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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 警察制度の成立と拡充

 近代的警察制度の誕生

 廃藩置県までの警察業務は、府藩兵がこれに従事していた。廃藩置県が断行されると、府県によっては邏卒・取締番卒・捕亡手などの名称のものが設置され治安維持に当たるところもあった。政府は明治四年に「県治条例」を判定して、全国各府県に聴訟課を置き訴訟や罪人の処置及び捕亡など警察・裁判事務を担当させることにした。次いで、翌五年には「司法職務定制」を制定して、各府県に裁判所や捕亡吏・邏卒などを置き司法警察と行政警察をある程度区別するとともに、司法省に警保寮を置き全国の警察業務を統一的に管轄させることにした。翌六年にヨーロッパの警察制度を調査し帰国した大警視川路利良の提案で新しく内務省が設置され、行政警察権は同省に移されることになった。警保寮は翌七年には内務省に移管され、この年の「検事職制章程司法警察規則」、明治八年の「行政警察規則」で司法警察と行政警察の区別が明確となった。これらによると司法警察は「行政警察予防ノ力及ハスシテ法律ニ背ク者アル時其犯人ヲ探索シテ之ヲ逮捕スル」ものであり、また、行政警察は「人民ノ凶害ヲ予防シ安寧ヲ保全スル」ものとされていた。ここにようやく、ヨーロッパの警察制度を範とする近代的警察機構が成立した。
 各府県に設置された警察官は邏卒・捕亡吏・取締・番人など種々の名称で呼ばれていたが、明治八年に東京府以外の府県警察官を一等~六等(その後一〇等まで増加)の警部と一等~四等の巡査とし邏卒の名称を廃止することにした。また、「府県職制並事務章程」によって警察権を県令・府知事に委ねることにした。その後、警察官制度は数度の変遷を経て、明治一九年に東京府以外の府県に警部長・警部補・巡査部長・巡査が置かれ、警察官の名称はほぼ全国的に統一された。
 本県においては、明治五年石鐡県・神山県に中央の指令により聴訟課と捕亡吏が設置されたが、石鐡県では別に民費で各大区に一名の大区取締掛と県費支弁による邏卒を設置し、警察力の強化を図った(資近代1 四五~四六)。同年八月には、川之江・西条・今治・松山・久万など県下一九か所に邏卒屯所が設置され、邏卒長(後の取締長)一人、邏卒取締(後の取締小長)四人、邏卒(後の取締)七六人が配置されたが、経費負担や人員の面で十分な治安維持ができなかった(資近代1 四七)。愛媛県成立後も捕亡吏や邏卒が置かれたが、捕亡吏は「聴訟課規則」・「聴訟章程」によって司法警察事務を、邏卒は、「邏卒章程」によって行政警察事務を担当することとなった(資近代1 二一八~二二〇)。邏卒に任用された人々の多くは旧士族出身者であったため、護民官としての自覚よりも新たな権力者として自負心が優先して、「間々威権ヲ張、却テ衆民ノ難儀ヲ醸(かも)」す傾向があった。このため石鐡県では「取締ノ儀ハ人民保護ノ為相設候ニ付、愚婦愚夫ノ条理ヲ弁ヘサル者ヘモ精々説諭ヲ加へ、決テ粗暴ノ取扱致間敷」ことを説諭している(明治六年二月二日「石鐡県日誌」)。
 明治六年九月には、邏卒の不足を補うため各大区毎に民費による番人と称される警察職員が置かれて、邏卒の職務の一部を分担して治安維持に当たることとなった(資近代1 二二〇~二二一)。次いで同八年には、従来の邏卒と番人が廃止され、一等から三等にいたる官設の取締番人一七三人が配置された。これにより、官設と民設が複雑に交錯していた従来の制度が一本化され、警察力が一段と強化された。取締番人の呼称は、二か月後に制定された「行政警察規則」によって一等~三等の邏卒に再び統一されるとともに、司法警察事務を担当していた捕亡吏も愛媛裁判所(明治九年、松山裁判所として県行政から独立)の設置により廃止された。また、邏卒の活動拠点である屯所が本屯・支屯合わせて八五か所に設置され、一七〇余人の邏卒が分散配置された。同年一一月には邏卒の名称が巡査と改称されるとともに、一二月には西条・今治・大洲・宇和島に警察出張所が新設されて警部と巡査が配置され、「府県職制並事務章程」による警察権の独立と同時に組織も拡充強化された(資近代1 三八六)。明治一〇年一月、内務省が全国の警察出張所と屯所を警察署と分署に改称するよう指令した結果、県下の警察出張所と屯所は統合整理され、高松・松山などの七警察署(伊予に五署、讃岐に二署)と六四分署(伊予に四七分署、讃岐に一七分署)が設置され、三等~一〇等の警部二二人と五一二人の巡査が配置された(資近代1 六一五~六一八)。しかし、伊予・讃岐を含む愛媛県全域を五〇〇余人の警察力で掌握するには手薄であった上に西南の役やコレラ流行の非常時下で治安維持と防疫に多忙を極めた。このため、明治一一年の第二回特設県会で巡査増強の議案が提出され、定員の約二〇%(一〇〇人)の大幅増員が認められた。これに伴い分署も整理統合され四五分署となり、また分署の下に六八の交番所が新設されて、明治二二年の派出所・駐在所の設置まで警察と民衆との接点の役割を果たした(資近代1 八二二~八二五)。明治一二年九月には、各警察署の上席警部を署長に任命し、また郡役所所在地の分署には一〇等警部を責任者として配置して第一線で指揮をとらせることとしたが、県財政の逼迫(ひっぱく)により同一三年には分署配置の警部は廃止され一、二等巡査が分署の長として指揮をとるよう改められた。
 個人や私的団体が自ら費用を負担し警察官を雇う請願巡査制度は、明治一四年の内務省の通達により全国的に統一された。愛媛県では、この通達に基づき、明治一六年五月に「巡査配置請願規則」を布達し、費用負担の額や納付方法について定めた(資近代2 二五二~二五三)。請願巡査の身分は一般の巡査と同じであったが、人員は府県巡査の定員外として扱われ、すべての費用は受益者が負担した。愛媛県での請願巡査は、住友関係の製錬所・鉱山現場に主として、明治期には二〇人前後の人員が配置されていたようである。
 以上のように陸地部での警察組織は徐々に整備されたが、広範な海上を管轄区域に持つ愛媛県における海上犯罪や海難事故の取り締まりは十分でなく緊急を要する課題となっていた。明治一四年の県会で「水上警察設置ニ関スル建議」が提案された。県もこれを認めて、同年一二月、県内に一三の水上警察区を設置し、各区に和船の巡邏船一隻と巡査二名を配置する旨の布達が出され、全国的にみても画期的な試みがなされた(資近代2 二四八)。この水上警察については、その後財政難などの理由からしばしば廃止が論議されたが、海上犯罪の取り締まりや防止及び水難救助に数々の実績をあげた。水上警察は明治二一年五月の警察汽船「第一愛媛丸」の新造によって、その活動範囲を一層拡大し、海上犯罪や海難事故の警戒取り締まりに威力を発揮した。
 府県における警察事務担当機関は警察力の拡充強化に伴い整備され、廃藩置県以後聴訟課に属していた警察事務が、明治九年の県機構の改革により第四課に属することとなった。第四課の内部組織は、当初、警保科・警察科・監獄科の三科であったが、同一一年に常務科・会計科・監獄科の三科に組織替えされた。「愛媛県事務章程」によると、常務科が司法警察及び行政警察に関する広範な事務を一手に扱っていた。翌一二年には、愛媛県事務定則の全面改正により第四課は警察課と改称され、司法及び行政警察事務と警察署を管轄することとなった。この年に制定された「警察課職制及事務章程」によると、課長には二等警部が充てられ、内部組織は行政部(受付掛、記録掛、編輯掛)・司法部(交収掛、探索掛、賍物掛)・用度部(調査掛、製品掛)の三部八掛制となり、第四課時代に比ベ一段と組織力が強化された。
 その後、府県の警察組織の急速な拡充と発展に伴い、明治一三年四月、府県の警察課もしくは警保課は内務省の指令により全国一斉に警察本署と改称された。また翌一四年一一月には、「府県官職制」の増補によって、警察本署には奏任八等官相当の警部長が配属されることになった。従来から警察に所属していた監獄事務も明治一四年からは分離独立することになり府県に監獄本署が設置された。本県では、明治一三年四月二四日に警察課を警察本署に、警察課長を警察本署長に改称し、同一五年一月には警察本署長真崎秀郡が警部長に就任した。同年九月には松山監獄署も愛媛県監獄本署と改められ、高松以下の各地に支署が置かれた。警察本署の内部組織は、当初行政部(行政警察関係事務)・司法部(司法警察関係事務)・会計部(官費及び地方費の収支関係事務)の三部一一掛制であったが、翌一六年には職員科(進退賞罰)・第一部(国事警察)・第二部(巡視取締)・第三部(規律調理)・第四部(庶務)・第五部(主計)の一科五部制に全面改正された。明治一八年に内閣制度が発足し、翌一九年に「地方官官制」が制定されると、地方警察制度はその組織力を一段と強化した。府県の知事に対しては、強力な警察権限を付与すると同時に、警察本署を警察本部に改め、第一課から第四課の四課制とした。また、警察区画を全面的に改定し、一郡一署主義を原則に分署を統廃合して、二〇警察署二一分署を設けた。なお明治二一年の香川分県後は川之江・西条・小松・今治・三津・松山・久万・郡中・大洲・八幡浜・卯之町・宇和島の一二警察署一五分署となった(資近代2 三七四~三八一)。民衆との接点の役割を果たしていた交番所は明治二二年五月に全廃され、これに代わる一九の派出所と二〇九の駐在所が設置されて、警察力の分散化が促進された。その後、「市制」・「町村制」施行後の明治二三年には二〇派出所・二三〇駐在所に増加した(資近代2 五六六~五六九)。警察官定員も一郡一署主義の原則により幹部警察官を中心に増員し、警部長一・警部三四・警部補五三・巡査八〇二となった。

 警察制度の確立

 明治二三年、「府県制」・「郡制」が公布され、「地方官官制」が全面的に改正されたのを受けて愛媛県処務細則が改正され、警察本部は警察部に改称されて警務課・保安課の二課と高等警部が置かれた。特にこの改正で注目される点は、帝国議会開設に伴う民党を中心とする政治活動の活発化に対処するため、政社の活動や思想面の取り締まりを担当する高等警察が拡充強化されたことである。また明治二六年には、衛生事務のすべてが警察部の管轄下に入り(明治三一年に衛生課として独立)、取り締まりを中心とした権力的な衛生行政が展開されることとなった。明治三八年四月、「地方官官制」改正により、従来の警察部は第四部と改称された。これと同時に明治一四年以降府県警察の長であった警部長が廃止され、新たに事務官である第四部長が警務長として府県警察を指揮監督することになった。内部組織も課制が廃止され、警務係・保安係・衛生係・高等警察係の四係制となったが、同四〇年の「地方官官制」の改正により第四部は再び警察部となり、内部組織も警務課・保安課・衛生課・高等警察主任の課制に戻った。このような過程を経て、愛媛県の警察事務機構は明治後半期にいたりほぼ定着することになった。
 こうして、警察機構の定着は図られたものの、第一線の警察署や警察官の職務内容は次第に複雑化し、専門性が要求されるようになった。このような状況に対応するため、明治三〇年前後から警察官制度に種々の改正が加えられるようになり、複雑化した警察事務の処理の効率化が図られた。明治三〇年七月、内務省の制定した「巡査配置及勤務概則」に準拠して、愛媛県では同年一〇月「巡査勤務規程」が制定された。これは第一線の巡査の勤務種別を内勤・外勤・特務・刑事の四種とするとともに、外勤巡査の勤務要領を規定したものであった。特に、明治二二年四月制定の「警察勤務概則」に見られなかった特務巡査や刑事巡査などの専門的職務に従事する警察官が置かれたことは、犯罪の多発や巧妙化などに伴い、職務内容の多様化に対応したものと考えられる。特務巡査は外勤巡査の補助や犯人の護送、看守業務などに従事する巡査で、従来の予備巡査が担当していた職務を継承した。刑事巡査は犯罪捜査や令状執行を主務とする警察官であったが、初めて法的に容認され御荘警察署を除く県下の警察署に原則として一名(松山警察署のみ三名)配置された。刑事警察の中心となる犯罪捜査専門の警察官は、明治一〇年代には探偵掛雇という江戸時代の「岡っ引」的存在のものであったが、明治二二年の「警察勤務概則」により設置された予備巡査に初めてその職務を兼任させてようやく正式なものとなった。しかし、予備巡査は多くの任務を兼任していたため捜査活動に専念することができず、探偵掛雇の捜査活動を補助する程度であった。
 次に、第一線の警察機構である警察署・警察分署及び派出所・駐在所の新設や統廃合も明治三〇年四月一日の郡制施行以降大幅に改正された。警察署・警察分署は、郡区の改正(一市一二郡)に伴い新しく御荘警察署が新設されるとともに、城辺・寒川・三芳の三分署を廃止し道後・三机の二分署が新設されて一三署一四分署体制となった(資近代3 三一五~三一七)。また、同三二年五月には松山警察署々長が内務省の告示により警視署長に指定され、県下で初めての警視署長が誕生した。その後、明治三五年桂太郎内閣の行政整理に伴う警察区画の改正で、川上・北条・菊間・大南・三机などの五分署が廃止され巡査部長派出所となるとともに、同四〇年には角野分署が角野警察署に昇格して一四署八分署体制となった。民衆との接点となった派出所・駐在所も、明治三〇年四月の郡区の改正、同年七月の「巡査配置及勤務概則」の制定、同三四年六月の同概則の改正によって、しばしばその配置や区画が変更された。明治三〇年四月の郡区改正に伴う配置の変更によって県下の派出所は一九、駐在所は二三五となった(資近代3 三一七~三一九)が、同年一〇月の巡査受持区画表の改正によって、巡査派出所を松山市の湊町・久保町・本町・木屋町以外のものをすべて廃止して、二人の外勤巡査を配置する複数駐在所を従来の派出所所在地に新設した。これは愛媛県の地理的状況を考慮した結果であろう。その後、内務省による巡査配置及勤務概則の一部改正により、愛媛県では明治三五年五月に派出所・駐在所の設置位置を改正するとともに、幹部派出所である「巡査部長派出所」を新設し、分署を廃止した北条など五か所を含め一六か町村に設置した。その後、巡査部長派出所は明治四〇年までに八か所新設されたが、明治四一年には一一か所が廃止され一三か所となった(同四四年、菊間に再置され一四か所となる)。巡査部長派出所の創設は、第一線における警察事務処理や民衆生活の処理の面で大きな成果をあげ、第一線の警察力の強化に役立った。