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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

四 伊澤県政と土木施策の確立

 伊澤多喜男の着任

 安藤謙介の休職により後任知事には、伊澤多喜男が任命された。伊澤は、長野県士族で明治二年の生まれ、長兄の修二は明治時代の教育事業に参画した高名な教育行政家であった。明治二八年東京帝国大学法科政治学科を卒業、翌年愛知県属を振り出しに内務属、山梨県・岐阜県参事官、同三三年岐阜県警察部長を経歴し、同三五年に福井県書記官(内務部長)に転じ、その後、滋賀県内務部長から同三九年警視庁第一部長となった。翌四〇年和歌山県知事に栄転して在任二年六か月の明治四二年七月三〇日、愛媛県知事に転任した。
 本県在任は三年五か月、大正元年一二月に新潟県知事に転じたが翌年休職を命じられ、同三年第二次大隈内閣の成立とともに警視総監に任ぜられた。しかし、大浦内相の議員買収事件に関連した内閣改造の際辞職した。大正五年一〇月、貴族院議員に勅選され、昭和一六年に辞任するまで約二五年間にわたって議席にあり、その間、小会派である同成会の領袖として各派交渉委員を勤め、立憲同志会・憲政会の民党を代弁して活躍した。また、大正一三年六月護憲三派内閣の成立下で台湾総督、のち東京市長の官途につく一方、内閣審議会委員・国家総動員審議会委員などの各種委員を歴任した。昭和一五年枢密顧問官に任じ、同二二年に同院が廃止されるまでその重職にあった。こうしたことから、同二二年一二月マッカーサ元帥覚書に基づくポツダム政令による追放該当者に指定された。
 このように伊澤は、いわば生粋(きっすい)の官僚で政党には入らなかったが、一貫して非政友の立場をとり、盟友浜口雄幸や下岡忠治らと提携して憲政会・民政党側に立った。そして民政党組織に助力、浜口首相遭難直後に幣原(しではら)喜重郎を首相臨時代理とし、田中義一内閣の時に水野文相のいわゆる優詔問題を起こさせるなど、みな伊澤の術策によるといわれる。また、後藤文夫と計って岡田啓介内閣を成立させるなどの活躍もあり、官僚界の大御所、民政党の黒幕などと称せられた。
 新任の伊澤知事は、腹心である前和歌山県事務官であった柴田善三郎を新警察部長として同道、八月二日に着任し、翌三日登庁して県政への抱負を述べた。

 三津浜築港疑獄事件

 伊澤知事の赴任後二か月の九月二四日、柴田警察部長の指揮により三津浜町長逸見義一・町会議員宮崎張義ら三津浜築港運動の中心人物一一名が、寄附強要恐喝の疑いで逮捕された。罪状は、築港起工式を行うにあたりその式典費二、五〇〇円のうち一、〇〇〇円を町内の富豪に割り当て、これを渋る者に対し威嚇、寄附を強要した疑いによるものであった。裁判の結果は証拠不十分として全員無罪となった。しかし、この事件を契機とした官憲の摘発は、一〇月一三日に至って政友会支部幹事長藤野政高を詐欺の疑いで拘引するにおよび、「三津浜築港疑獄事件」として、県民の注目する大事件に発展した。検挙の理由は、藤野が三津浜築港運動が成功した後の一二月二三日に町長逸見義一らから受け取った一万円の使途が正当でないというものであった。この詐欺取財事件の公判は一二月七日から松山地方裁判所で開かれ、弁護人には東京の法学博士鳩山和夫など政友会系弁護士九名が総力をあげてこれに当たった。公判中、五、〇〇〇円を運動協力者に謝礼金として贈ったとする藤野に対し、裁判官はその氏名を明らかにすることを求めたが、藤野は他人に迷惑をかけることができないとして罪を一身に背負う態度を示した。弁護人側は藤野の輝かしい来歴や人物を高評し、証拠不十分の理由で無罪判決を求めたが、同一九日の判決では詐欺の事実ありと認定し、被告に懲役一年六か月、執行猶予三年を宣告、藤野は控訴せずこの判決を受けて罪に服し、服役後政界を隠退した。
 なお、この予審中に藤野の詐取した金の使途に関連して、大政章津・柳原正之・黒田此太郎の三名が藤野から愛媛県女子師範学校の三津浜町誘致運動を依頼され、運動費七五〇円を二回にわたって受け取った事実が判明した。ところが大政らは、先述の松山地裁予審廷における証人尋問の際この事実を否認したため、検察当局から偽証したと訴えられ、「女子師範学校運動費分配偽証事件」として公判に付された。事件は一二月一一日公判、同一八日判決で、三名の被告は懲役二か月、執行猶予二年の宣告を受けた。
 この一連の事件は、当の政友会支部にとっては一大衝撃であったのはもちろんであったが、その上に同派が強力に推進してきた大土木事業の遂行に憂慮すべき状態が生じてきた。一方、三津浜築港を含む大土木計画には、種々不純の取り引きが暗に行われていたことが明らかになり、政界粛正の気運が求められることとなった。

 第七七回通常県会

 明治四二年一一月一八日、予算査理のための県参事会に、県当局は財源難を理由に継続土木費本年度支出額の大削減を中心とする四三年度予算案を提出して伊澤知事が詳細な説明演説を行った(資近代3 四三三~四四一)。伊澤は、まず主務省からの指令・通牒を全文公表し、内務・大蔵大臣の指揮に基づくと「当時ノ当局者カ此ノ土木事業ノ為ニ計画セシ所ノ財政ノ基礎ハ甚大ナル齟齬(そご)ヲ生セルモノニシテ之ヲ普通ノ歳入ヲ以テ予定ノ事業ヲ遂行セントスルコトハ不可能トナレリ」「当初ノ財源計画上ヨリ財源ヲ失フ金額一ヶ年約拾万円ニシテ……此ノ一大財源ノ欠陥ヲ生スルニ於テハ本土木事業ニ対スル財政計画ノ前途ハ頗(すこぶ)ル憂慮ニ堪ヘサル事トナリ了リヌ」と述べて国の命令による財源措置では大土木継続事業を計画どおりに推進できないとした。さらに財政計画上からみた四二年度継続土木費支出や三津浜築港の問題点を指摘した後、内務大臣指揮書第三項「県一般ノ利害ニ関セス専ラ一地方ノ利害ニ関スルモノハ……」の解釈を論じて、本継続事業遂行箇所の決定は内務大臣の意志にあり、たとえ県財政に余裕があっても「県一般ノ利害ニ関セサル事業」は県経営とすることはできないとの判断を示した。そして、明治四三年度は「赴任日尚浅ク十分県下ノ事情ニ通セサリシヲ以テ遺憾ナカラ各般ノ方面ニ於テ確乎(かっこ)タル断案ヲ下ス能ハス」との理由で、現状維持の方針をとり、継続土木事業も財政の許す範囲において施行し、他日方針を確定する予定であると結んだ。
 これを受けた政友派の占める参事会は強く反発し、あくまで既定計画を推進する修正案を提出したが、伊澤知事は意見として聞くにとどめ断固原案を県会に提出することとしたため、通常県会は県当局と政友派の対決場となった。土木事業の遂行に危機感を深めてきた政友派幹部は予算修正を協議する一方、通常県会開会に符節を合わせて伊澤県政の秕(ひ)を糾弾するための県民大会及び支部総会の開催を決定した。一二月八日に開催された県民大会には二、〇〇〇人余が来会し、代表者の演説のあと伊澤知事批判の宣言文及び既定土木事業の遂行と知事更迭を期すとの決議文を採択した。
 こうした背景の第七七回通常県会は、その冒頭から荒れに荒れる波乱の県会となった。すなわち、第一読会ではまず県当局の公表した主務省の指令書及び通牒の解釈をめぐって鋭い対立・激論が続き、多数を頼む政友派は、伊澤知事に熟考を求めるための一日特別休会決議、知事の所為を不当とする弾劾的決議を行い、知事もまた議決取り消し命令を発してこれに報い、県会はこれに対して不当処分取り消し請求の行政訴訟提起決議で切り返すなど紛糾を重ねた。続く第二読会では、参事会修正説が各款項で可決され、歳入歳出予算原案を総額八万八、六二四円余増額修正した。また、特別会計では、県立松山病院予算を否決した。この間、政友派の機関紙「海南新聞」は連日にわたって、伊澤知事攻撃の記事を掲載していた。
 こうした県会議決に対して、伊澤知事は再議に付さず、府県制第八三条に基づいて内務大臣の指揮を乞い、翌四三年二月、原案執行を強行した。また、県立松山病院廃止の趣旨で県会が否決した病院関係予算についても原案を執行し、病院を存続させることとした。
 一方、安藤知事と政友会による土木事業を挫折に追い込んで意気上がる進歩派は、明治四三年四月二四日、松山市公会堂において四、五〇〇余名参加の県民大会を開催し、健全な県財政の確立、県政の宿弊の刷新、県の秕政を助長した本県多数党の行動の否認と次回選挙における排除などの県政要項を決議し、多数派奪回の動きを内外に示した。

 大土木事業の更正と県土木方針の確立

 一二月二三日の県会決議による不当処分取り消し請求の訴えは、被告県知事・原告愛媛県会として翌四三年一月二九日付けで行政裁判所に提訴された。訴訟を受理した裁判所では、伊澤知事に対し答弁書の提出を命じ、審理を行った結果、四月三〇日に判決を下し、原告の請求を棄却した。判決の要旨は、「府県制第四一条ハ歳入出予算ヲ定ムルコト等ノ事件ニ付キ府県会ノ議決権限ヲ規定シタルニ止マリ、(本件の如き)議案提出ノ方法ニ関シ知事ノ所為ヲ不当トスル議決ヲ為スヘキ権限ヲ包含スルモノニアラス」とあり、本件の議決は県会の権限外にあることをもって、知事が府県制第八二条第一項により議決を取り消したのは適法であるとの判断を示した。
 知事就任直後、伊澤は、大土木計画立案担当者であった宮川土木課長兼工師長を休職、次いで依願免職とし、後任の工師長に土田鉄雄を据え、土木課長には学務課長竹井貞太郎を兼務させた。四三年度からは豊田幾次郎が任に当たることとなった。先述のように伊澤知事は、明治四二年通常県会では、「赴任後日浅く未だ県下の事情に通ぜず」を理由として、土木費年度割支出額の大幅減額にとどまったが、参事会で示唆したように大土木計画の更正は財政計画・土木施策上急を要する県政の最重点課題との認識に立って、鋭意調査、検討を加え、新任の豊田土木課長にその立案を命じた。その結果、翌四三年通常県会に大土木事業更正案を提出したのであった。
 その要点は、(1)継続年期を三か年短縮して一九か年継続としたこと、(2)支出総額を二二五万二、五一三円余と大幅減額したこと、(3)支出額の減額に伴い年割額を減じ、四四年度から五八年度までを年割一〇万円、最終の五九年度を六万二、〇〇〇円余としたこと、(4)港湾里道工事の郡市町村への移管及び県費補助規定の整備などにわたるものであった。県費工事分は、道路の部一一二万余円、河川の部一五万四、〇〇〇円余、港湾の部一四万六、〇〇〇円余、雑費一四万六、〇〇〇円余を加えて合計一五六万余円を計上した。これに明治四一~四三年度までの既施行分六九万円を加えると、総額二二五万余円の規模となっていた。原計画と比較すると、道路の部では国道第五一号線夜昼峠隧道の新設と里道二二線の全線がそれぞれ削除され、河川の部では八幡浜千丈川口土砂扞止(かんし)堤の削除、港湾の部では大問題となった三津浜築港の全額削除を筆頭に、壬生川船渠修築、船舶諸機械購入費、各港の設備費などことごとく削除を受け、結局、各港の浚渫事業のみが取り上げられたに過ぎず、このように各項にわたって大幅な削減更正となっていた。
 一方、下級団体の経営に移されたもの及びその他公共の利益に重大な関係を有すると認めた工事に対する県費補助が新たに提議された。これによれば、先の継続土木事業の更正によって削除された里道二二線や三津浜築港を含む港湾設備、千丈川土砂扞止堤などの諸事業が予定対象とされ、補助率は三津浜港に対する一〇〇分の七〇以内を最高に、諸港湾に一〇〇分の六〇以内、里道二二線に一〇〇分の五〇以内、「その外に公共の利益に重大の関係を有するものと認めたる里道港湾及上下水道」に一〇〇分の三三以内としていた。この県費補助予定の総額は一九五万五、一六七円余となり、予定工事金額の約六一%に相当していた。この結果、県費は継続土木費と補助予定額を合わせて四二〇万七、〇〇〇余円となり、これに郡市町村負担予定額一一八万七、〇〇〇円余を加えた総額五三九万五、〇〇〇円が、この更正案としての事業規模であった。二二か年計画の総額七五五万五、〇〇〇円に比較して、二一八万余円の整理節減計画となった。
 審議に当たった県会は、この更正案を諸手(もろて)を挙げて歓迎し、満場一致で可決、確定議とした。前年来から激しく対決姿勢を示していた政友派が一転して歓迎する態度に変わった背景には、伊澤県政の厳しい不正摘発や議会対策の高姿勢に対して態度を軟化したこと、知事もまた土木補助などについての政友派要求を入れて歩み寄りをみせたことによる。それを示すものに、会期中に政友派が提出した「土木補助ニ関スル年限延長、歩合増率ニ関スル建議」とこれに対する県当局の対応があげられる。注目の土木事業更正案が可決・確定した直後に、政友派一八議員が連署して提出した建議案の内容は、郡市町村土木費に対する県費補助について、補助歩合の増率、補助率に関する「以内」の二字削除、補助年限を明治四四年度から同六二年度までと指定することの三点を求めるものであった。これについて進歩派の村上紋四郎は、「七百五〇万円悉皆(しっかい)ノ工事ヲスラ理事者ニ一任シテ容喙(ようかい)セザル議員ガ補助率ノ少々ニ容喙センナドトハ自家撞着ナラスヤ、更正案ニテ伊澤知事ヲ謳歌シナカラ、今更斯ル建議ヲナスハ矛盾ト云フベシ」と批判して理事者一任を主張したが、多数をもって建議は可決された。これに対し、伊澤知事は、「大体ニ於テ十分熟考ノ上相当ノコトトナシ、諸君ノ輿望ニ副ハン」と答え、建議に理解を示した。そして、この趣旨を生かして各項を修正し、翌四四年三月三日に「土木費補助規則」(資近代3 四四一~四四四)を定め、令達した。それによると補助率は、予定工費に対して三津浜港で一〇〇分の七〇以内が七五に、川之江以下一一港で一〇〇分の六〇以内が六五に、里道二二線で一〇〇分の五〇以内が六〇に、その他公共の利益に重大の関係を有するものと認めた里道港湾及び上下水道で一〇〇分の三三以内が「以内」を削除して三三にそれぞれ増率され、建議を全面的に反映していた。また、あわせて「災害土木費補助規則」も令達された(資近代3 四四四~四四六)。
 こうしたことから、政友派は、大土木事業の更正が同派の主張を容れたもので、事業内容・規模が維持された点、継続年期の短縮された点、大幅な県費補助が予定される点などを評価し賛意を表した。一方、進歩派では、この更正は旧案を杜撰(ずさん)無謀なる事業と県当局が認めて、整理節減したものであるとして年来の同派の主張に合致していると高く評価、賛同した。このように両派の論拠に隔たりはあるが、ともかく、多年にわたって県政界係争の焦点であった土木方針が、ようやく確定をみることとなったのである。

 煙害問題の解決

 伊澤知事が着任した当時、煙害問題は次第に尖鋭化しつつある時期であった。明治四二年、越智・周桑・新居三郡の町村は貴衆両院に煙害解決請願書を提出、有志代議士が鉱毒・煙害に関する質問書を衆議院に提出した。こうしたなかで、県選出代議士才賀藤吉・加藤恒忠の斡旋(あっせん)により尾道会談が行われたが決裂した。翌四三年一月、越智郡外三郡の農民は重ねて貴衆両院に請願書を提出、これを受けて衆議院では有志議員が鉱毒除害命令及び被害救済に関する建議案を提出し、政府の速やかなる問題解決を迫った。
 伊澤知事は、事態が一刻の猶予も許さぬことを察し、民意の聴取、被害状況の調査を進めて煙害対策につき検討を加えるとともに、農商務省との連絡を密にして、農鉱交渉の準備工作に乗り出した。明治四三年八月、伊澤は被害四郡町村に対し覚書を提示した。各郡ではそれぞれ協議会を開催して内容を検討し、代表者を県庁に送り、一〇月、若干の条件をつけてこの覚書を承認した。この間、伊澤は住友側に対してもその意見を聴取し、農鉱両者の意向を取りまとめ、農商務大臣に報告するとともに同大臣の現地視察を要請した。
 農商務大臣大浦兼武は下岡農務局長らを伴い、一〇月一二日から煙害地及び鉱業所・四阪島製錬所の視察や事情聴取を行い、帰京後直ちに、煙害賠償契約協議会を開くため関係者に上京を求めた。協議会は、一〇月二五日から、農商務大臣官邸で伊澤知事を座長として始められた。農鉱両代表がそれぞれ提出する資料及び主張はことごとく大きな懸隔があり、両者は鋭い対立をみせた。このうち、損害額算定については農商務省の調査資料を基礎としていたが、損害賠償額・契約期間・賠償区域などについて繰り返し協議したものの妥協点を見いだせず、最終的には農相裁定にゆだねることとなった。
 明治四三年一一月九日、農商務大臣及び知事の裁定を双方が承認し、契約書に調印して協議会を終えた。ここに六か年に及ぶ煙害問題は一応の解決をみたのである。
 第一回賠償契約に基づく賠償金、出金の処分方法については県知事に一任された。その方法では、賠償金のうちから、まず県直営の被害地農事改良費と準備金(次年度、被害実額によって町村に配分)を控除し、残金を農商務省の被害調査額に応じて町村に比例配分し、これを農林業改良奨励基金に充てるというものであった。この方法は以後も原則的に採用されている。県直営の被害地農事改良費とは、県が指定寄附を受けて米麦原種田を設け、専門の技師を任命して耐毒性のある経済上有利な品種を研究させ、その種苗を被害農民に分配して農事改良に資するものであった。また、被害町村に分配された農林業改良奨励基金充当分は、各町村で基金特別会計を設け、指定された範囲内で町村が農林業改良奨励のために支出するか、または原則として産業組合・水利組合・耕地整理組合・肥料共同購入組合及び森林組合に限り、利子付きで貸し出すことが許されていた。県では別に「農林業改良奨励監督規程」を定めて、この基金の運用を監督することとした。
 この煙害問題の解決及び賠償金処分方法の確立について、伊澤知事の手腕は用意周到で深謀をめぐらした牧民官(ぼくみんかん)の真髄と評され、伊澤自身もまた煙害解決を生涯快心の作であると述べている(「伊澤多喜男」)。

 公有林野の整理開発

 市町村制の施行によって成立した新市町村にとって、部落有財産の存続は市町村基本財産の造成を妨げるのみならず、同一市町村内における住民の部落的割拠の経済的基礎となり、その自治体的結合の成熟を阻む最も大きな障害となった。そこで政府は、この障害を除去するのを第一義に、そのほか林野の利用開発と国土保護の要求を背景に部落有財産の統一を促していた。
 愛媛県でも、明治三八年三月四日「公有林野整理規則」(資社経上 四〇六)を令達し、整理に努めてきたが、全国一般と同様にその整理は遅々として進まなかった。こうしたことから、明治四三年一〇月、政府は内務・農商務両次官名で依命通牒を発し、部落有財産の主要部である林野を市町村に統一帰属することは公有林野の整理開発の捷径(しょうけい)で、その遂行を図るのは最も必要であるとして、その統一方法を詳細に示達した。
 これを受けた伊澤は、公有林野整理方針の策定に乗り出し、翌四四年三月内訓第二号を発して公有林整理方針及び公有林整理趣意書を郡市町村に示達するとともに、その整理着手を林務当局に命じた。これによれば、整理方針の内容は、部落有林野四万七、〇〇〇町歩を町村有に統一整理し、これに造林計画を定めたもので、目的は町村財産の増殖、町村自治の改善、農村の開発及び国土の保安の四つをあげていた。また同年三月二五日に「公有林野施業規則」(資社経上 四一七)を令達した。この整理方針は、実情に適したことと県当局の整理断行に対する強固な方針と相まって着々と進行し、大正元年一二月に伊澤知事が愛媛県を去るまでの間に大半が整理されるとともに、一か年の造林面積は一、〇〇〇町歩に達し、農商務省より交付される造林補助金額は全国府県中第一位にあった。この結果、愛媛県の公有林野整理方針は、全国府県の模範であると推奨されたのである。

 県会の動向と勧業振興

 明治四四年九月、県会議員定期改選では政友派は土木問題や幹部の不正問題などの失態が批判され、進歩派が八年振りに多数派の地位を回復した。一方、三年目を迎えた伊澤県政は多年の懸案であった土木問題を解決してその方針を確立したことにより、従来土木に振り回されて等閑に付された感のあった方面について、施設経営方針を画する姿勢を明らかにした。このうち警察関係施設には、警察汽船第二愛媛丸の新造と御荘警察署の新築を計上した。また、勧業の振興を県政の重点項目にあげ、原蚕種製造所建築、原蚕種配布、前年度の建議を受けた産業諮問会の設置、物産陳列場の設置などを新規事業にとり上げた。県会はこの県治方針に強い支持を示すとともに、さらに清酒及び醤油醸造業奨励のための専門技師の設置、製糸業改良奨励のための専門技術者の常置、製莚業保護奨励に関することの三建議を採択し、県当局に対して勧業政策の推進を強く要求していた。
 なお、この四四年通常県会で注目すべきことに経常土木費の一部修正があった。内容は、県道大野ヶ原線の災害復旧費六、二一八円六五銭を全額削除していた。この大野ヶ原線は、いわゆる土木問題の発端となった路線で、演習地を持つ陸軍省から道路の維持改善について要請を受けていたものであった。陸軍省指令を理由に原案維持を要望する県当局に対して、県会は超党派で、県が義務を負う根拠は薄弱であり、同道路は改修に巨費を要し人文・富源開発に利さない無用の道路であると論じて修正した。