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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

1 俳句・川柳

 子規以前の俳諧

 近世後期の俳諧は、守成から持久へと向かい、通俗から卑俗への道をたどった。江戸の田川鳳朗、京都の成田蒼虬・桜井梅室ら天保三大家は、月並宗匠として文学的価値は高くはないが、俳諧を大衆の文学として民族的基盤を固め、伊予俳諧への影響も見逃せない。
 俗談平話を俳諧の理想とする梅室門に、伊予では内海淡節・大原其戎(きじゅう)、正風俳諧を唱える鳳朗門に、奥平鴬居(おうきょ)がいる。其の他、県下各地の俳諧を嗜(たしな)む者は多かった。
 宇摩郡土居の三宅棹舟、今治の広川九圃・鳳朗門の田頭半窓、松山の宇都宮丹靖・黒田青菱・渡部因阿、郡中の宮内角丸、松前の玉井干蘿(せんら)、八幡浜の谷蘭畹、宇和島の淡々系告森幽亭・土居無腸らが明治前期にかけて活躍した。
 全国の俳壇史上においては、明治五年信濃の史山編『梅の下臥』には、鴬居・騎鶴(丹靖)・半窓・棹舟・淡節ら四一名、明治七年京都の花の本芹舎『まさこ集』には、其戎・半窓ら九名、明治一三年京都の内海良大(淡節の娘香畦女史の婿)の『俳諧発句明治集』には、淡節・可等・其戎・連甫ら一九名で、全国で七番目に多い俳人が参加し、明治二〇年花の本聴秋、翌年花の本芹舎らの各地俳人の摺物中にも伊予の俳人が多く加わっている。
 県内では、明治以後も摺物類は多い。明治五年其戎門の画賛幅「三十六雅花月廼志良遍(のしらべ)」は三十六歌仙に因(ちな)んでの肖像句賛で特色があり、明治一二年栗田樗堂の『西木集』は六六回忌の出版、明治一六年其戎の古稀賀集『おいまつ集』も刊行された。さらに、特筆すべきは全国に先駆けての俳誌の刊行であろう。
 大原其戎の明学社から、明治一三年一月「真砂の志良辺」刊、月刊俳誌として全国で三番目で南海道の港町三津浜から出版された。明治二七年九月号、一六一号まで続刊し、県内を中心に、東北から九州天草に及び、其戎在世中七〇〇余人の投句者があった。子規はこの其戎を師として俳諧の道をひらいたのである。
 明治一四年六月「俳諧花の曙」は、「愛比売新報」の付録として、松山の風詠舎からの発刊、週刊俳誌として最初、奥平鴬居選、県内五〇〇余名、県外は東北から九州まで五〇〇余名投句、月二回発行となり、明治一六年一二月六二号となった。連句・和(やまと)詩(仮名詩)も掲げ、近代詩史上意義がある。この二誌の刊行は、全国的に見て、愛媛の地方俳諧としての拠点と俳人層の厚さを示しているので注目すべきであろう。
 明治二二年道後湯之町の蜂須賀秋岳ら「俳諧温岳新誌」、同二四年松山の森孤鶴(盲天外)は「はせを影」、同二五年ごろ大生院で「俳諧光風新誌」などの俳誌が各地で発行され、孤鶴の俳句幽玄論などは見逃せぬ説である。
 句碑は、明治一五年松山石手寺の芭蕉の花入塚の営繕をはじめ、同二六年芭蕉二百回忌を中心に各地に建てられた。また俳書は、宇和島の士乙、八幡浜の蘭畹らの賀章、鴬居の追悼集『梅香集』、半窓賀章『梅鴬集』など出版されたが、明治二二年其戎、翌年鴬居の長逝に伴い、地方俳壇には凋落の影がさしてきた。

 子規の俳句革新

 明治二七・二八年、正岡子規一派の日本新派が台頭し、やがて「海南新聞」などを牙城とし、同三〇年には、柳原極堂が「ほとゝきす」を創刊するに及び、全県的に、さらに全国に普及する糸口となった。
 正岡子規は松山生まれ、外祖父大原観山や河東静渓らに漢学を、井手真棹(まさお)に和歌を、大原其戎に俳諧を学んだ。漢詩文は主として松山中学時代に、和歌・俳諧は大学予備門(第一高等中学校)時代に帰省のたびに、旧藩士から習得し、やがてこれを超克して革新運動を推進し、近代俳句・近代短歌の進むべき道を開拓し、写生文まで提唱した。郷土の幕末からのすぐれた文学の伝統が基盤にあったということは見逃せぬであろう。
 子規が俳句に着眼した最初は明治一七年、貸本屋の持ってきた肖像入り句集をめくって、これは面白いと感じた時からであった。翌一八年、年頭の句があり、句集「寒山落木」五巻には同一八~二九年の句を清書し、以後三四年初めまでは病床にあって「俳句稿」にまとめていた。その生涯の二三、〇〇〇余句はどのようにして生まれてきたであろうか。
 明治二〇年夏休みに、三津浜の大原其戎に俳諧を問い、「真砂の志良辺」八月号に掲句、誠実な其戎の添削、その人物に子規はひかれた(「筆まかせ」)。それだけに其戎の死に大打撃を受け、古俳句分類に活路を見出したのである。同二四年暮れには、季語中心の甲号、事物中心の乙号、形式修辞の丙号と分類に熱中するにつれ、自らの視点を求め、武蔵野を散策して、初めて写実的態度を確立するにいたった。
 政治から哲学へ、さらに少年時代から心ひかれた文学と哲学との隔たり、その架橋として審美学を求め、スペンサーの心力省減説・余情論と遍歴して、ようやく自分の「俳眼」を開きえたのである。しかも、明治二五年、文科大学生時代に俳論『獺祭(だっさい)書屋俳話』を「日本」に連載し、翌年出版、旧派の宗匠の批評眼を否定し、連衆(れんじゅう)の主体性を重視しての互選方式を改革し、グループ活動としての実をあげていった。子規一派は、伊藤松宇らの椎の友や、宇和島組・大学組と諸要素を包含しての俳句会や小会を度々催した。
 その熱中ぶりの一端は、文科大学を中退して「日本」新聞社員となった子規が、明治二六年「日本」の紙面に公開するにいたって、急速に広く流布するようになった。従来「車屋俳諧」「床屋俳諧」として蔑視されていたが、俳句が漢詩・和歌と同列に新聞第一面にも掲載されるようになり、ようやく第一義の文学に伍してきたのである。
 すでに、房総半島に遊び、木曽路を旅していたが、明治二五年冬、内藤鳴雪と高尾山に登り、「平凡な景を平凡な句にする」境地を会得し、翌年芭蕉の『奥の細道』を慕い、一か月も東北旅行をして「はて知らずの記」を「日本」に連載、新しい風物に接して詩囊(しのう)を肥やした。芭蕉二百回忌にあたり、「芭蕉雑談」を発表し、芭蕉を偶像化する宗匠たちの俳句を、月並俳句として批判した。
 従来、俳諧史では専ら芭蕉までを扱っていたのに対し、子規は、新たに『発句題叢』などから蕪村俳句の真価を発見し、『蕪村句集』探索のため、懸賞募集まで行った。偶然、松山の村上霽月が大阪で端本を購入していたことを後に知り、鳴雪はさらに探求して完本を入手した。こうして、子規は芭蕉と蕪村と比較論評し、以後俳諧史上蕪村を定位したのである。
 古俳句分類を続け、一人の俳人の俳句を集めた「俳家全集」、一俳人の秀句を抜粋した「一家二十句」など比較検討の成果として、句のよさや、すぐれた俳人を識別する鑑識眼を培った結果、鋭敏な感覚で古俳人と、その句のよさを発見していった。
 明治二七年「小日本」編集責任者となった子規は、挿画家中村不折と、気韻生動・スケッチで論争し蒙を開かれ、俳諧の手法に活用するとともに、美術批評もするようになった。
 ここに、明治二三年から同二八年の間、子規とともに活躍した郷土の俳人たちを列挙しておこう。

 (常盤会時代~日本新聞時代)竹村其十・新海非風・五百木飄(ひょう)亭・勝田明庵・藤野古白・内藤鳴雪・下村牛伴  〈宇和島組〉土居藪鴬・二宮素香・二宮孤松ら、 〈松山〉武市蟠松・河東碧梧桐・河東可全・高浜虚子

 明治二八年秋、日清戦争従軍記者子規は、帰還後松山で、しかも夏目漱石の愚陀仏庵において、五〇余日病気療養をした。この時期は子規・漱石ともに一転機として意義がある。
 前年発足した松山松風会の連中が、柳原極堂を通じて、直接子規の俳句指導をうけ、弁当組がでてくるほど俳句に熱中し、「海南新聞」に連日掲載されるようになったし、これが子規の新派俳句の最初の地方結社となった。新聞「日本」に投句したので、日本派・伊予派・書生派などといわれ、旧派の俳風を圧倒していった。
 子規在松中、正宗寺などで句会を開いたが、極堂や漱石と松山周辺を散策した紀行句集「散策集」は、石手寺・道後温泉・御幸寺山麓・石手川・今出(いまず)などの風物をあるがままに表現しているので、句碑となっている。
 次に、眼の不自由な服部華山の依頼で、年末まで「日本」に「俳諧大要」を連載し、「海南新聞」にも転載した。冒頭に「俳句は文学の一部なり」と、俳句文学論を初めて提唱し、習学過程を細論し、従来の幽玄論と新しい写実論を止揚した非空非実の文学を説き、近代俳句の指標と仰がれるようになった。
 愛媛県尋常中学校(松山中学校)教員夏目漱石は、第一高等中学生の明治二二年、子規と寄席の話以来急に親しみ、文科大学英文学科卒のただ一人の文学士で、研究者の道を歩んでいた。子規の寄寓、松風会連中の句会、これが契機となって、九月以降、熊本へ出発する七か月の間に七〇〇余句、生涯の句の約三〇%と、句作に熱中し、創作家へと転進したし、離松一〇年「坊っちゃん」を「ホトトギス」に発表、文豪への道はこの愚陀仏庵において胚胎したといえよう。
 しかも、子規・漱石の交友から、極堂は漱石の俳友、虚子は文友、霽月は心友と、子規没後も親交は続いていた。
 子規は、一〇月一七日松山を離れ、奈良では「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」などの句を残し、上京、二度と松山の地を踏むことはできなかった。
 明治二九年以後、七年間病臥生活中、社長陸羯南(くがかつなん)の愛顧をうけ、在宅のまま選句・執筆を続けた。同三〇年一月日本派俳風隆盛の趣をあげ、俳家三八人、うち次の伊予人一七人を選んでいる。
  鳴雪 高華 極堂 工緻 碧梧桐 洗練 虚子 縦横 霽月 雄健 燕子 縝密 など
 また「発句経譬喩品」には、二六名の各俳人を野菜や果物に見立てたもので、その比喩は絶妙といえよう。
  碧梧桐君 つくねいも 見事ニクツヽキアフタリ 今少シハナレタル処モホシ
  虚子君 さつまいも 甘ミ十分ナリ 屁ヲ慎ムベシ
 これが病床での発想であり、晩年までユーモアを湛えた日常を送っていたのである。
 明治三〇年一月、松山においては柳原極堂が俳誌「ほとゝきす」を創刊、子規と漱石とが「我々二人で日本の近代文学を興そうじゃないか」と話しているのを、襖越しに聞いた極堂は、「何としてでものぼさんを助けなきゃ」、という協力的な気持ちからの出版であった。子規は雅号を変えて全面的に協力し「俳人蕪村」も連載したが、翌年一〇月号からは東京で虚子が編集刊行した。
 愛媛県下においては、各地に俳風さかんとなり、松風会は再興、また三度復興し、旧派を急速に駆逐して、日本派俳句が全県的に広まった。子規派は、東京においては「ほとゝきす」「日本」、県下では海南・愛媛新聞の俳句欄を活かしたためである。
 俳句革新の実があがるのを見て、明治三一年には「歌よみに与ふる書」を発表して、歌壇に爆弾的宣言をなし、同三三年には「写生文」を提唱し、文章朗読会「山会(やまかい)」を開くなど、文学史上特筆すべき革新運動を推進した。翌年、日本派俳句の精髄を収めた句集『春夏秋冬』春の部を選出、同三一年『新俳句』以後の蕪村調が生かされた。
 子規は、写実に開眼し、天然を写したが、絵画趣味から「印象明瞭」を導入した。ここに子規のリアリズムの限界がある。同時に、調和美としての配合論を主張した。この空想的配合趣味はかつて否定した「空」の文学と通うものである。同三三年には、文学の写実と美術の写生をまとめ、写生論をとなえたが、非空非実の文学を意図した子規は、写生の「平淡の中の至味」、いわゆる平淡味にその至境を求めていた(『病床(びょうしょう)六尺』 四五)。
 明治三五年九月一八日絶筆三句を認め、一九日数え年三六歳で没した。難病七年、これに耐えぬいたすさまじい気力は、旺盛な食欲と執筆で支えられ、文学史上俳句・短歌の革新、写生文提唱の実をあげるとともに、そのグループ活動を推進した人間子規の本領が、没後八〇年にして高く評価されるにいたった。

 碧梧桐と虚子

 子規門の双璧は、高浜虚子・河東碧梧桐。長老で論客は内藤鳴雪。子規庵保存の寒川鼠骨(そこつ)・松根東洋城。松山においては松風会の野間叟柳(そうりゅう)・仙波花叟(かそう)・森田雷死久。漱石とも親交の村上霽月。昭和五四年千号に達し、世界一長命の雑誌「ほとゝきす」を松山で創刊した柳原極堂・その他多士済々、子規山脈はすばらしい広がりとなっている。
 河東碧梧桐と高浜虚子とは松山生まれ、明治二四年松山中学生時代に俳句会を結成して、子規の指導をうけ、京都三高時代も子規と文通を競い、異色の書簡文学となっている。明治二九年、子規は、碧梧桐の印象明瞭、虚子の主観的時間を示す新機軸の句風を推賞した。碧梧桐は写実的感覚的方向へ、虚子は主情的空想的な傾向へと展開し、子規没後、明治三八年碧派は俳三昧、虚子派は俳諧散心のグループとなり、相対峙して句作に励んだ。
 碧梧桐は、明治三九年日本全国遍歴を志し、北関東・東北・北海道・裏日本から佐渡に行き、東京に帰った。仙台での句の暗示法から「新傾向」と呼ばれ、第二次西日本旅行中には「昔と今」の俳人の態度を図式化(図表「「昔と今」の俳人の態度」参照)し、今日の社会は避社会的(隠遁的)をやめて楽天的(積極的)な接社会的(現実的)態度に個性を没却した俳諧趣味から個性発揮(自己の自覚)を説き、創作方法は写生(リアリズム)に立って、超脱趣味(芸術的理想美)を要すると主張するなど、戦後の「社会性」俳句の起点となっている。
 明治四四年七月全国旅行を終えたが、俳壇では鳴雪に次ぎ、全国的に人気を博した。
 高浜虚子の文学的素養は西ノ下(現北条市)の風光に培われたという。子規のあとを託され、断りはしたが、明治三一年一〇月、極堂から継承し、「ホトトギス」は子規俳句革新の牙城となり、「俳諧叢書」を続刊して普及に努め、近代俳句の主流にまで推進していった。
 虚子は、空想的と評され、人事を好み、連句論を主張し、写生文に専念した。子規没後、碧梧桐と子規の理念を二分した形となり、夏目漱石に勧めて「吾輩は猫である」を明治三八年一月「ホトトギス」に載せるや異常な反響を呼び、翌年四月『坊っちゃん』と、文豪漱石誕生の糸口となるとともに、虚子も明治末期まで小説に没頭するようになり、「国民俳壇」の選も、漱石門で宇和島出身の松根東洋城に託してしまった。

 川柳

 明治維新後、発句の余興として「狂句」が、狂詩・狂歌とともに愛好された。明治一四年「愛比売新報」にも「狂句」を掲げ、川柳流行の先駆けとなった。
 子規は川柳の味を解し、虚子も俳句の一体と考えているが、明治三九年「海南新聞」に柳壇を設け、窪田而笑子選者となり、「愛媛新報」・「伊予日々新聞」などあいついで川柳を募集し、明治末期には県下各地に川柳会ができ、明治四一年「角力吟」が「海南新聞」で実施され、各地で交歓試合も催されるようになった。

図表 「昔と今」の俳人の態度

図表 「昔と今」の俳人の態度