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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 消防組の設置と整備

 火消組の結成

 藩政時代の消防組織には、藩庁が設置した定火消と町人が作った町火消の二つがあった。その組織・装備は不完全なもので、消火は貧弱な水鉄砲式の木製ポンプ「龍吐水(りゅうとすい)」に頼り、主として破壊消防を通常の消火手段としていた。
 藩政の終幕とともに定火消は廃絶し、町火消の流れをくんだ民設の火消組が松山・三津浜・今治・西条・大洲・吉田・宇和島などの各地に作られた。石鐡県は、明治六年二月に「失火消防規則」を定め、松山・今治・小松・川之江・三津浜など人家稠密(ちゅうみつ)の場所は一街(戸数一二〇~一三〇)か二、三街単位に月番を定め消防出役をすること、郷中など人家疎散の場所は戸毎に出役し消防に当たることを指示した。ついで、月番に当たる街中は一人あて必ず出役すること、病気事故などで出役できない場合は一〇銭ずつ献金すること、失火の節は梵木・鐘を鳴らして報知すること、消防は戸長の指揮に従うこと、消防組には一、二名の伍組頭取を選んでおくこと、防火器は戸長役場など便宜の場所に常備しておくことなどを定めていた(資近代1 六一)。この布達は、県が初めて火災消防について規定したものであった。しかし消防活動に従事するのは地域住民であり、専門的な消防組織とはいえなかった。
 その後、火消組・火防組・水火防組などの名称で各地に自主的な消防組織が結成され、明治一七年末には県内の消防組四七二・組員三万二、七二四人を数えるに至った(明治一七年 愛媛県統計書)。消防組の指揮と取り締まりには警察官・郡吏が当たった。
 松山市では、市制実施前の明治一四年一二月市街連合会の議決により「出火消防規則」を制定して各町合同の消防組織を作っていたが、同二四年一月「松山市役所付属水火防組設置規則」を定めて、県下最初の公設水火防組を組織した。翌二五年一一月これを改めて「松山市水火防組設置規則」を制定した。この規則によると、市に水火防組を置き、水火災ある時はその防御に従事する、水火防組の組織は甲・乙の二種とし、甲は各町住民の出役によって編成し、乙は市役所の付属とする、甲種水火防組の編成は従来の慣行による、乙種水火防組は、古町・外側の二組に分け、それぞれ頭取一人・肝煎(きもいり)二人・伝令使一人・組頭六人・水火防夫六〇人の合計七〇人をもって編成する、水火防組は現地では警察官・市吏員の指揮に従うことなどになっていた。
 このほか同規則は、組員の召集・演習・被服・給与・水火災信号などについて規定していた。固定給を支給したのは乙種水火防組の頭取及び肝煎・伝令使で、他の組員は災害防御に出動した際は一回三〇銭以下、演習の時は一回一〇銭の出勤手当を支給した。したがって、組員はすべて非常勤であり、同市の水火防組は現在の消防団と同様義勇消防組織の性格を持つものであった。また同規則は水火防組の災害出動についても規定し、組員が災害の発生を認知した時は、甲種水火防組は現場へ、乙種水火防組は器機蔵置所へ速やかに参集することを命じた。この場合、到着の順序により第一着から第三着の者には賞金を出すことにして、迅速な現場出動を競わせている。松山市は同二五年の消防関係予算として火防費六五〇円九八銭・水防費一七円六三銭を計上し、水火防組を維持する経費を市が負担することにしている。

 消防組規則と公設消防組の設置

 明治二○年代の府県各地域の消防組の大半は私設のものであり、組織・人員・装備の格差は著しかった。そこで、内務省は明治二七年二月九日「消防組規則」を制定し、府県知事に公設消防組の設置を命じ消防組の全国的な統一を図った。これによると、消防組は府県知事が設置し、組織単位は原則として市町村の区域とする、消防組は組頭一人と小頭及び消防手各若干名をもって組織する、組頭・小頭は警部長もしくはその委任を受けた警察署長が任免し、消防手は警察署長が任免する、府県全体の消防組は警部長が知事の命を受けて指揮監督し、単位消防組は警察署長が指揮監督する、水火災の現場では臨場警察官の指揮を受けて行動する、消防組に必要な器具・建物は府県知事の定めるところに従って市町村が設備する、消防組に関する費用は市町村の負担とするとなっていた。消防組規則の目的は、府県知事の権限で消防組を設置し、その維持管理の責任を市町村に負担させ、警部長・警察署長に指揮監督を行わせることによって消防行政の全国統一と画一化を図ること、全国に公設機関としての消防制度を確立するとともに、政府・府県の統制の下で組織・装備の近代化を実現することにあった。
 愛媛県は、同年五月一九日「消防組規則施行細則」を制定し、消防組の組織・消防組員の任免・服務・被服・給与・賞罰・信号及び消防器具などについて規定した。同細則では、知事が県令をもって指定する市町村に消防組を設置する、消防組の組織人員は、組頭一人、消防手一〇人につき一人の小頭、消防手二〇人以上とする、消防組は所轄警察署長または分署長の指揮監督を受ける、消防組員は、平素から他人に対して脅迫がましい行為または粗暴の挙動をしたり、その職務に関して金品を受けてはならない、消防組には消防器具の蔵置場を設置して消防器具を設備することとし、その位置及び員数は警察署長または分署長が定めることなどを定めており、付録で旗・纏(まとい)・提灯(ちょうちん)・法被(はっぴ)・頭巾・帽子の雛形を図示していた(資近代3 一四一~一四三)。
 県当局は、消防組規則施行細則の制定と同時に、松山市・道後湯之町・三津浜・今治・西条・郡中・大洲・内子・八幡浜・宇和島・吉田の一市一〇町に公設消防組を設置した(資近代3 一四四)。次いで同二九年六月には、北条村・桜井村・波止浜村・大町村・小松村・福岡村・壬生川村・川之江村・上分村・三島村・喜多村・長浜町・川之石村・岩松村の一四か町村にも設置した(資近代3 一五〇)。公設消防組の実態について、西宇和郡八幡浜町(現八幡浜市)の例をあげると、同町の消防組は町内を東・西の二組に分け、頭取一人・副頭取一人・取締各組四人ずつで、そのほか見回り消防夫を置いた。組員数は東組が六四人、西組が六二人の合計一二六人であった。組員の任務分担は、大鳶一〇人・小鳶一〇人・梯子五人・纒一人・筒先三人・小頭四人・郷筒三〇人で、ポンプは両組に各一台であった(八幡浜市消防本部発行「消防沿革史」)。
 こうして公設消防組の設置は知事の権限で行われたので、指定を受けた市町村の中にはこれを維持するための財源に苦しむところが多かった。このため、明治三〇年一一月「消防組規則」が改正されて、消防組の設置は知事の職権か又は市町村の申請によるものとし、消防組に置くべき器機・器具などは府県知事が市町村会に諮問して定めるとされた。消防組織の保有と運営については、費用負担をする市町村の自主性が尊重されることになったのである。これに伴い、本県では同年一二月一二日に「消防組規則施行細則」を改正して、消防組の設置は市町村会の議決を経て市町村が申請する制度に改め、消防器具、消防組員の被服・給与・賞与などの基準に関する条文を大幅に削除した。
 この改正で、市町村による公設消防組の自主的な設置が促進されることになったが、消防思想の欠乏と財政事情から消防組の設置に消極的な態度を示す市町村が多かった。本県でも明治三〇年代はわずかに二五、六の組織を数えるのみであり、同四〇年代に入っても四一年四二、四二年四七、四三年五八の漸増にとどまり、県下二九八市町村のうち組織率はわずかに二〇%に過ぎなかった。県民の消防思想の欠如と消防体制の不備を憂慮した県知事伊澤多喜男は、明治四四年一一月一五日郡・市町村に対して公設消防組の設置を促すとともに既設消防組の組員訓練と器機・器具の改善方を指令した(資近代3 五四四~五四五)。この県知事訓令を受けて、各警察署では署長以下幹部が各町村に働きかけて精力的な組織工作を行った。この結果、この年から翌四五年にかけて県下の市町村に相次いで公設消防組が設置され、大正元年末には組織数一五二に急上昇した。これに合わせて装備の改善と充実が進められた。ことに「龍吐水」に替わって消火に威力を発揮していた「腕用ポンプ」の保有数は明治三一年にはわずかに二五台であったが、同四五年には三五〇台に伸びた。ここにようやく専門的な消防組の組織と装備が整うことになった。