく、各地に支店や出張所を置いた。
 産業組合のうち昭和二年現在で信用事業を行うものは二六八組合あり、組合員は約九万人(うち農業六・五万、商業一万)で、出資は二五万口三六八万円であった。金融恐慌下の昭和四年八月、井本礼三は困窮する町民を対象に三島町信用利用組合を設立した。出資は一口二〇円で三〇口までとし総計は七万五、〇〇〇口の一五万円で、営業を庶民金融に徹した(『伊予三島市史』)。
 質屋は明治末期から大正七年では県内に六~七〇〇店あったが、八年五三五、九年四七七、一〇年四三九店と減少し、昭和二年では三〇七店、六年二七七店となった。貸し出しは大正初年は六〇万口であったが、大正中期では三〇万口前後、昭和に入ると増加して二年で三八・五万、六年四五・四万口となっている。公営では大正一二年(一九二三)に長浜町営質庫が発足したが、昭和二年(一九二七)の「公益質屋法」の公布で、翌年には大洲村・大洲町・宇和島町・野村町など五か町村に開設され、大正七年までに県下二〇か町村で開業した。郵便貯金は昭和二年末で預け入れ三四・六万人で一人平均二八・七円、六年末では四五・九万人同五四円であった。

 商業と商業組織

 大正七年の職業別人口のうち商業は専業一二・九%、兼業三・六%で農業に次いで多く、職業別戸数でも大正・昭和前期を通じて一七%前後とあまり変わらなかった。近代経営形態である会社組織をとるものはその数・規模ともに工業に比して遜色ないが、恐慌期に後退したことが特色である。大正五年の商業関係株式会社七〇社の分布は松山市二五、今治町・宇和島町各九、八幡浜町七、大洲町六、三津浜町五、郡中町・卯之町各三で、これらの市町が当時の主要商業地でもあった。大正末期から昭和初期のこれら商業地は劇場や飲食店が並び盛り場を形成したこと、都市計画や街路計画によって城下町や宿場町からの脱皮がみられた。また地方では行商の全盛期でもあって越智郡桜井町や亀山村椋名(現吉海町)の椀舟による漆器行商、西宇和郡舌田村合田(現八幡浜市)や温泉郡睦月島の帆船による反物行商などは、ほとんど全国を市場とした。
 地方商工業の推進団体である商工会は、市部では結成も早く、そのほとんどが明治期で、物産共進会などのほかに鉄道敷設促進や電話の普及、港湾建設などの近代化促進運動も行った。市の商工会は昭和二年四月公布の「商工会議所法」によって松山市は翌年一月、今治市は一〇年三月、宇和島市が一一年二月に会議所に改変され指導力を強化した。町村の商工会は城辺・吉田・砥部・菊間など、大正一〇年前後の不況期に結成されるものが多く、現金取り引きや月末勘定など商習慣の近代化を図るとともに景品付き大売出し、祭りや花火大会などを開催して商勢力の強化をねらった。
 県は県産品の展示や取り引き紹介のため、大正三年物産陳列場を設けた。また同年六月、県下一七商工団体をまとめて県商工団体連合会を発会させた。同会は昭和四年に五三団体となったが、同年七月「商工会規則」によって統制を強化し、経費の決算や業務の県への報告を義務づけた。不況の深刻化した昭和以降では、より広域の立場から窮状打開の道を話し合う必要があり、昭和二年には宇和島を中心に一市二郡で「南予商工団体連合会」を結成して定期的に会合を持った。喜多郡では長浜町・大洲町・内子町など、昭和七年七月に九商工会が「喜多郡商工連合会」を結成して協議した。資金融資についても昭和三年八月、県令「中小商工業者運転資金貸付規則」により政府融通の範囲内で一、〇〇〇円を限り三年賦で貸し付けを行った。八年には全日本商権擁護連盟の愛媛県支部が発会し、購買販売組合などの進出に対抗するため、政府に低利融資を要望した。

 各地の商業

 松山市は商工業の発展と周辺の合併によって市域と人口を拡大し、明治四一年に四万人、大正五年に五万人を超し、同一五年には七万七、〇〇〇人となった。明治中期には城南地区に官公庁や銀行などの集中が見られ、伊予鉄松山市駅がターミナルとしての機能を持つと、唐人町(昭和五年大街道と改名)や湊町・永木町などが商業娯楽地区として発展し、戦前にはアーケードが作られ、ほぼ現在の形の商店街が形成されていた。
 今治市は綿業と港湾によって市域と商勢を発展させ、大正期には越智郡全域と周桑郡のほとんどを商圏とした。当時の中心街は現在とほぼ同様で、本町とL字形に交差する新町・常盤町で、問屋町としての片原町や港周辺もにぎわった。宇和島は第一次大戦期の製糸業、大正三年(一九一四)の鉄道開通や港湾改修で商勢も発展し、大正一〇年市制を施行した。商業の中心は従来下町であった恵美須町や新橋通りが繁栄した。市域の発展は城濠や海岸の埋め立てと関係が深い。
 昭和一〇年(一九三五)に県下四番目の市制を施行した八幡浜市も、沿岸の埋め立てによって市街地を拡大し、後背地の機業と港湾により商勢を発展させた。大正期の中心街は本町と浜之町であった。西条町・三島町・川之江町なども港湾改修と大工場の進出によって人口や工業生産が伸び、城下町や宿場・港町の伝統によって商勢も伸長した。いずれも国鉄開通の影響を受けて中心商店街が移動した。昭和初年までの新居浜町は本町通りが中心であったが、六年に県道が開設されると急速に商店街が形成された。大洲町・内子町・野村・卯之町・松丸町など中予・南予山間の商業地も、近村の諸産業を背景として活発な商取り引きが行われた。

表3-56 県下主要銀行の預金・貸付金の推移

表3-56 県下主要銀行の預金・貸付金の推移


図3-12 県内銀行の動向(大正・昭和前期)

図3-12 県内銀行の動向(大正・昭和前期)


表3-57 愛媛県の職業別戸数構成比

表3-57 愛媛県の職業別戸数構成比


表3-58 愛媛県の産業別会社事業数

表3-58 愛媛県の産業別会社事業数